鎌田神明宮
かまだしんめいぐう


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【由緒】

御由緒
当社は古くは島名神社とも称し、延喜式(平安時代に編纂された格式)に記述がみられる式内社である。 
鎌倉時代より、幼児虫封じの神徳顕著故を以て知られている。
今より1300年前の人皇40代天武天皇白鳳2年(651年)豊受姫伊勢国より渡御し給う、中島浜表に白羽の箭降り立ち光を放つ、諸人恐れて近づくものなし。
翌日海上光り渡り波浪競い来たり、御船と共に跳び上がり箭と一所に納まり給う。
「万民奇異の憩を為すところ神託あらたかなり、我は是豊受の神なり、永く鎮座の処は重ねてことを示すべし。」と。
宣給い三日を経て、農具の鎌と箭と共に当郷の原に納まり給う。
依て此の地を鎌田の里と伝ふて、今も御鎌田と称する田が有り、崇敬者祈願の御礼とし御鎌を奉献する。往古御厨十七郷一円を神領地となしたが応永年間の乱に押領され次で永禄・天正の兵火に神殿古証文等悉く焼け失せたのである。
徳川家康公の駿河在城の折高百石の御朱印を賜りまた武具鏡をも下賜されたが今は当社の宝物となっている。
しかして明治に及ぶ。明治12年7月に県社に列格す。
尚当社は式年御遷宮は20年毎に、大遷宮は60年毎に造営を営まれてきたもので、社有地5517坪なり。
神明宮由緒補足
天武天皇即位2年(白鳳2年、西暦651年)、伊勢国から豊受大神が福田町中島の里に渡御した。
村人たちは恐れおののいて近づけず、草で編んだ薦を引いてその上に大神様に御座りを願ってその前で伏し拝んだと伝えられる。
大神は白羽の箭(矢)となって光輝いたため、翌日、船とともにこの箭を納めておいた。
このとき仮御殿を建てて御祭したのが神明宮の始まりであり、またその場所が假屋崎と呼ばれた。
3日後、この箭は農具の鎌と共に当地に飛来した。このため鎌田の地名がうまれ、そこに豊受大神を祭るようになった、という。
当社は古、島名神社とも称し、平安時代に編纂された「延喜式神名帳」にみられる由緒正しき式内社である。
鎌田の地は平安時代の初め頃には伊勢神宮の神領地(荘園)であった御厨となったので(最古の記載で901年以前とある)、その関係から早くから神明宮が祭られていたと思われる。
「吾妻鏡」(鎌倉時代の歴史書)には平安前期(923−931)には外宮禰宜の爲保が給主となっていたことが記されている。
「神鳳抄」によると百町の面積をもち、伊勢神宮内宮、外宮に上分として絹21丁を納めたとある。
「遠州風土記伝」― 豊受大神宮の御領地、神戸郷鎌田御厨、今之を数えるに19村なり。
西は今之浦の流れ以東、三ケ野川、諸井川を限り、北は原野、南は中島の海辺なり、とある。
それが鎌田御厨の、鍬影、長江、東貝塚、西貝塚、大久保新田、反所、稗原、新出、中、東新屋、和口、小島、南島、五十子、蛭池、大立野、西之島、下太、中島の19村であったという。
この御厨19村、現21村の各神社は現在も神明宮の摂社であり、神明宮を総鎮守として斎祭る。
大祭時(例祭の他に、元旦祭、祈念祭、大祓い、新嘗祭)には各地より氏子が集まるがこれだけの歴史と摂社をもち今でもその関係を続ける神社は他をみない。
御厨に対しては国司の押妨がたびたび起こったが時の実力者に大切に守られてきた。
1181年、安田善定が押領しようとした時には源頼朝がそれを阻止している。神宮領であるために、その保護がはかられたのである。
そして頼朝により鎌田御厨良角新開神領九町三反を寄進した、とあるが御厨の丑寅の方向とされ現在の三ケ野、新貝であると思われる。
また、外宮禰宜渡会康高の娘が幕府に滅ぼされた和田義盛の妻となっていため和田義盛の乱(1213年)の後に没収されかかったこともあるが、同様に許され、さらに御厨内十八町歩が保護されている。
正平2年(1347年)、足利尊氏が恩賞として稗原和口郷を当国人松井助宗に充行てる。
永禄11年(1568年)に徳川家康が遠州攻略を進める。
元亀3年(1572年)、神明宮は武田信玄勢の焼き打ちにあうが、天正17年(1589年)に、家康により田高百石の手厚い御寄附を受け復興する。
同時に鎌田神明領百姓等にあてて「徳川家七ケ篠定書」がだされ、御厨村は徳川家康の知行領として組み込まれていった。
このように神明宮は江戸時代には百石の朱印地を鍬影村にもったわけだが、(徳川家光により寛永13年11月9日神明領につき「遠州国山名郡御厨庄鎌田郷鍬影村之内百石事任先規所寄付也云々」とある) これは小国神社、五社大明神、諏訪大明神、蒲神明宮、中泉八幡宮、白羽大明神、日坂八幡宮に次ぐ遠州地方の大社であったことを示す。江戸時代中期に参拝した宮田泰好は「社頭於今盛也」と書きとめている。(遠江国式社集考)。
武士の崇拝も厚く横須賀城主西尾氏や旗本松平氏などの寄進金額を記した寄進札や絵馬、地元住民の神門奉納の棟札や絵馬もある(いずれも元禄時代、西暦1700年代のもの)。
さらに拝殿には古くからの無数の鎌が奉納され、あらゆる階層から厚い信仰を受けていたことを知ることができる。
氏子、中島の漁師の信仰としては、假屋崎は最初假に奉祈せし処なれば神事又は祈雨等の節は御厨十七カ村の人々海浜にて身を禊、右 屋の社頭に集合し、ここより行列をなして神明宮に参拝するを例となせり。
前記の縁故に由り、沿海漁夫等は祈願あれば即ち相次いで本社に参拝し、祈願成就する時はここに鎌を奉納するの例今に存せり「静岡県磐田郡誌」
三島由紀夫の作品「潮騒」の中に遠州の漁船が伊勢神宮に海を渡って御礼参りに行く様が描かれているが、これらの船は初鰹を当社境内社の船魂神社に奉納したのち、神宮へ渡っていったものである。
明治6年に村社となり、12年に縣社に昇格した。
このように神明宮と御厨は歴史的、文化的にとても重要かつ貴重なものであるといえる。
公式HP


