静岡浅間神社
しずおかせんげんじんじゃ


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【由緒】

●御鎮座
神部神社・浅間神社(二社同殿)及び大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と申し上げる。
神部神社は第十代崇神天皇の御代、約2100年前に駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座され、延喜式内社であり、平安時代には駿河国総社となる。『国内神名帳』には美和明神と記され、『類聚国史』に従一位と記載されており、この地方最古の神社である。
浅間神社は延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀され、爾来富士新宮として国司の尊崇を受ける。
大歳御祖神社は応神天皇4年(273)今から1700年ほど前に、古代この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「安倍の市」の守護神として創祀され、延喜式内社であり、『国内神名帳』に正二位奈古屋明神と記され、静岡市の地主神である。
三社とも朝廷をはじめ国司・武将等の崇敬すこぶる篤く、駿河国総社・静岡の総氏神さま、駿河の大社として広く信仰されている。
御本社神部神社・浅間神社・大歳御祖神社のほかに境内には、麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社の四境内社が鎮座している。
大拝殿 (国指定重要文化財)
一層目は千鳥破風付き切妻屋根、二層目は入母屋屋根の三層二階建て楼閣造りで、一般に浅間造りとも呼ばれる。高さ25mで全国唯一無比の大建築として有名。
●朝廷・国司・武門の崇敬
当社は延喜式内社として朝廷・国司の奉幣や祈願の尊崇を寄せられのをはじめ、鎌倉時代以降、歴代幕府など武門武将の崇敬を受け、社領の安堵・宝物の寄進など枚挙にいとまがない。
貞応3年(1224・元仁元年)執権北條義時公は当社に使いを差遣し社頭を検分せしめた。延元3年(1338)今川範国公は願文を納め、範氏公は天下泰平の祈願を修し、義元公は老母寿桂尼に無上の満足あらんことを祈願して、菩薩舞装束一式を奉納する等、今川家は氏神として庇護した。人質であった家康公(竹千代)は義元公が烏帽子親となって当社で元服式を行った。以降徳川氏のあつい尊崇を受けて、大御所として入府以来崇敬の真心を捧げ、徳川幕府の祈願所と定めた。
当神社の社領は久能寺(現鉄舟寺)・建穂寺領などの浅間惣社別当寺分が含まれており、両寺院は当神社配下のもと祭祀を行っていた。ことに二月会(現在四月に行われる廿日会)には建穂寺より稚児舞楽を、三月会(桃華会)には久能寺より菩薩舞を出仕して奉納し、一社二寺による祭祀が当神社の中心的行事であり、歴代幕府はこれの庇護に勤めた。これら祭祀の費用に充てるため、明治維新までに至る総石高は2313石の破格の社領が徳川将軍家より安堵されていた。
●社殿の造営
元仁年間(1224年頃)に鎌倉幕府は焼失した社殿を再建し、延文年間(1356年頃)には守護職今川家の造営があり、天正7年(1580)には社殿が焼失したことにより武田家は直ちに造営に取りかかった。また天正9年徳川家康公は武田家攻略にあたり戦勝を祈願し、平治の後に必ず再建すべく祈誓を為して社殿を焼き払い、当社背後にあった武田方の賤機山城を攻め滅ぼした。天正14年にはその誓いを果たすべく東海各国に勧進を行い、慶長年間社殿が造営されるに至った。さらに寛永11年(1635)家光公上洛の折、社殿の修造を命じ、日光東照宮や浅草寺などを手がけ幕府御用であった大工木原木工允藤原義久を幕府方の棟梁とし、華村長左衛門を地元大工方棟梁として造営が行われた。その後安永と天明の両度、町方の出火により社殿にも延焼したが、文化元年(1804)から60年余の歳月と、当時の金額で10万両の巨費を投じて再建されたのが現在の社殿群である。
この造営は徳川幕府直営工事として行われ、当社所蔵の古文書によれば、寛永年中の造営に携わった華村(花村)家をはじめ大工や塗師方の子孫、また全国より優れた職人が集められた。特に彫刻には信州諏訪の立川和四郎親子三代や弟子一門が携わり、その功により立川和四郎は幕府より内匠の号を賜っている。寛永より当社の造営に尽力した職人は、木工・模型・漆器などの工芸品を手がけるようになり、駿河指物・駿河漆器など静岡市の特産工業へと発展した。また模型はその後プラモデル産業へと発展し、静岡は全国一のプラモデル産地となっている。
境内は4万5千平方メートル。広壮華麗な社殿群はいずれも漆塗りの極彩色で、特に楼閣造りの大拝殿は浅間造りの代表的なもので高さ25メートルあり、殿内は132畳敷きの広さがある。
貞享元年(1684)ごろに貝原益軒の記した『吾妻路之記』には「美麗なる大社なり。日本にて神社の美麗なる事、日光を第一とし、浅間を第二とすと云う」とあり、古くから「東海の日光」と称えられていた。
明治元年神仏分離により別当である久能寺・建穂寺をはじめ多くの社僧寺院が廃寺(久能寺はのちに鉄舟寺へと引き継がれた)となり、境内にあった仏堂・仏像は臨済寺や音羽山清水寺へと遷された。
昭和46年6月社殿24棟が、平成11年2月、宝蔵・神廐舎が国の重要文化財に指定され、まさに“東海の日光”と呼ばれるにふさわしい佇まいである。
●皇室の御崇敬
明治10年11月4日 明治天皇は御参拝の儀を仰せ出だされたが、生憎の強雨につき岩倉内大臣を以って御代拝された。明治45年3月25日 皇太子殿下(大正天皇)は秩父宮・高松宮殿下とともに御参拝。昭和5年5月29日 昭和天皇御参拝。同10年11月8日 東伏見宮大妃殿下御参拝をはじめ、遷座祭・御鎮座式年祭には幣帛料、天皇皇后両陛下の県内行幸啓には幣饌料を下賜されている。
●文学・芸能・その他
能楽の始祖「観阿弥」は今川家に招かれ当社の大前に能を奉納し、その後当地において没した。観阿弥最後の舞台として知られており、楼門脇には観阿弥の碑がある。
泉鏡花の『婦系図』にも当社が語られている。
海外雄飛で有名な山田長政公の産土神でもあり、長政公奉納の「戦艦図絵馬」(写)を所蔵する。
公式HP


