酒見神社
さかみじんじゃ


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【酒造祖神 酒見神社】

一宮市今伊勢町
中島宮址の伝説地である、またこの神社は珍しくも北面しており、烏居から一直線上に目久井古墳があって古墳は酒見神社の祭神を葬ったところとの語り伝えがある。
酒見神社について、延喜式所載の古社である、ぞの鎮座地は当初から今伊勢町本神戸宮山の現地と認められ、鎮座地には異説がない、すなわち延喜式成立の927年今から1070年ばかり前の昔から、名社がこの地に祀られていたのである、御祭神は天照大神、後に酒弥豆男(さけみつおの)命、酒弥豆女命をあわせまつったと伝えられている、後世神戸から神宮へ貢進したのは、酒を主とするようになつたといわれている(「神鳳抄」に「尾張国本神戸内宮御神酒三缶」とある)ので男女の酒神を合祀したことも当然であろう。神宮貢進の黒酒(くろき)・白酒(しろき)を納めたと伝えられる大酒がめが、社殿の傍にある、社前に酒を造ることに用いた酒糟(さかふね)石がある。

社頭掲示板



【由緒】

御祭神、天照皇大御神、倭姫命、酒弥豆男神、酒弥豆女神 其の昔、倭姫命は勅名を受けられ天照皇大御神の霊代を永久にお祀り出来る地を求めて旅される途中、尾張の神戸である、 当村にお出でになられたのは今から2000有余年前の事で、ご一行は現在の無量寺にあったと云われる神戸屋敷にお泊りになり、御神体は宮山の此の地にお祀りになられました。
そして村民の奉仕により社殿が建設せられたのが、当酒見神社の始めであると伝えられています。
当時の神戸村は40戸で1戸平均5人と見て200人の村民がこぞって建設に当り出来上った社殿は、 総丸柱、草屋根にて高く、下から見れば恰も天井の如く、梯子をかけて御神体を其の中程に祀る、下は腰板をつけず、吹抜きにて只下に板敷をはるのみであり、後世に吹抜きの宮と呼ばれたと云います。 現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であり、この社殿は全国でも珍しい吹抜きの社殿であります。
次にご覧頂きたいのは、本殿向かって左側にある倭姫命御愛用の姿見石であります。 これも非常に貴重なもので現在の鏡の代りで倭姫命が当村にお出で遊ばされるに当たり、わざわざ石工に作らせられたものであると伝えられています。
さて、当神社は其の名のとおり酒に最も縁の深い神社であり、日本に於いては清酒の醸造が最初に行われた所であります。その際に使われた甕が今も本殿裏の両側に埋められております。
これは当神社第一の宝物であります。時は紀元1514年、今から1138年前、 第五十五代文徳天皇、斉衡3年9月、大邑刃自、小邑刃自、の酒造師が勅命を受け伊勢皇太神宮より当宮山に遣わされ伊勢神宮にお供えする御神酒を造らせになりました。 その際に持ってこられた、大甕2個が地下1メ−トルに埋められております。日本は地球の温帯に位置し春夏秋冬の区別がはっきりしているので、良い季節に醸造を行えば良いのですが、 支那(中国)では大陸気候なので寒暖の差が激しく朝晩では夏と冬程度違います。そこで地熱を利用できる方法が取られ、地下1メ−トルの所に甕をいけ、そこで醸造が行われたのであります。 即ち、支那式醸造法で行われた甕が此処にあるのです。
この外境内正面右側に岩船という石があります。当神社宝物の一つでもあります。 なる程石で出来ていて船の型をしているので船の名がつけられていますが、実は清酒を造る日本に於ける最初の試みに酒を絞る台として使用された酒船であります。 石質が極めて軟く房州石や大谷石の類で酒甕と一緒に御使者がお持ちになったと伝えられております。

