香取神宮
かとりじんぐう


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【文化財】

国宝
海獣葡萄鏡 1面(工芸品) 直径29.6cm、縁の高さ2cm、重量537.5g、白銅製[18]。中国・唐時代の作。鏡背は葡萄唐草の地文様の上に獅子のほかさまざまな鳥・獣・虫を表す。鏡名の「海獣」は、鏡背中心部の鈕(つまみ)に表された?猊(さんげい)を指す。?猊は中国の伝説上の生物である。正倉院の南倉には本鏡と瓜二つの銅鏡があり、香取神宮鏡は正倉院の鏡と全く同一の鋳型から造った同笵鏡ではないが、両者は関係があると推定される。香取神宮に伝来した経緯は未詳[52]。宝物館内に展示。昭和28年3月31日指定。
重要文化財(国指定)
本殿(附 棟札1枚、銘札1枚、海老錠3箇)・楼門(計2棟)(建造物) 本殿は昭和52年6月27日指定、昭和58年12月26日に楼門を追加指定。 古瀬戸黄釉狛犬 1対(工芸品) 阿吽一対の古瀬戸の狛犬。陶製。阿形(あぎょう)像の高さは17.6cm、吽形(うんぎょう)像は17.9cm[18]。技法・作風から、鎌倉時代後期または室町時代初期の作と見られている[18]。宝物館内に展示。昭和28年3月31日指定。なお阿形像は昭和51年7月1日発売の250円普通切手の意匠になっている。
双竜鏡 1面(工芸品) 直径20.5cm、縁の高さ5mm(蒲鉾形)、白銅製。平安時代の久安5年(1149年)の銘があり、鏡背文様を有する在銘の和鏡としては最古の例である。鏡背文様の様式は一般的な和鏡とは異なり、中国の宋あるいは朝鮮の高麗鏡に影響を受けたものと見られる[53]。宝物館内に展示。昭和28年11月14日指定。
香取大禰宜家文書 15巻7冊(381通)(古文書) 大禰宜を世襲した香取家に伝わる古文書。平安時代後期から江戸時代までの文書381通からなる[18]。関東の神社文書としては代表的な遺品とされる[18]。個人所有。昭和60年6月6日指定。
登録有形文化財(国登録)
香雲閣(建造物) - 平成12年2月15日登録。
拝殿・幣殿・神饌所(以上1棟)(建造物) - 平成13年4月24日登録。
千葉県指定文化財
有形文化財 旧拝殿 1棟(附 棟札4枚)(建造物) - 平成19年3月16日指定。
古神宝類(工芸品) 神宮に伝わる神宝が一括して指定されている。内訳は、奈良時代から江戸時代までの銅鏡39面、「神代盾(しんたいたて)」とも称される盾形鉄製品2面、鉄釜1口、金銅扇子形御正体2面、金銅扇6柄、銅製供器(椀形)9口、鉄製供器(脚付円盤)10脚、太刀(銘利恒)1口、行器(元和4年在銘)1口、手筥3合、櫛108枚、木造獅子口面等3面、木製神号額(伝亀山上皇宸筆)1面、香取古文書5巻等。宝物館内に展示。昭和35年2月23日指定。
天然記念物 香取神宮の森 - 昭和49年3月19日指定。
香取市指定文化財
有形文化財 神庫(建造物) - 平成6年3月1日指定。
神徳館表門(建造物) - 平成7年6月1日指定。


