小国神社
おくにじんじゃ


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【本宮山の位置づけ】

本宮山は當社から北方6Kmの所にあるが、それを仰ぎ見ることはできない。このことについて池邊彌氏は「山と神社」(『続日本古代史論集』中巻所収)の中で、「山を本宮山などと称して重視しながら、その社地からはその山が望めないのは、神霊は山に在り、祭の日にそれを神社に迎えて祭祀をとり行なうことを考えなくては理解出來ないものであろう。」と言つてゐる。ところが、當社の例祭は本宮山に神霊が現はれた2月17・8日を例祭日としてゐるにもかかはらず、この例祭の前後に本宮山から神を迎へるやうなことはしてゐない。本宮山の祭りは延宝8年の年中行事(『遠州周智一宮記』所収)によると、1月6日に社僧を中心として執行されてゐるのであり、その本宮山については「一宮ノ荒魂ノ社、奥院也。常ニハ於二御本社一奉レ備二御神膳一也」と記されてゐる。以上のことなどから、本宮山は神奈備山として最初から信仰の対象となつてゐたと考へるより、むしろ『静岡縣史』が説くやうに、神宮寺の社僧によつて密教的影響の下で附會されたものと考へた方がよささうである。だから江戸時代には磐戸大明神といつて蓮増院の支配下にあつたのであり、それは平安後期以來、佛教の力が強くなつてきたためであらう。
延喜式内社の調査研究


【公式HP】

創祀は神代と伝えられ上代の事で詳らかではありませんが、延宝8年(1680)の社記によると、人皇第29代欽明天皇の御代16年(555)2月18日に本宮峯(本宮山)に御神霊が鎮斎せられました。後に、都より勅使が差遺せられ、山麓約6kmの現在地に社殿を造営し、正一位の神階を授けられました。
それ以来、年々奉幣に預り勅使が下向され、文武天皇大宝元年(701)春18日に勅使奉幣の際、特に十二段の舞楽を奉奏されました。 延喜7年(907)の延喜式では式内社に列せられ、中世には武将をはじめ朝野の崇敬が極めて篤く近世に至りました。
元亀3年(1572)の戦では、徳川家は御神霊を別所に遷し、願文と三条小鍛治宗近作の太刀を奉り戦勝を祈願した後、社殿を全て焼失しました。天平3年(1575)に勝利を得た徳川公は、御本殿の造営、拝殿・楼門を再建され、更に社領五百九十石の朱印を奉り、以降代々の徳川将軍家より、社殿の改造・修復料を寄進されました。
明治6年6月13日に国幣小社に列せられ、明治15年3月に再度の火災により御本殿以下建造物などことごとく失いましたが、明治19年に復興され現在に至っております。
平成17年には御鎮座1450年祭が斎行され、「遠江國一宮さま」として崇敬され親しまれております。
小國神社の初見(宮内庁書陵部所蔵)
続日本後紀
周智郡や小國神社が歴史上初めて記録に見えるのは840年(承和7)。周知郡内の小國天神が従五位下を授かったことが「続日本後紀」に記されている。


小国神社

おぐにじんじや 静岡県周智郡森町一宮。旧国弊小社(現、別表神社)。式内社。
祭神は大己貴命。社記によれば、欽明天皇16年に霊験あって天聴に達し、周智郡本宮山に一社を勧請せられ、文武天皇の大宝元年(701)神託により勅使を下向せしめ現在地へ遷座の上「舞楽十二段」を奉納されたという。神階は『続日本後紀』承和7年(840)に従五位下、『三代実録』貞観2年(860)に従四位下、同16年従四位上を授けられた。白河天皇の永保2年(1082)清原則房を神主に補任し社務を執行せしめたことが『朝野群載』に見えている。遠江国一の宮。元亀3年(1572)徳川と武田の合戦に際し、神主鈴木豊前守小国重勝が神慮に基づき武勲のあったことから、江戸時代には徳川将軍家の崇敬篤く、慶長8年(1603)五九〇石の社領が寄進された。明治6年(1873)国幣小社に列格。同15年社殿炎上したが同19年現在の姿に再築された。
末社に宗像社、八王子社等があり、本社から約6Kmの本宮山上には奥宮、奥磐戸神社が鎮座している。例祭は4月18日(古くは2月18日)。神輿の神幸があり、前日から舞楽殿で十二段の舞楽がある。番外曲の「花の舞」のほか「連舞」「色香舞」「蝶の舞」「鳥の舞」「太平楽舞」「新まっく舞」「安摩舞」「二の舞」「抜頭舞」「陵王舞」「納蘇利舞」「獅子舞」の十二曲が舞われるもので、この地独特の芸態に特色があり、無形の民俗文化財の撰択をうけている。
また1月3日の田遊祭も田の仕事を順を追って演ずる古色ある行事で県の無形の民俗文化財。

神社辞典



小国神社

小國は乎久爾と訓べし〇祭神大己貴命、(神社啓蒙云一宮記)或云、猿田彦大神、(三オ図会)○宮代村に在す、(参考)例祭 月 日、○当國一宮也、(一宮記佐野郡已等乃麻知神社を当国一宮と戴す、今現存に従ふ)
神社啓蒙、(一宮篇)事任神社、在遠江國周智郡、一宮記曰、大己貴命、社記曰、一名小國神社也、遠州周智郡大己貴命者、欽明天皇御宇16年乙亥春2月18日、出現于遣所、再來奉崇小國一宮、無不欽仰奉仕也、云々、按先規注進如此、今茲寛文庚戊、依于右大臣家綱公之嚴命、殿閣再復旧貫者也と云り、(倭漢三オ図会同じ)連胤按るに、啓蒙にいへる如く、事任神を小國神の一名とする時は論に及ぱず、さて一宮記、己等乃麻知神社號事任髪、猿田彦神、遠江佐埜郡、また頭注、遠江国佐野郡己等乃麻知大己貴命也、と云る神號両説はさて置て、佐埜郡に坐すとはいかが、夫を啓蒙等に郡の違へるを弁ぜず、今現存する周智郡小国神社と究めて載せたる■漏ならずや、一宮記、頭注を著せし比、佐野郡己等乃麻知神社を当國一宮と申す一説のありしや、又伝聞の誤りを其儘に記せるや知べからず、なほ一宮記に謬説ある事は惣論にいへり、
神位
続日本後紀、承和7年6月戊辰、奉授遠江國周智郡無位小國天神從五位下、三代実録、貞観2年正月27日戊寅、授遠江國正五位下小国神從四位下、同16年2月23日癸丑、授遠江國從四位下小國神從四位上、
社職
朝野群戴六云、永保2年10月17日、神祇官移、遠江國、応令以清原則房補任小國社神主、執行社務事、右人任相伝理、充補彼社神主職、依例移送如件、
社領
当代御朱印高七百石
雑事
元亀3年9月22日東照神君御願書ニ、夫以当社小國大明神者、欽明天皇16年春2月、出現于遣所以來、累代聖主寳祚、朝廷鎮護霊神也、云々、神君光明山御出馬ノ時、神主鈴木豊前守重勝忠節アリ、其時御鑓ヲ給リ、今傅領ス、

神社覈録






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