【文化財】

重要文化財(国指定)
楼門建造物神部神社浅間神社(23棟) 神部神社浅間神社本殿(附:棟札1枚)
神部神社浅間神社中門(2棟)
神部神社浅間神社透塀(3棟)
神部神社浅間神社拝殿(附:棟札1枚、絵図2枚)
神部神社浅間神社舞殿(附:棟札2枚、絵図2枚)
神部神社浅間神社楼門(附:棟札1枚、絵図2枚)
神部神社浅間神社回廊(2棟)(附:棟札1枚、絵図1枚)
神部神社浅間神社総門(附:棟札1枚、絵図1枚)
神部神社浅間神社神厩舎(附:棟札1枚)
神部神社浅間神社宝蔵(附:棟札1枚)
境内社麓山神社本殿(附:棟札1枚、絵図2枚)
境内社麓山神社中門
境内社麓山神社透塀
境内社麓山神社拝殿(附:棟札3枚、絵図1枚)
境内社八千戈神社本殿(附:棟札1枚、絵図3枚)
境内社八千戈神社中門
境内社八千戈神社透塀(2棟)
境内社少彦名神社本殿(附:棟札1枚、絵図1枚)
駿府浅間惣社御造営御勘定帳 2冊
棟札 3枚
寛文十年社中絵図 1枚
大歳御祖神社(3棟) 大歳御祖神社本殿(附:棟札2枚、絵図1枚)
大歳御祖神社中門
大歳御祖神社透塀
美術工芸品太刀 銘長船住人長光
  小牧・長久手の戦の和睦の印として、秀吉から家康に贈られた太刀で、家康が大御所として駿府在城の折、大歳御祖神社に奉納したと伝えられる。
静岡県指定文化財
紅糸威腹巻(1999年3月15日指定) - 家康のために今川義元が調進したと伝えられる。(「腹巻」は鎧の一種)
家光公奉納御神服調度品類(古神宝類 2000年3月17日指定)
三十六歌仙懸額十八面(2001年11月26日指定) - 寛永11年(1634)、狩野探幽33歳の作。家光が浅間神社造営に際して奉納したもので、書は青蓮院尊純法親王の筆。



