富士浅間宮
ふじせんげんぐう


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【梵鐘堂跡】

寛永4年6月(約353年前)時の地頭北條出羽守氏良が田中内記重良を奉行として新に梵鐘作師藤原加賀守に鐘を鋳うしめ堂を造つて当社に奉納された。
欽惟国家万歳民生千秋
吉寛永第四行歳大月吉日 奉行田中内記重良
            治工藤原加賀守
安永4年頃の古文書にも毎年々正月三日の田遊祭神事には早朝より撞初めして民子の境内参入を俣し賑々敷く祭祀を執行したとあり安政3年12月掛川城主の命により武器を造る為め引揚げられた。社記書上帳によれば鐘の周り五尺弐寸目万三拾貫匁あつたと云ふ

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【富士浅間宮本殿】

重要文化財
富士浅間宮本殿
奥の建物が神社本殿です。約400年前、桃山時代に建てられました。
横へ回つて、透塀ごしに横から御覧ください。
屋根は檜皮で葺かれ、前面が長く延びた流造と呼ばれるものです。
クス材を白木で用い、いかにも神社らしい優美でおごそかな姿です。
棟札によれは天正18(1590)年建立
間口、奥行とも4.1m
重要文化財指定 昭和25年8月29日
説明板設置平成6年3月29日
静岡県教育委員会
袋井市教育委員会

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冨士浅間宮の由緒

重要文化財
冨士浅間宮の由緒
御祭神 木花開那姫命 天孫瓊瓊杵尊の妃におわし大山祇命の御娘 別の御名神吾田鹿葦津姫命と曰す
神神徳=我国母の元始にして日本女性の鑑と敬仰され火難消徐・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として信仰が著しい。
人皇50代桓武天皇の大同2年坂上田村麿将軍東夷征伐の破り浅間大神の神力に依り賊を征服され給ひしを以って其の神恩に報い奉らむと富士の大神を此の地に迎へられ壮大な社殿を営み創祀された爾来壱千二百拾余年祭祀を厳修された古来より城主地頭等の尊崇厚く武家時代に入るや源朝臣足利尊氏、足利直義は先例を守り神領を寄進し下って今川上総介泰範も先規に依り弐ヶ所の神領を奇進した。
徳川氏は特に本社を崇敬する事極めて深く慶安2年8月より本社に対し十六石九斗の御朱印を賜はった。
元亀3年頃(約430年前)戦乱の兵火に罹り社中の建物悉く灰燼に帰したが爾来社頭の再建営繕が始まった。
天正14年2月御本殿の再建に着手し、天正18年7月9日竣功す。時の地頭本間源三郎重泰奉行大工棟梁新池村住人鈴木彦九郎丸君正の御棟札がある。以後寛永15年3月久野丹羽守宗能再建、安永4年12月再建 文政12年5月再建の都合御棟札四枚も御本殿一宇と合せて国重要文化財に指定されている。
寛永4年6月原川城々主北条出羽守氏良公鐘搗堂を奉納元禄12年正月横須賀城各主西尾隠岐守宗成公御門帳二枚を奉納され現存する。
明和4年6月当管谷村久野彦ヱ門宗春楼門一宇再建された。奥行三間間口四間桧素木作 随神が安置されていたが安政元年の地震で倒壊し今は礎石を残すのみ。明治に及んでは12年7月24日郷社に列す
明治40年5月27日内務省告示第6号を以つて特別保護建造物(国宝)に指定され神饌幣帛料供進神社となる。
本殿=國重要文化財 二間社流造素木作、屋根桧皮葺五・一坪脇障子彫刻あり又柱等に楠の古木を使用して有り用材似非常に苦心の跡しのばれるとの専門家の話である。
幣殿=流れ造素木屋根銅板葺十二坪昭和25年3月建立。
拝殿=入母屋造素木作十二、五坪享保元年再建茅葺を大正元年瓦葺とした
神饌所=平屋四坪安政2年5月再建茅葺を大正元年瓦葺とし修理し、其の後、平成9年9月に現在の建物に改築した。
境内の廣さは4800余坪其の外に神社有地が接続していて不入斗部落の裏一帯の林は皆神社林であって宏荘な神殿を中心に老桧がうつ蒼として千古の森を■しめている。

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祭禮由来

往古より不入斗村は神領であって祭礼の都数も多く其の祭礼日等も種々と変更が有ったと思われる。元禄12年頃の古文書に依れば6月朔日祭礼周知郡村松村油山寺より僧徒六人来り幣帛を奉り経文を読誦すとあり6月28日祭礼周知郡上久野村可睡斎より僧徒八人来り御神酒献上経文を読誦すとあり当方よりは御供米弐斗相送り候之が例式に候とあり当時の様子が判ります其の外に寛永年度(4年)の古文書によれば原川城主北条出羽字鐘を新に作り鐘撞堂を奉納するとあり其の書に1月3日には早朝鐘を撞初めて村人の神社への参入を促したと託され田辺祭が往吉より執行されたと書かれて有る外に当社の手水含の側から奥へ流鏑馬の馬場があり下の池の東側の高き所に十林寺なる寺が有ってそこの所迄神馬を先頭にして数頭の馬による流鏑馬祭が行われたと書かれているが現在では行われていない。
其の后には七月又は九月頃例祭が行われた事もあり現在は十月中頃と変ってきている田遊祭は現在も盛大に行われて特に変っているのは柳の枝を鍬となし榊の小枝を早苗として氏子全戸から男子が集り田遊行事が行われる事で、次に当社では古来からの習わしで例祭には生きた鯉生きた鶏を献上し餅には牛の舌と云ふ餅をもあげるのが例で現在も行われる其の外に紅白の奉幣弓矢があがる。
以前には七十五膳と言って農作物凡ゆる収穫物が土器に盛られて幾膳も献上されたが段々と略されて来た。

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郷社 富士淺間宮

祭神 木花開耶姫命
創立年代詳ならず、但し伝へ云ふ、当社は坂上田村麻呂、東夷征討の際、勧請して山名神社と称し、神劒一口を献せりと、(今に山名神社と称し、神劒現在す)旧朱印高十六石九斗を有せり、天正18年領主本間源三郎再建の棟札、及寛永15年同北條出羽守再建の棟札を蔵す、明治12年7月郷社に列せらる。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神饌所等を具備し、境内は4003坪(官有地第一種)を有す、社頭在田中松林之中と風土記に見えたり。
掛川志稿に云く、「不入斗、云々、今俗に計を斗に誤る、此村富士淺間あり、古祠也、其神領の祖税は、公私領の外なれば、其符に入れ計らざりしより村名となる、此邊の村々は、昔久野城主三郎左衛門宗能旧領也、天正11年の淺間宮の棟札云、遠州周智郡山名庄、不入斗之郷地頭本間源三邸重泰、此本間氏は、久野宗能の親類也、又此村周智郡に隣る、故に周智郡とせしにや、鰐口銘には、天正17年山名郡不入計之郷とあり、或は此浅間を以て、延喜式の山名郡郡邉神社とする者あり、彼他州にある不入計村、大概相近く、古嗣或は式社あれば、此淺間も亦式社なるべし、又郡邊神社は、一本にこほりべと訓たれど、久奴部なるべし、今久野村あり、即古への山名郡久奴郷なり、久野と不入計と其地相近し、
富士淺間宮
遠江国富士不入計(安岡彌六、同彌七、同余一吉良良右衡門次郎入道等跡)事、右為当社領、守先例可致沙汰者奉寄之状如件
建武2年11月10日源朝臣(足利直義)

明治神社誌料






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