【由緒】 神社明細帳に、 『社記数回ノ水災ニテ流失シ不詳ナラサレトモ口碑ニ拠レハ伊豆國加茂郡三島神社、伊豫國越智郡大山抵神社トモニ一神ト云々、事代主神、三島溝咋姫ニ通ス云々。故二島下郡馬場村二溝咋媛神社アリ。其南方壱町許ノ所二當社ノ御旅所アリ、例年例祭九月二十日神輿渡御アリテ嚴重ノ式執行ス。(中略)故二有志者大神渡御ノ旧跡廃絶センコトヲ慮リ、當今杉数株ヲ植ヱ地所纏ニ古跡ヲ存ス。旧社地ハ三島江村ノ東淀川堤防ノ邊ニシテ今川床ト爲ルト云。コレ其地ハ河中ニアリ、文禄五年澱川修築ノ際、行水ノ害トナルヲ以テ現今ノ地所へ遷座シ神子田馬場末等ノ字今尚残レリ』 とその沿革を記している。 。 |
【公式HP】 ・創建: 仁徳天皇は河内の茨田まんだの堤をおつくりになるとともに、 淀川鎮守の神として、百済くだらよりここ摂津の「御島」に、大山祇神おおやまづみのかみをお迎えになりました。 「御島」とは淀川の「みしまえ(三島江)」にある川中島のことで、このあたりは淀川でもっ とも神妙幽玄な景観をもっていました。 ここは古代の「玉川湖沼」(仮称)が淀川にながれこむ入江「玉江」(三島江の別称)にあ って、島は淀川本流に、玉川水路が出させた土砂が堆積したもので、玉川の土砂をもって、できたゆえに「御島」とあがめられたのです。 ・当社はもとは、「御島(三島)の社」とあがめられ、淀川の鎮守であるとともに、農耕を守り王都難波を守護する神として、祈りつづけられてまいりました。 ・豊臣秀吉が淀川右岸堤防を築いたとき、それまで川中島にあった当社を三島江村の中にお遷ししました。 ・高槻藩主永井公は、淀川守護の任務を幕府からあたえらえていたので、格別の尽力により、社域をととのえ「三島鴨神社」と称することになりました。 .当社から、御魂がうつされて、伊豫(愛媛県大三島)の「大山祇神社」、伊豆(静岡県三島市)の「三嶋大社」がつくられ「日本三『三島』」として、崇拝されるようになり、三社の根源社として、当社は格別にあがめられました。 ・後白河上皇に仕えた建春門院が、 当社に祈願して、高倉天皇を懐妊し、安産した結果、上皇の命によって平重盛が、京都東山区上馬町に、当社の御魂をお遷しして「三島神社」をつくりました。 柿本人麿の歌(万葉集) 三島江の玉江の薦こもを標えめしより おのがとぞおもう未だ刈らねど 三島菅いまだ苗なり時またば 著きずやなりけむ三島菅笠 |
【参考資料】 三島鴨神社史 三嶋鴨神社発行 平成18年 編集委員:宮司 松井位幾、他17名 執筆:宇津木秀甫 |
【由緒書】 ・創建 仁徳天皇は河内の茨田の堤をおつくりになるとともに、淀川鎖守の神として、百済よりここ摂津の「御島」に大山祇神をお迎えになりました。 「御島」とは淀川の「みしまえ(三島江)」にある川中島のことでこのあたりは淀川でもっとも神妙幽玄な景観をもっていました。 ここは古代の「玉川湖沼」(仮称)が淀川にながれこむ入江「玉江」(三島江の別称)にあって、島は淀川本流に、玉川水路が出させた土砂が堆積したもので 玉川の土砂をもって、できたゆえに「御島」とあがめられたのです。 ・当社はもとは「御島(三島)の社」とあがめられ 淀川の鎮守であるとともに王都難波を守護する神として祈りつづけられてまいりました。 ・豊臣秀吉が淀川右岸堤防を築いたとき それまで川中島にあった当社を三島江村の中にお遷ししました。 ・高槻藩主永井公は淀川守護の任務を幕府からあたえらえていたので、格別の尽力により、社域をととのえ「三島鴨神社」と称することになりました。 ・当社から、御魂がうつされて、伊橡(愛媛県大三島)の大山祇神社、伊豆の三島神社がつくられ「日本三『三島』」として、崇拝されるようになり、三社の根源社として、当社は格別にあがめられました。 ・後白河上皇に仕えた建春門院が、当社に祈願して、高倉天皇を懐妊し、安産した結果、上皇の命によって平重盛が、京都上馬町に、当社の御魂をお遷しして「三島神社」をつくりました。 |