【香取神宮】

香取郡香取町大字香取字亀甲山にあり、境内9768坪、祭神は経津主命を主神とし、武甕槌命・天児屋根命・姫大神を合祀す。社傳を按ずるに神代草創の世に当りて経津主命・武甕槌命の二神芦原中津国を平定し、香取鹿島の両地に子孫を留めて東国の鎮とし給ふ。神武天皇紀元18年始めて宮柱を此の地に建て、爾来歴朝国土経営の功勤を重じ、特に尊崇を厚くし祭典の礼を厳にしたまへり。舒明天皇3年始めて圭田を奉じ神礼を行ひ、皇極天皇2年3月水災に因りて勅使を遣し馬・錦・鋤・鍬を進められ、文武天皇の朝に本朝鎮守棟梁の号を賜ひ、勅して社殿を造営せしめらる。弘仁3年6月令して本宮及び住吉・鹿島の三神の神社に於ては二十年毎に正殿を改造すべき例を定め、承和3年5月正二位、同6年10月従一位、嘉祥3年正一位に叙せらる。元慶6年12月9日、勅して本州の除税五千八百五十五把を神宮雑舎を造るの料に充て、延喜の時名神大社に列し、社殿造営及び祭祀用途の例を定めらる。爾来屡奉幣使あり、当時の神領方七里に亘れりと云ふ。養和元年10月源頼朝下福田郷を寄附し、建久8年社殿を造営し千葉常胤をして其の事を替せしむ。是より千葉・葛西・豊島の諸氏造営奉行たり。文永8年2月亀山天皇正一位勲一等の勅領を賜ひ、正平7年足利尊氏戸頭領を寄附し、文中元年11月常陸及び本州諸要津の海夫並に戸ヶ崎・大堺・行徳等の関務を知行することを嘱す。宝徳元年11月足利義政書を下して本宮神領守護役臨時の課役等を除く、天正18年豊臣秀吉、浅野長政、木村重茲をして制札を建てしめ郡卒の侵掠を禁ず。同19年徳川家康香取郷の地千石を寄附して神領となし、後世をして違ふこと勿らしむ。元禄11年徳川綱吉造営の工を起し、社殿以下悉く之を新造す、今存するもの是なり、此の時鳩鴿二千羽を社頭に放つ。嘉永6年11月綸旨あり、異類退散の祈祷を行はしめ、爾後屡祈祷の綸旨あり、白銀及び御米を寄附せらる。明治元年12月9日勅使下向、関東及び奥羽鎮定の報寶式あり、同3年宣命使坊城俊政大奉幣式を執行し、同4年11月15日大嘗会あり、是の歳官幣大社に列せらる。
明治37年2月16日露国に対する宣戦の奉告祭を執行し、同38年12月7日日露平和克復の奉告祭あり。同44年5月今上陛下東宮に在はせしとき、親しく参拝あらせられ、大正2年11月8日皇太子裕仁親王並に皇子雍仁親王・宣仁親王の三殿下参拝あらせられたり。大正3年独逸に対する宣戦の奉告祭あり。同4年11月御即位大礼報告祭を執行せらる。
社殿を分ちて正殿・拝殿・神楽殿・神饌所・楼門等とす、大華表三あり、第二・第三は社前数歩の間に在り、第一華表は北方十八町を隔てて津宮村利根川の畔にあり、里人濱の華表と称す。境内喬木蓊鬱として其の間に数十宇の摂社・末社相連り、規模荘厳なること詣拝者として粛然畏敬の念を起さしむ。本宮は本邦著名の大社にして、古文書の多きこと天下に冠絶すと云ふ。神寶も亦多く就中海獣葡萄鑑(直径九尺五分)は明治37年2月国寶に指定せらる。
本宮に属する摂社・末社は三十一座にして之を區別すれば左の如し。
一、側高神社、本郡奮大倉村に在り
一、返田神社、本郡奮返田に在り
一、大戸神社、本郡大戸村に在り
一、奥宮神社、本郡香取町に在り
一、忍男神社、本郡津宮村に在り
一、膽男神社、同上
一、鹿島神社、神宮境内に在り
一、匝瑳神社、同上
一、又見神社、本郡香取町に在り
以上九社を摂社とす。
一、天降・諏訪・花園・六所・(雨に霊)・竈・馬場殿・桜大刀自市の八座を境内末社とし、其の余の十四座を境外末社とす。 祭典中、例祭・祈年祭・新嘗祭の三大祭には地方長官を幣帛供進役として奉幣せしめらる。其の他歳旦祭・元始祭・紀元節祭・天長節祭等の中祭、軍神祭・大饗祭・白馬祭・射礼式・春季祭・御田植祭・流鏑馬式・秋季祭・賀詞祭・内陳御神祭・団喜祭等の小祭あり。 軍神祭は十二年毎に一回執行する盛典にして神輿津宮鳥居河岸より御船に乗じ、香取浦に神幸し佐原町を経て還宮す。供奉の人々武装を為し頗る古代の風を存す、傳へて神功皇后の征韓の役に擬するものなりと云ふ。

