沙沙貴神社
ささきじんじゃ


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【由緒】

佐佐木源氏発祥の地=沙沙貴神社
佐々木氏は、宇多(うだ)天皇(869−931)の皇子、敦実(あつみ)親王(892−966)の玄孫(やしゃご)である、源成頼(みなもと なりより)が近江國・佐々木庄に下り、成頼の孫の、経方(つねかた)が佐々木姓を名乗ったことに始まります。
 佐々木氏は、佐々木氏の氏神である沙沙貴(ささき)神社が建つ近江八幡市安土町常楽寺周辺から、佐々木氏の館(やかた)があった小脇(現在の東近江市小脇町)辺りまで広範な候補地がありますが定かではありません。ただ、蒲生郡内であったことは間違いないようです。
 佐々木氏が近江に確固たる基盤を得るきっかけとなったのは源平の合戦でした。
 経方の孫の秀義(ひでよし)(−1184)は、平治の乱(平治元年1159)で源義朝(みなもと よしとも)にくみして敗れたため近江を追われ、相模國(現在の神奈川県)まで逃れます。
 しかし1180年、源頼朝が平氏打倒へ挙兵した時、長男の定綱(さだつな)ら息子たちを引き連れて参戦し、目覚しい功績をあげました。
 秀義自身はこの戦いで戦死しますが、定綱は戦功により近江國 惣追捕使(そうついおし ※後の近江守護職)に任ぜられます。
 守護職に就いた定綱は、頼朝の自筆と伝えられる「佐佐木大明神」の神号額面を文治2年(1186)7月28日に物部清貞氏の調整で、表参道 大鳥居に掲額しています。(現在も古額を保存して、その同じ形式の写を表参道 大鳥居に掲げてあります。)
 兄弟たちも多くの恩賞を与えられ、一族全体で述べ十七カ國の守護職を得ていた時期もありました。
 しかし、鎌倉幕府と後鳥羽上皇が争った承久の乱(1221)で一族の多くが上皇方に付いて破れ、守護職のほとんどを失いました。
 定綱の跡を継いだ信綱の息子の代に佐々木氏は四家に分かれ、長男 重綱―大原氏、次男 高信―高嶋氏、四男 氏信―京極氏、そして三男の泰綱に始まる六角氏が惣領(そうりょう)家(本家)として近江守護職を継承しています。主な佐佐木源氏 佐佐木 佐々木 六角 京極 黒田 三井 大原 高嶋 篠笥 笹木 佐々城 沙沙貴 尼子 伊庭 椙山 岳 朽木 和泉 山脇 田中 種村 鯰江 乃木 松下 和邇 など220余の姓が継承されています。
 鎌倉時代初めに活躍した佐々木定綱以来、織田信長(安土城は、天正4年1576・僅か六ケ年)によって追われるまでの約四百年間、守護として近江國を支配し続けた一族です。
 滋賀県を象徴する六角紋章を受け継ぐものに、近江八幡市章や、滋賀県立八幡商業高等学校章などがあります。
 六角氏による支配は、戦国大名のように上から強力に統制するのではなく、在地勢力の自立性の上に成立した穏やかなものでした。
 この結果、近江には惣村(そうそん)や寺内町(じないちょう)といった自治を行う村や町が多く生まれました。六角氏がもたらした地域社会の自治の伝統は、佐佐木源氏発祥の地の 近江國、滋賀県には今も根強く生き続けています。

