仁徳天皇の御世に大山積神が百濟から帰つて来て摂津国の御嶋に鎮座したという。 摂津に三島鴨神社の主祭神が来られた頃は、恐らく神社の建つ辺り一面、川中の洲であったと思われる。 当社は三島神社の元社と伝え、ここは大山祇神のご降臨の地で、日本で最初の三島神社(山祇神社)である。 のちに大山祇神はここから瀬戸内海の大三島の大山祇神社にお移りになられた。 伊予の大三島島の大山祇神社の元社はすぐその北側の上浦町に鎮座する横殿神社とされている。 淀川の川中島にあったというが、慶長3年(1598) の堤防修築の際に現在地に移った。旧地は現堤防とも現川床とも言われる。 |
三嶋鴨神社 三島神社は、事代主神、大山祇大神、此花咲耶姫大神を祭神とする。 創建の年代は不詳であるが、社伝によれば、伊予・伊豆の三島と共に「三三島」と称せられた。 もとは、淀川の川中島にあったというが、慶長3年(1598)の堤防修築の際に、現在地へ移ったと言われる。 明治41年(1908)に、周辺の唐崎神社や天満社、八幡神社等を合祀、秋期祭礼には、高張り提灯を持った昔ながらの宮入が、今も行われている。 一帯は、楠や榎などが生い茂って樹林保護地区に指定され、のどかな景観を保っている。 社頭掲示板 |
三島鴨神社 三島鴨は美之末乃加毛と訓べし○祭神大山積神(摂陽群談には、鴨御祖神と云り、されば大山咋神也、こは鴨とだにいへば、山城國の賀茂上下の間に限るやうに思へるなるべし、もとより土俗も今はしか言伝しにもやあらん、)○今島上郡三島江村に在す、(摂津志) 日本紀、皇極天皇3年正月乙亥朔、以中臣鎌子連、拝神祇伯、再三固辞不就、称疾退居三島、」釈日本紀に、伊豫國風土記曰、乎知郡御島坐神、御名大山積神、一名和多志大神、是神者、所顯難波高津宮御宇天皇御世、此神自百濟國渡来坐、摂津國御島坐云々、謂御島者、津國御島名也、(伊與の三島、伊豆の三島と、爰とを并せて、三ヶの三島とは称す也、) 神位 三代実録、元慶8年12月21日丁未、授摂津國正六位上三島神從五位下、 神社覈録 |
郷社 三島鴨神社 祭神 大山祇神 相殿 事代主神 祭神一説鴨卿祖神といふ(摂陽群談)、創祀年代詳ならすと雖も、仁徳天皇の朝大山積神百済國より渡り来て、三島に座しゝ事伊豫風土記に見えたり、されば、其後社を建て、祀りたるものなるべし、光孝天皇元慶8年12月正六位上より從五位下に進み給ひ(三代實録)、醍醐天皇延喜の制小社に列す、島下郡十七座の一なり延喜式、此邊古来水害多く、数々其災にかゝりて社記流失し、詳細を知るに由なしと雖も、口碑によれば、往時の祭典頗る盛にして、9月20日の例祭には、当郡馬場村溝咋姫神社の南旅所に神輿渡御あり、共式典重かりしか、中世輿丁の争論暴行あるによりて、神幸の事絶えたり、旅所は数十歩の森林なりしを、農民田畑を害するを厭ひ伐り開きければ、神幸の旧跡廃絶せんとす、因て有志のもの杉数株を植え、僅に其紀念を存せり、当時本杜は三島江村の東淀川堤防の邊にありて、其地今川床となれり、今の地に遷れるは後陽成天皇文禄5年淀川修築の際なり、遷座の後は微々として昔の悌なし、明治6年郷社に列す、境内591坪(官有地第一種)社殿は本殿、拝殿、其他神饌所、神輿所、絵馬所、社務所を備へ、地、淀川の堤を距る事数町に過きす、松樹其四方を囲み、頗る森厳の観あり、瑞垣の中に片葉の蘆を生し、年々芽を出して変る事なしといふ。 神饌幣帛料供連明治40年1月28日 明治神社志料 |