稿本千葉県誌



香取神宮

かとりじんぐう 千葉県佐原市香取。
旧官幣大社(現、別表神社)。利根川の河口近くに開ける水郷地帯に、鹿島神宮と並んで東国古代史を物語る社である。祭神は経津主命。またの名を伊波比主(斎主とも書く)命という。記紀神話の国譲りに出雲国に降って、鹿島の神とともに大功のあった神である。その後国内を巡り、東国、東北の各地を鎮定し、この地にとどまったという。
相殿に比売神・武甕槌命・天児屋根命を祀り、春日大社と同祭神である。『延喜式神名帳』には香取神一座とあり、名神大社に列し、臨時祭式に20年一度の正殿造替を制している。元慶6年(882)『三代実録』の記載には神階正一位勲一等の極位に昇っている。下総国の一の宮を称し、近世の『香取志』は旧記を引用して、当宮を神武天皇即位18年の創建と述べている。鹿島神宮同様、香取御子神社のことが『延喜式神名帳』『常陸国風土記』に見える。東国随一の大社であった。朝廷・藤原氏のみならず、源頼朝をはじめ武将らの崇敬篤く、江戸時代には祭神の事跡を慕う武道家が参籠して武技を練る者が続出した。明治4年(1871)官幣大社に列し、その後勅祭社となった。神殿は本殿・幣殿・拝殿と続く権現造で、桧皮葺。黒漆塗の社殿に極彩色の長押を配し、荘重で華麗である。元禄13年(1700)の建築。神殿の南に総門(楼門)の朱色が目を引く。老杉の林叢が囲み、正に聖域である。社宝は数多く、宝物殿に陳列されて拝観出来る。国宝の海獣葡萄鏡、重要文化財の古瀬戸狛犬一対、双竜文鏡はその代表といえよう。4月14・15日例祭を行い、軍神祭ともいう。午年は式年の大祭とする。天孫降臨に先立って国土を平定した祭神の軍容になぞらえたという供奉人数1000人が神輿をかつぎ、津宮の仮宮に渡御し、170余艇の船を従えて大利根の本流をさかのぼる。佐原の牛ケ鼻に至って鹿島神宮・小御門神社の奉迎をうけて祭典がある。その後佐原川を経て陸路を本宮に還る。供奉者は甲胃その他定めの衣装、持ち物を捧持し、規模の壮大さ行列の華麗さを比類のないものにしている。平年は津宮の仮殿までの神幸である。また11月29、30日に大饗祭がある。行器祭ともいい、東国33力国の神々を饗するため、33個の行器に神饌を盛って供える。この行器は水郷の葦で編み上げた大型の器である。
5月5、6日両日の田植祭も古式を伝えて有名である。
分社ば埼玉県東部の北葛飾郡に、春日部・越谷・三郷の各市に、千葉県野田・柏市に、東葛飾郡の関宿・沼南の各町などにことに数多く分布している。主要な社を列記する。
▼香取神社 福島県南会津郡伊南村。旧郷社。▼埼玉県北葛飾郡庄和町。旧郷社。▽千葉県流山市北。旧郷社。▼香取伊豆御児神社 宮城県石巻市折浜。▼鹿島香取神社 茨城県水戸市青柳町。