公式HP



【由緒】

祭神少彦名命、仁徳天皇、宇多天皇、敦實親王の四柱なりとす(近江輿地志略所掲佐々木神社神主左京源重議記)又佐々木社記によれば少彦名命と仁徳天皇の二柱となす、又神社覆録神祇志料神名帳考證には大彦命を祀ると記している。本居宣長は「少彦名命と云ふは、神代紀に此神鷦鷯羽を衣としてとあるによりての附會か、大鷦鷯尊といへるも御名に因れる附會たるべし、さて後世宇多源氏の佐々木の族は此地より出でたれば、敦實親王は其の族の後に合せ祭れるなるべし」と古事記伝にのべている。創祀年代不詳と雖も、此国に住める佐々木氏の祖が、其祖神大彦命を祀りたるに起るは殆んど疑いがない(古事記姓氏録)醍醐天皇延喜の制小社に列る(延喜式)後朱雀天皇長暦元年、宇多天皇の一世の孫源成頼初めて此地に住す、其孫源次大夫経方初めて此社の神主たり、経方の嫡男兵庫助季定武士となる。之れ佐々木氏の武祖なり、次男行定神主となりて社事を掌る。後醍醐天皇元応元年7月正二位の位記を授け奉り(伝宣草)尋いで北朝光明天皇貞和5年正一位に叙し奉る(社記)往古は社領八百石を有し、佐々木氏の氏神として世々同族の尊崇厚く、随って社頭も賑ひたりしが、正親町天皇天正年中佐々木氏観音寺城を攻落して以来、社領が廃せられた。慶長5年徳川家康上杉景勝を攻むるや、家康勝を当社に祈る。又石田三成の徳川家康に背くや、家康これを征して関ヶ原に勝ち東にかへる時、伊庭の茶屋より遙拝す、又神主源安重を召して1万石の社領を奉納す、後又、丸亀侯京極家よりも壱百石を奉納す、又慶長9年鰐口1個を納める(佐々木社記、神官佐々木左京源重議記)(明治神社誌料(中)を参考)明治9年郷社に列す、大正9年県社に加列。同年年神饌幣帛料供進指定。

滋賀県神社庁



沙々貴神社

ささきじんじや 滋賀県蒲生郡安土町。旧県社。佐々木神社とも書く。この地は織田信長によって築かれた安土城で知られている。祭神ば大彦命を主神に、少彦名命・宇多天皇・仁徳天皇・敦実親王と乃木希典を祀る。創始年代は明らかではないが、この国に住した佐々木氏の祖が、その祖神である大彦命を祀ったことに始まると伝えられており、宇多天皇の皇子の敦実親王は佐々木源氏の祖であり、その子孫は累世その祖神として奉仕し、佐々木庄三三ヶ村の総社として崇敬されていた。『延喜式神名帳』に列した。元応元年(1319)に正二位を授けている。慶長8年(1603)には徳川家康より100石の朱印領が寄せられた。また、天保年間(1830-44)に社殿が炎上したが、丸亀藩主京極高明により再建されている。例祭4月5日、5月5日。また、近江源氏の子孫だということから乃木将軍の信仰も篤い。