参考HP



酒見神社

(倭姫命十五番目御聖跡)由緒
祭神「天照皇大御神、倭姫命 酒弥豆男命、酒弥豆女命」
第十一代垂仁天皇の王女倭姫命が伊勢の地を求めて旅される途中、垂仁天皇の14年(紀元646年)6月1日当村に渡来された際、村民の奉仕により社が建設せられたのが酒見神社の始めであり出来上った社は総丸柱で草屋根にて高く後世に吹抜きの宮と呼ばれたと言います、現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であります。
第五十五代文徳天皇斎衛3年9月(紀元1514年)当村は上質の米が取れる事から遣唐使でもあったと言われる大邑刀自、小邑刀自二人の酒造師が皇太神宮より大酒甕二個を携帯され当宮山に遣わされ伊勢の翌年の祭に供える酒を造らしめ給うた、と文徳録にあります、当時どぶ酒等は各地で醸造されていましたが、清酒の醸造は酒見が最初とあり、酒見神社は清酒醸造の元祖の神社という事になります。
第七十一代後三条天皇延久元年(紀元1729年)伊勢内宮より式典等に明るき神宮神主の伊勢守吉明に神宮神主と兼任の体にて二百石を与え、従来の本神戸、新神戸、新加神戸に馬寄を合わせて今伊勢の庄の名を賜り、以来九百年間、平安時代より明治時代を通じて代々世襲をもって尾張今伊勢の庄本神戸神主たりと定められたのです。

社頭掲示板



酒見神社

酒見は佐加美と訓べし○祭神詳ならず○中嶋庄神戸村に在す、(集説)今神明、また北明神と称す、○神鳳抄云、尾張国酒見御厨、
集説に、古伊勢大神宮三節祭有缶申之式、今尚存其遺意云々、今神明社境古大甕存矣、実古代物也、また、按、酒見者酒禰豆之略語、而外宮酒殿坐宇賀乃当ス也、と云へるは覚束なし、
神位
国内神名帳云、從一位酒見明神、

神社覈録



郷社 酒見神社

祭神 天照大御神 酒彌豆男命 酒彌豆命
旧と神明社又は北大門大明神と称す、創立年代詳ならず、但垂仁天皇の御世倭姫命、天照大明神を奉戴して此地に来り、神酒を備へしこと社傳に見えたるが、此の事なほ倭姫命世記に「十年辛丑遷幸于美濃国伊久良河宮、四年奉齋、次于尾張国中島宮座天三ヶ月奉齊、」太神宮諸雑事記に「垂仁天皇即位25年丙辰、天照坐皇大神、云々、倭姫内親王奉載天云々、次尾張國中島郡一宿御坐、国造進中島神戸」とあり、彼の神鳳抄に尾張国本神戸内宮御神三缶」皇子沙汰文に「尾張国酒見御厨」、神宮雑倒集に、第四神封事云々、延暦20年4月14日格符云、尾張国(六十六戸)本神戸三十戸(号中島神戸)とありて、古の酒甕今猶社前土中にあるよし、張府志其他の書に見えたる等は、蓋当社の創立と関係あるや明かなり、延喜式内社にして、奉唱国内神名帳に「從一位酒見名神」と見え、参考に「天神、一本作正二位須見名神云々、須宇蓋伝写誤歟」と見えたり、明治5年5月郷社に列せられ、40年7月20日元と奉祀の熊野社を村内町田社へ合併す。
社殿は本殿、渡殿、祭文殿、拝殿等を具備し、境内地1407坪(官有地第一種)あり、数百年を経たる神木あり神宝に彼古甕及岩船今尚存すと伝へられたるが、今現に酒瓶二個鉾一個古鈴古鏡をも藏す。
「本神戸の里はいづこと問ふ、宮山といふ小名にて、こゝなん本神戸の里といふ、かねて今村主に、酒見宮きゝしより年ごろふりはへてまいらまほしかりつる洒見の宮をとへば、そのあたりまでものすれば案内してんとて行くほどに、道の左に鳥居立ちたるをさして、こゝぞとをしふ、入りて見れぱ宮ば北にむかひてたゝせ給ふ、云々、伊勢國桑名郡野代の宮に遷幸ましまししは、此酒見の宮の後にこそあるらめとぞおもはる云々、齋忌の神ながらなるがたふとさに
中島のもとつ神戸の酒見なるかみの齊忌を見るかたふとさ 大館高門」

明治神社誌料






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