熱田神宮
あつたじんぐう


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【清雪門】

本宮の北門と伝えられ俗に不開門(あかずのもん)といって堅く閉ざされている。天智天皇7年(668)故あって皇居に留まられた神剣が朱鳥元年(686)再び当神宮に納められた折二度と御動座なきよう門を閉ざしたという故事による。

社頭掲示板



【「神話と歴史でたどる熱田神宮1900年の歴史」展】

はじめに
平成25年(2013年)、熱田神宮は草薙神剣を祀ってより1900年を迎えました。神剣はもと天叢雲剣といい、素盞鳴尊が出雲国簸の川上において八岐大蛇を退治し、その尾より出現しました。神剣は天照大神に献上された後、瓊々杵尊降臨の際に三種の神器の一つとして授けられ、以降宮中にとどめられました。
第10代崇神天皇のとき、鏡と剣は宮中よりお出になり倭笠縫邑(奈良県桜井市)で祀られ、第11代垂仁天皇のとき伊勢の神宮にご鎮祭されました。三種の神器とは八咫鏡・草薙神剣(天叢雲剣)・八坂瓊曲玉をいい、歴代天皇の御璽として今日まで受け継がれています。

パンフレット



熱田神宮

あつたじんぐう 名古屋市熱田区新宮坂町。旧官幣大社(現、別表神社)。祭神は熱田大神を主神に、天照大神、素盞鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祀る。
三種神器の一つである草薙神剣を神体として祀り、伊勢の神宮につぐ由緒ある大社である。草薙神剣は素盞鳴尊が八岐大蛇より獲たもので、天孫降臨の際、天照大神より授けられたものであるが、景行天皇の時、日本武尊が東夷征討の途次、伊勢で倭姫命からこれを授かり、駿河国で草を薙ぎ払って夷賊を平げたことから草薙神剣と称された。尊は帰途、伊吹山で病を得てのち薨じた。その妃宮簀媛命がのこされた神剣を、尾張氏がつねに祭場としている熱田の地に社を建て奉安したことに始まる。天智天皇7年(668)に新羅の僧道行により神剣を盗まれたが、難波に漂着した道行を捕え殺した。こののち神剣は皇居で祀られていたが、朱鳥元年(686)には神剣の崇が奏されたために勅して熱田社に奉遷された。これより社守七人を置き尾張氏を神主祝とした。『日本紀略』弘仁13年(822)に従四位下を授け、『続日本後紀』天長10年(833)に従三位を加え、神封一五戸を奉られ、『文徳実録』嘉祥3年(850)に正三位を、『三代実録』貞観元年(859)従二位に、同年2月に正二位を賜い、神宝を奉つられている。のち正一位を授け、『延喜』式の名神大社に列し、神税穀は弁官の報を待って社用に充てられた。源頼朝はその母が大宮司季範の女であることから、外威神として崇敬した。建武中興の際には官社として朝廷の宗祀とされたが、充分に実現しなかった。
その後武家の崇敬が篤く、江戸時代には御供料四〇五石、大宮司領七一七石などの社領が寄せられた。社殿の造営においても、応永16年(1409)足利義持に始まり、同義政、同義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、同綱吉などにより修造がなされ、以後の修造も尾州藩徳川氏により行われた。
明治元年(1868)に熱田神社の社号を改めて神宮号が宜下された。同26年に従来の尾張造の様式を改めて、神明造に改造された。大正6年(1917)には勅祭社に列した。
昭和20年にその大半が戦災に遭ったが、同30年11月には本殿鎮座祭を行った。
例大祭は6月5日。特殊神事として1月7日=世様神事、1月11日=踏歌神事、1月12日=封水世様神事、1月15日=歩射神事、5月1日=舞楽神事、5月4日=酔笑人神事、5月8日=豊年祭、5月13日=御衣祭、6月5日=南新宮祭、6月18日=御田植祭などある。宝物は来国俊銘短刀が国宝に指定されているのをはじめ、重要文化財には木造舞楽面、日本書紀など多数が指定されている。摂社の高座結御子神社は延喜式内社で、祭神は高倉下命で、6月1日の「井戸のぞき」神事は、子供に境内の井戸をのぞかせると、虫封じにきくといわれている。古来、尾張国造尾張氏が宮司をつとめたが、後世はその外孫筋にあたる大宮可藤原委範の子孫が宮司を世襲して、明治維新にいたっている。