【伊勢神宮から社殿古材譲り受け】

20年に1度の式年遷宮を2016年に迎える鎌田神明宮(磐田市)に伊勢神宮(三重県)から旧社殿に使われた御用材が譲り渡された。鎌田神明宮に御用材が届くのは、本殿を建て替えた1976年の「大遷宮」以来。袴田孝子宮司は「歴史のつながりに幸せを感じる」と話している。
 鎌田神明宮は651年の創建。祭神は伊勢神宮の外宮で祭られている豊受姫之神。平安時代初頭には伊勢神宮の神領地だったという記録が残るなど、伊勢神宮とのゆかりは深い。伊勢神宮では昨年、20年に1度の式年遷宮があり、旧社殿を解体した古材が出た。袴田宮司によると、古材はゆかりのある神社や自然災害で被災した神社を中心に譲り渡されるという。
 神明宮では60年ごとに本殿を造営する大遷宮、20年ごとに末社などを建て替える小遷宮を繰り返してきた。今回は境内に15ある末社のうち、稲荷(いなり)社の拝殿を新築する。袴田宮司や氏子らは1日、伊勢神宮に出向き、外宮のヒノキ板など約4トンを持ち帰った。今後、氏子が木材を引いて境内に運び入れる神事「お木曳(きひき)」を行う。
 費用などの問題もあり、式年遷宮を行っている神社は県内でもわずか。袴田宮司は「先々代の祖父が『本殿の柱はお伊勢さんから来た』と自慢していたのを思い出す。受け継がれてきた大切な習わしを守っていきたい」と言葉に力を込めた。
静岡新聞 2014/11/20