神部神社

かんべじんじや 静岡市宮崎町。神部神社・浅間神社。大歳御祖神社(↓静岡浅間神社)の一社。旧国幣小社(現、別表神社)。
祭神は大己貴命で瓊々杵命・拷幡千々姫命・東照宮を本殿相殿に配祀している。本殿は浅間神社本殿と比翼になった流相殿造である。創立は不詳であるが社伝では崇神天皇の御宇と伝えている。延喜式内社、『吾妻鏡』貞応3年(1224)2月に「当国惣社并富士新宮等焼失、神火云々」とあり、駿河国府がこの地に置かれたことから総社となっていたことが知られる。『国内神名帳』には明神号三三所の中正四位下八所の一に美和明神として加えられている。中世以降、今川氏・武田氏・徳川氏の尊崇寄進があり江戸時代にに幕府から総社領として二〇〇石余、別当領として八九九石余の朱印地が寄せられ、御神前御鍮役料、神供役料等三三石余のほか他の二社分と合わせると総高二六一二石余に及んでいた。明治6年(1873)県社に同21年に国幣小社に列し、例祭4月5日。
静岡浅間神社
しずおかせんげんじんじゃ 静岡市宮崎町。神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社を総称して一般に静岡浅間神社と呼んでいる。三神社は由緒を異にしながら古来より同一境内に鎮座し、明治6年(1873)には三神社ともに県社に、また境内神社の麓山神社は独立の神社として同12年郷社に列した。同12年三神社ともに国幣小社に昇格し麓山神社は三神社共通の境内神社となった。戦後は三神社はそれぞれ独立の宗教法人として登記されてきたが、昭和52年「神部神社・浅間神社・大歳御祖神社」として一法人となった。三社のうち本頂では浅間神社について述べる(神甜神社・大歳御祖神社の頂参照)
▼浅間神社 祭神は木花開那姫命で瓊々杵命・拷幡千々命を配祀する。創立年代については社記によると醍醐天皇の勅願によりて延喜元年(901)新宮を造営して現在の富士宮市鎮座の富土山本宮浅間紳社より御分霊を勧請して同7年従二位の神階を奉ったというもこのため富士宮の富士本宮に対して当社は富士新宮と呼ばれた。現今の社殿は文化年間の造営。本殿は流相殿造と呼ばれる神部神社と共通のもので中央に一間の合の間をもつ比翼三間社流造。また拝殿は浅間造りと呼ばれる重層楼閣造りで、立川流最大の傑作とされる宏壮な建物。本殿・拝殿以下中門・透塀・回廊・舞殿・楼門・総門は、境内神社の麓山神社(祭神は太山紙神で日本武尊を配祀)、八千戈神社(祭神は八干戈命)、少彦名神社〔祭神は少彦名命)の建物とともに重要文化財に指定されている。
また境内神社玉鉾神社には羽倉東麿大人命。岡部真淵大人命・本居宜長大人命・平田篤胤大人命の国学四大人を祀っている。4月1日〜5日の廿日会祭(例祭は4月5日)は稚児舞楽や山車屋台の曳き回しがあり静岡まつりと称して全市をあげての祭礼となる。また4月3、4日と11月3、4日の昇祭・降祭は浅間神社の祭神が麓山神社に祀られる父神を見舞いに昇り翌朝降りられる特殊神事。また境内には史跡賎機山古墳や国宝等の社宝を納める文化財資科館もある。

神社辞典



神部神社

神部は加牟倍と訓べし○祭神大己貴命、相殿拷幡千々姫命、瓊々杵尊、志叉云、天照太神(風土記)○府中志都機山麓惚社相殿に在す、(参考)例祭月 日、○惚國風土記五十五残欠云薦河安弁郡神部神社、則日本武尊、所祭太神宮也、(以下虫食)」駿河国志云、賎機山惚社本社、相殿の神二座、類聚國史に、止豆鰭大己貴神社、又延喜式に、当國安倍郡神部社と申奉るは、則惣社の御事也、本社は大己貴の大神にてまします、又國史に、惣社は拷幡千々姫と瓊々杵尊両神を祭り奉るとありて、紛らはしきやうなれども、今本社は大己賞命にて、瓊々杵尊と拷幡干々姫は相殿にまします、神部神社は別社、七社の中に、天照太神まします、日本武尊此國に下り玉ひし時遥拝の霊跡にて、伊勢太神を祭り玉ふとて、
類社
甲斐國山梨郡、同國巨摩郡神部神社、各一座.

神社覈録






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