神社辞典



香取神宮 名神大月次新嘗

香取は郡名に同じ、和名鈔、(郷名部)香取、○祭神経津主命、相殿比売神、天児屋命、武甕槌命、(社伝)〇香取郷に在す(地名記)O式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、下総國香取神宮一座、〇当國一宮也、(一宮記)〇惣國風土記残欠百二云、輯取神社、圭田公穀之外一千束、所祭経津主神也、舒明天皇3年辛夘7月、始奉圭田行神礼有神家巫戸祝部之宅、〇日本紀神代巻上、一書曰、斬軻遇突智時、其血激越染於天八十河中所在五百筒磐石、而因化成神、號曰磐裂神、次根裂神児磐筒男神、次磐笥女紙児経津主神、」同下、一書曰、天神遣経津主神、武甕槌神、使平定葦原中國、是時斎主神號斎之大人、此神今在乎東國楫取之地也、」古語拾遺云、経津主神、是磐筒女神之子、今下総國香取神是也、
此外にも経津主神の御名見えたれど爰に略す、抑日本紀神代巻にては、経津主と武甕槌は別神なる事著しけれど、同神武巻、及古事記等の文にては、同体異名の貌なるに依て、古事記傳、古史徴等にいへる事どもあれど、こは學者流の論にして、奉仕の身よりとにかく説なすべきにあらず、さるを香取志の作者、当社祠官小林重規は同体異名辮を著し、鹿島志の作者、当社神官北條時隣は古事記伝の説を主張す、是みな學問に泥める説也、労々社職においては、専ら社伝を守るべし、學者流の論をたつれば、却て敬神の實情に背くもの也、
鎮坐
番取志云、建久年中旧記、神武天皇即位18年戊寅、始建宮柱、云々、」古老口碑に伝ふる所、神武元年18年の両説あり、
修理
臨時祭式云、凡諸国神社随破修理、但下総國香取神社正殿、廿年一度改造、其料便用、神税、如無神税、即充正税、O日本後紀、弘仁3年6月辛夘、神祇官言、香取社隔廿箇年一皆改作、積習為常、其弊不少、今須除正殿外、随破修理、永爲恒例許之、」三代實録、元慶6年12月9日丁未、勅以下総國神税稻五千八百五十五把九分四毛、充造正一位勲一等香取神社雑舎料隔二十年一作例也、
社職 樂人 把笏
臨時祭式云、下総國香取神宮司准從八位、以封戸充之、』同云、凡香取神宮樂人装束者、令國司付領、若有欠失、拘共解由、」続日本後紀、承和3年10月丙辰、下総國言、香取神禰宜准常陸國鹿島神嗣宜、遷代相親、同令把笏輔許之、』玉蘂、寛喜元年5月1日、二条中納言家申香取神主間事、当時神主助道父祖三代相続、多左府此職、康治以降他流相続廿余年也云々、實廣申云、香取神主本流中臣也、助道者大中臣也、鹿島神主徐流也」而康治之比中臣氏無、其仁之時、掠申仔細拝任、後三代雄似相続、中臣氏互相交補也、就中助道三度補此職、其治■六箇年也、社家称ニ不吉加之長者之始近例多改補之、尤可被改仰歟、当流之習以嫡子補大禰宜、以二男被補神主、伽二男無其仁之時、助道之流問拝任云々、余仰云、長者之始、注性寺殿以往御心不被改任、而保元以後長者無譲之儀被下宣旨、遷替事出來後多被改任歟、所謂保元、(法性寺殿)治承、(近衛入道)文治、(放禅閣歟)建仁、(放禅閣歟)建永(前関白)等也、(宇治左府)保元、(六条摂政但■任)永万、(中山入道)承久、予等不被改、可謂不快然者、實廣可為神主之由、可給政所下文者云々、
神位、
続日本紀、宝亀8年7月乙巳、内大臣從二位藤原朝臣良継病、叙其氏神香取神正四位上、続日本後紀、承和3年5月丁未、奉授下総國香取郡從三位伊波比主命正二位、同6年10月丁丑、奉授坐下総國香取郡正二位伊波比主命從一位
雑事
左経記、長元7年8月25日、令大外紀頼隆真人草鹿島香取御所祭文二枚、云々、御封十五戸奉分寄、(鹿島十戸、香取五戸)是近曾見九條御日記之次、安子后被所。男皇子之間、依貞信公御教、九條大臣被祈鹿島、其後不経幾年、頻有男皇子誕生

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