御厨古墳群

国指定史跡 御厨古墳群
磐田原台地の南東部、新貝から鎌田地区にかけては、多くの古墳が分布しています。市内には900基を超える数の古墳が知られていますが、特にこの地域には4世紀代という古い段階の、しかも大型の古墳が集中していることに特徴があります。
古墳群の中心である松林山古墳は、昭和6年に中心部分が発掘調査されましたが、その時に出土した副葬品からは、大和の王権と強い結びつきのあったことが推測されます。大和の王権による、東国支配の重要な地域であったと考えられています。
御厨(みくりや)とは、寺社に稲を供給した場所を示す言葉で、鎌田地区はかつて伊勢神宮の御厨でした。かつては、この地域を御厨村と呼んでいたことから、古墳群の名称としました。
松林山古墳(前方後円墳)全長107m・高さ10.6m
主な出土品:三角縁神獣鏡、内行花文鏡、短甲、剣、大刀、貝釧(水字貝製釧)、石釧、鎌、鉾、埴輪など
高根山古墳(円墳)直径52m・高さ8m
主な出土品:壺形埴輪、円筒埴輪
御厨堂山古墳(前方後円墳)全長34.5m・高さ4m
主な出土品:鏡、大刀、銅釧、耳環、鉄斧、土器
稲荷山古墳(前方後円墳)全長46.5m・高さ6m
主な出土品:壺形埴輪
秋葉山古墳(円墳)長軸50m・短軸46m・高さ6m
主な出土品:土器
磐田市教育委員会文化財課

社頭掲示板



島名神社

島名は志麻奈と訓べし○祭神詳ならず○御厨庄鎌田村に在す、(参考)例祭 月日、

神社覈録



縣社 鎌田神明宮

祭神 豊受皇大神 少彦名神
相殿 火産霊命 倉稻魂命 宇遅稚郎子命
別殿 天照皇大御神
社伝に云く、天武天皇白鳳2癸酉年、豊受大神、伊勢國より渡御し給ふ、中島濱表に、白羽箭立ちて光を放つ、諸人怖れて無近附者、翌日海上光り渡り、波浪競ひ来り、御船と共に飛上り、箭と一所に納む、萬民益奇異の想を爲したるに、神託あり、我は是豊受の神なり、今後永く鎭座すべき処は、重ねて可示之と宣ひ、三日経て農具の鎌と箭と共に、当郷の原に渡御し給ふ、依つて鎌田の里と曰ふ」と。是地伊勢外宮の御厨たり、故に近郷十七村を御厨村と称す、掛川志稿に、
「駅路より南、太田川今浦の間にある十七村を御厨庄と称す、東鑑神鳳抄等に載たる鎌田御厨ありし故なり、云々、東鑑に、治承5年5月、豊受太神宮禰宜為保、参入営中曰、遠江國鎌田御厨者、爲当宮領、延長年中以来、爲保教代相伝之処、安田三郎義定押領之、云々」
と見えたり、当社は實に是の御厨十七ケ村の総鎮守(今氏子と称するもの二十二ヶ村あり)にして、近世徳川墓府朱印百石を寄せ奉る、諸社御朱印写に云く、
「神朋領、遠江國山名郡御厨庄鎌田郷之内百石事、並宮廻竹木諸役等免除、任寛永13年11月9日先判之旨「永不可有相違者、神供祭礼無怠慢、可抽國家安泰之梱祈者也、仍如件、
寛文5年7月11日」
と、明治6年3月、村社に列せられしが、間もなく同12年7月、一躍して県社に昇格せしめらる。
社殿は本殿、別殿、拝殿、其他社務所等を具備し、境内は2528坪(官有地第一種)あり、因みに云ふ、
遠江国風土社伝が、当社の項に「今人謂島名神社云々」と記して。式内社島名神社に擬せしに、神祇志料の如きは、明らかに「島名神社、旧と中島村にありし島名神を、後御厨庄鎌田村に邉す、神明宮といふ」といへり、然れども、特選神名牒是説を取らず、殊に大日本地名辞書は之れを駁して「誤れり」と断言せり、蓋御痔なるが故なるべし。

明治神社誌料






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