淡海国玉神社
おおみくにたまじんじゃ


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【由緒】

淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)は、遠江国の総社です。
 大国主命(おおくにぬしのみこと)他十六柱をおまつりしています。
 創立年代は不詳ですが、平安時代の初期と伝えられています。ここは、遠江国の神々をあわせた神社ですから「総社(そうしゃ)」といわれています。
 都から赴任してきた国司が最初にお参りする由緒ある神社です。
 夏の「祇園祭(ぎおんさい)」には、天御子神社より神輿が渡御してきます。平安時代、この祇園祭において、「舞車(まいぐるま)の神事」が盛大におこなわれていました。(現在は廃絶)
 秋の「見付天神裸祭(みつけてんじんはだかまつり)」には、深夜の暗闇の中、矢奈比賣神社から神輿が渡御します。

公式HP



【淡海国玉神社】

遠江国の総社であり、本殿、幣殿、拝殿からなる。創立年は不詳であるが、平安時代の貞観年間(859年〜877年)に創建されたと伝えられ、「延喜式」(平安時代中期頃の律令法典)に記録される神社である。
例祭は、毎年7月15日の直前の金曜日、土曜日、日曜日に行われる。
【静岡県指定文化財】
本殿附棟札5枚
明暦年間(1655年〜1657年)再建
三間社流造(桁行5m 梁問3.2m)
木鼻・虹梁などの装飾が豊かであり、和様・禅宗様折衷様弍の造りである。
【磐田市指定文化財】
平成24年度から平成26年度に大規模な保存修復工事を実施した。
幣殿 文久3年(1863年)再建
切妻造(桁行4.5m 梁間3.5m)
拝殿 文久3年再建
入母屋造(桁行9m 梁間6m》
幣殿拝殿は、宮大工立川呂敬によって再建され、特に拝殿向拝の子持ち龍並びに見返り獅子・欄間の干支の彫刻に、その手法が顕著に表されている。
平成28年3月 磐田市教育委員会文化財課

社頭掲示板



淡海國玉神社

淡海は阿不美、國玉は久爾多麻と訓べし、〇祭神明か也〇見附駅に在す、惣社也、(式社考、同参考)例祭 月 日、
式社考云、見付駅ノ惣社大明神ナルベシ、見付ノ南ニ今浦ト云フ湖アリ、今ハ皆田園トナリタレドモ、古ハ大湖ナリシト云フ、見付ハ当國ノ府ナリシカバ、後世惣社ト號セシナルべシ、一説ニハ、豊田郡鹿島村椎ガ脇社コレ歟、古ハ此辺マデ入海也、と云り、』連胤云、椎脇社ハ猪家神社卜モ云説、猪家神社の所に挙ぐ、又按るに、大湖の有無に拘はらず、由縁ありて近江の國魂神を祭れるなるべし、摂津國菟原郡に河内國魂神、備前国御野郡に尾張針名眞若比女神、淡路國津名郡に伊勢久留麻神の在しと同例也、
社領
当代御朱印高七十五石

神社覈録



縣社 淡海國玉神社

祭神 大國主命
合祭 瓊々杵命 木花開夜姫命 (御子神社) 速玉男命
   事解之男命 伊邪那岐命 (熊野神社) 木花開夜姫命
   (浅間神社) 御間城入彦五十瓊殖天皇 (御霊神社)
   大山咋命 (山神社) 宇迦之御魂命 (知満稲荷神社)
   天照皇大御神 豊受大神 (神明神社)不詳
   (赤髭神社) 須佐之男命 豊受大神 加具土神
   (三神社) 大己貴命 (本宮神社)
旧と惣社大明神と称す、創立年代詳ならず、但し、延喜式神名帳に、「磐田郡淡海国玉神社」と見えたり、
遠江国式内社摘考に云く、「淡海国玉神社、見付駅の惣社大明神なるべし、見付田園にありたれども、古昔は大湖なるよし、見付駅は遠江の国府なれば、後世惣社と号せしなるべし」
遠江国風土記傳に云く、「淡海國玉神社、今人曰、見付宿惣社、向板人曰、旧社磐田明神也、是神瞰臨磐田海称見付宿、云々、今惣社是也」
古来当国鎮守惣社と奉称し、旧と朱印七十二石二斗余を有す、諸社御朱印写に云く、
『遠江国磐田郡見付総社明神社領、於同所五十八石七斗余、祇園舞車領十四石一斗余、合七十二石二斗余、並社中山林竹木諸役等免除、任慶安元年6月24日先判之旨、永不可有相違者也、
寛文5年7月11日」
朱印状中、祇園舞車云々と見えたるは、当社例祭に当り、天御子神社の神輿当社へ渡御あらせられ、8日間神事を行ふをいふなり、此神事は、一條天皇正暦2年、依頼舞車之神事執行、爾来連年絶えず、慶長7年の記録に拠れば、右神事の為め、6月6日より同14日迄八日間、往還の人を停止す、尤も古例の祭式にして、国府之法也云々と社傳に見えたるが如く、この神事は頗る有名の神事にして、謡曲舞車にも、
「是は遠江国見付のこふの者にて候、扨も当所の祇園会明日にて候、此祇園会と申すは、上下の旅人をかたらひ、西方東方を定め、車の上にて舞を舞する例にて候ふ。西方の舞手は候へ共、いまだ、東方はなく候ほどに、路次へまかり出で、放人をかたらはばやと存候、云々、紙園の祭水無月の云々、既に半も杉のむら云云」
と見えたり、但近世廃絶す、明治元年10月3日、植松少將、勅使として参向、金幣奉納あらせられしが、同5年6月縣社に列す、相殿御子神社は、式内社にして、当国式内杜摘考に、「見付駅に、大見寺といふ浄土宗の寺あり、其鎮守に、御子大明神というて小祠あり、是なるべし、神祠は古昔よりありしを、後に寺を造立して、此神社を直に鎮守とせしなるべし」と見えたるが、明治6年11月17日当社に合祀す、次いで熊野神社以下八社を同年中に合祀す。
社殿は本殿、幣殿、秤殿、其他神饌所、社務所、丈庫等を備へ、境内は1207坪(官有地第一種)あり、社地は塔の山を背にして、遠く遠州灘を望む、馳眺千里一碧限りなし。
当社祭神に関し、特選神名牒に、「今按、社伝祭神大國主命とあるは、國玉神と云ふを、ひだむきに、此神と思へるよりの誤なれば、祭神淡海國玉神として可ならん」といへり、考証は、三代實録、貞観7年5月8日戊子、授遠江國正六位上淡海石井神從五位下と見えたる、淡海石井神を当社に充てたり、其の説に云く、
「此神は式内淡海國玉神社なるべし、今も見付駅の内に、総社大明神と云ふは、即式内淡海国玉神社なり、さて此社の近邊の字を、北井と云ふ、北井神の小路など云ふ処もありて、凡て此邊水甚よろしき所也、されば此石井神は、国玉神と同じきならん、石井は、此邊の水よきゆゑに云ふなるべし、國玉は祭神の御名なるべし」
と、學者皆之に拠る、然れども石井の説未だ人をして首肯せしめがたきに似たり、されば当社明細帳には、「神官曰、石井神とは、此神往古磐田海の側、岩井村岩井原と云ふ所に鎮座せり、依つて淡海石井の称ありと云傳ふ」といへり、果して当社が淡海石井なるか、後考を俟つ。

明治神社誌料 






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