神社辞典



沙沙貴神社

沙々貴は假字也、和名抄(郷名部)篠笥とある此地なるべし、O祭神大彦命、或云、四座、第一少彦名命、第二仁徳天皇、第三大彦命、第四宇多天皇、敦実親王、○佐々木荘常樂寺村に在す
日本紀孝元天皇巻に、大彦命、是狭々城山君、凡七族之始祖、古事記(安康記)に、自茲以後、淡海之佐々紀0君之祖名韓岱曰、日本紀、顯宗天皇元年5月、狭々城山君韓岱宿禰、事連謀殺皇子押磐」姓氏録、(左京皇別上)佐々貴山公、阿部朝臣同祖、また、(摂津國皇別)佐々貴山君、阿倍朝臣同祖、大彦命之後也、」宣長云、(古事記伝四十の三十七丁ウ)少彦名命と云は、神代紀に、此神鵤鶴羽を衣としてとあるに因ての附曾か、大鵤鶴尊と云も、御名に因れる附會たるべし、さて後世の宇多源氏の佐々木ノ族は此ノ地より出たれば、敦実親王は其族の後に合祭れるなるべし、とあるは然るべし、
神位
伝宜草、元応元年7月、近江國沙々貴社、奉授正二位々記」社記、貞和5年6月19日、奉授正一位
社領
高百石、関東御代々御朱印を賜ふ、
社記峯文集四云、佐々木社記、傳称、此社祀少彦名命、且奉崇仁徳天皇、今不得其緑起、則未詳其所由来云々、宇多矢皇五代孫従五位下左近將監源成頼、初住近江國佐々木荘嗜弓馬、其孫源次大夫経方、初爲此社神主、其嫡男兵庫助季定、爲武士読其家業、次男行定、為神主掌社事、二流相分、其枝葉、連蔓於本州、而延及他邦者不可勝計也云々、
逮鎌倉右大將領閻國、而佐々木兄弟有武功、其氏族世爲江州守護、其後足利家之爲武將時、佐々木氏族又有旧勲、連襲領江州、故世々皆崇此社也、永禄天正以来、佐々木氏不能居江州、故此社荒廃矣、方今社役者之言曰、本社之外有若宮、聖宮、凡神輿三座云々、
今唯存其三輿、而巳云々、貞和5年6月19日位記曰、勅令奉授正一位沙々貴大神、其位記今猶有之、又曰、昔有神領八百石、蓋夫佐々木氏之所寄附歟、既而滅損及東照大神君之治世云々、聞其所由、而新賜封戸一百石云々、
連胤云、社記緑起類はとらずといへども、中古以來興隆ありしを知らしめん為に贅筆す、

神社覈録



郷社 砂々貴神社

祭神
大彦命 仁徳天皇 宇多天皇
少彦名命 敦実親王
一説祭神少彦名命、仁徳天皇、宇多天皇、敦實親王の四柱なりとす(近江與地志略所掲佐々木神社神主左京源重議記)、又佐々木社記によれば少彦名命と仁徳天皇の二柱となす、又神社覈録神祇志料神名帳考証には大彦命を祀るといへり、本居翁ば曰く「少彦名命と云ふは、神代紀に此神鷦鷯羽を衣としてとあるによりての附會か、大鷦鷯尊(仁穂天皇)といへるも御名に因れる附会だるべし、さて後世宇多源氏の佐々木の族は此地より出でたれば、敦實親王は其の族の後に合せ祭れるなるべし」と(古事記傳)、創祀年代詳ならずと雖も、此国に住める佐々木氏の祖が、其祖神大彦命を祀りたるに起るは殆んど疑なきが如し(古事記姓氏録)醍醐天皇延喜の制小社に列る{延喜式)、後朱雀天皇長暦元年、宇多天皇の一世の孫源成頼初めて此地に住す、其孫源次大夫経方初めて此社の神主たり、経方の嫡男兵庫助季定武士となる、之れ佐々木氏の武祖なり、次男行定神主となりて社事を掌る、後醍醐天皇元応元年7月正二位の位記を授け奉り(伝宣草)、尋いで北朝光明天皇貞和5年6月19日正一位に叙し奉る(社記)往古は社領八百石を有し、佐々木氏の氏神として世々同族の尊崇厚く、随って社頭も賑ひたりしが正親町天皇天正年中佐々木氏観昔寺城を攻落して以来、社領廃せられ、社運稍衰へたり、慶長5年6月穂川家康上杉景勝を攻むるや。家康勝を当社に祈る、又石田三成の徳川家康に背くや、家康之を征して関ケ原に勝ち東にかへる時、伊庭の茶屋に遙拝し、又神主源安重を召して一萬石の社領を寄す、後又、丸亀侯京極家よりも一百石を寄せられしといふ、又慶長9年鰐口一個を納む(佐々木社記、神官佐々木左京源重議記)、明治9年10月21日郷社に列す、社殿は本殿、拝殿を初め楼門、廻廊、宝殿、神輿含等の附物を備へ、境内6479坪(官有地第一種)あり、社地は湖水を距る事遠からす、北には安土観音の譜山を望み景勝の好地なり。

明治神社誌料






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