神社辞典



熱田神社 名神大

熱田は阿都多と訓べし、和名鈔、(郷名部)厚田、○祭神天照大神、素戔鳴尊、西日本武尊、中座宮簀媛命、建稻穂命、東五座、(社伝○釈日本紀には、西二座素戔鳴尊、奇稲田姫と云り、)○熱田郷江崎に在す〇式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、尾張國熱田神社一座、○日本紀神代巻上、一書曰、素戔鳴尊勅蛇曰、汝是可畏之神、抜劒斬之、至斬尾時劒刃少欠、割而観之、則劒在尾中、是號草薙劔、此今在尾張國吾湯市村、即熱田祝部所掌之神是也、』景行天皇40年10月壬子朔癸丑、日木武尊発路之、戊午柾道邦伊勢神宮、仍辞于倭姫命曰、今被天皇之命、而東征将誅諸叛者、故辞之、於是倭姫命取草薙劒授日木武尊曰、愼之莫怠也、日本武尊更還於尾張、即娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月、云々、』51年8月條に、初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田社也、○古語拾遺云、草薙神劒者、尤是天璽、自日本武尊凱旋之年、留在尾張國熱田社、○釈日本紀云、日本武尊留其形影天叢雲劒、為此神体、○尾張國風土記云、(釈日本紀所引)熱田社者、昔日本武命巡歴東國還時、娶尾張連等遠祖宮酢媛命、宿於其家、夜頭向厠、以随身劔掛於桑木、遺之入殿、乃驚更往取之、劒有光如神、不把得之、即謂宮酢姫曰、此劔神氣、宜奉齋之為吾形影、因以立社、由郷為名也、〇考証云、今正殿二宇相並、東殿云土用御殿奉安草薙劔、為日本武尊和魂表也、西殿云正御殿、配享五神、中座日本武尊、西二座素戔鳴尊、奇稲田姫命、東二座宮簀姫命、建稻種命也、古一座也、後以四神為相殿、』神舐宝典云、当社祭五柱之神、所謂中殿者日本武尊也、西殿二間祭天照大神、素戔鳴尊、東殿二間祭宮簀媛命、建稻種命、神名帳頭注云、大宮日本武尊、東素戔鳴尊、南宮簀媛命、西伊弊册尊、北倉稻魂、中央天照大神也、此説與社伝異、恐是謂本宮摂社之地耳、○張州府志云、土用殿臓草薙八劔、(神名秘書云、草薙劔沙門道行盗取之、有霊威被送熱田宮、自爾以降、造加於劔七為八劔宮也、 応永26年遷宮記作渡用殿、社説曰、土金離合天下和平也、故実劔安鎭之座、號曰土用殿也、在正殿東宝神庫也、
神位
日本紀略、弘仁13年6月庚辰、尾張國熱田神奉授從四位下、続日本後紀、天長10年6月壬午、詔奉授坐尾張國從三位熱田大神正三位、文徳實録、嘉祥3年10月辛亥、尾張国熱田神授正三位、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授尾張國正三位熱田神從二位、同年2月17日癸卯、授尾張國從二位熱田神正二位、日本紀略、康保3年3月22日丁亥、尾張國言上、正一位熱田大明神、國内神名帳云、正一位勲一等熱田太神宮、
封戸、財宝
続日本後紀、天長10年6月壬午、詔奉授坐尾張國從三位熱田大神正三位、納封十五戸、三代実録、貞観元年2月19日乙巳、遣正五位下守右中弁兼行式郡少輔大枝朝臣音人、向尾張国熱田神社、奉神位記財宝、
造営
宣胤卿記、永正4年11月、熱田先年炎上、今度造替遷宮、
社職
熱田社記曰、(尾張連清稲、貞観16年所撰也)日木武尊奄忽仙化之後、宮簀姫不違草生之約、独守御床安置神劒、光彩亜日霊験若聞、若有■請之人、感応同於影響、於是営酢姫會集親旧相議曰、我身衰耗昏晩難期、須未瞑之前、占社奉遷神劒、朱鳥元年草薙劒奉還于尾張國熱田社、自爾以來始置御社守七人、(一人為長六人為列、)並免揺役云々』、尾張氏系図曰、(集説所引)忠命之男尾張連稻若、其男尾張連稻與、天武特統文武三朝奉祀、補大宮司職、稻與廿世孫大宮司尾張宿禰員信有三子、嫡曰員頼祝師田島家祖也、仲曰信頼惚検校馬場家祖也、季曰員職補大宮司職、員職無男子、有故以外孫藤原季範為家嗣、自此大宮司職代以季範之裔補之、
雑事
日本紀、天智天皇7年條、是歳沙門道行盗草薙劒逃向新羅、而中路風雨、芒迷帰」、天武天皇朱鳥元年六月己巳朔戊寅、卜天皇病、祟草薙劒、即日送置于尾張国熱田社、(扶桑略記云、朱鳥元年8月、新羅国進調、以草薙劒、送尾張國熱田神社、」)式三、(臨時祭)凡鴨御祖別雷熱田三社神税穀者、社用之外不得用、雖充社用、申辮官待報、』日本紀略、康保3年3月22日丁亥、軒廊御卜、尾張國言上、正一位熱田大明神自今月一日三箇日、并12日亥時、社中鳴、如太鼓乱声、同5日夜、振鳴、如大鈴怖異也」、百練抄、建保4年8月19日、被行廊御卜、是依尾張國熱田社御戸不開并焼失之聞事也、

神社覈録






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