油日神社
あぶらひじんじゃ


戻るボタン





【由緒】

ご神徳
油日大神のみ名は記紀にも見えす、又油日の名も国内に見当らない、ただこの地に於いてのみ千数百年の昔から、油日大神とのみ申しあげて篤い信仰がさゝげられて来たのである。油日大神はアブラのヒの大神さまであって、万有始動の根元神として諸事繁栄発展の大本を司られる大神さまである。従って古来より諸願成就の神として衆庶の尊信あつく、又油の祖神として業界の崇敬があつめられている。
猿田彦命は道案内(サキダチヒコ)の神として方除授福のこ神徳高く、又罔象女命は水神として衆庶の生業に大御恵を光被まします。
ご創立
南鈴鹿の層巒が南に尽きるあたり、神の御山の姿もおごそかに油日岳が聳えている。春朝翠霞の中に映ずる油日岳、旭光輝き亘る秋空にうき出る油日岳、四六時中仰ぎ見るこの御山のみ姿が人の心の糧となったことは今も昔も変りはない。油口大神は太古この油口岳を神体山として鎮まり給うたが、世を経て今のこの本社の地に移り鎮りましたのである。今も毎年9月13日夜本社にて秋のヒのまつりが行われるが、その前々日11日の夜には信心の人たちによって岳の頂上にて、夜を参籠し夜を徹してご神火を焚き上げる千年来の古い姿が残されている。その後今を去る千百弐拾有余年の昔、陽成天皇の御宇元慶元年(877)11月3日油日神に神階を授けられたことが国史三代実録に見え、所謂国史見在の古社である。
朝野の崇敬と甲賀の総社
元慶以降御代々々神階は累進して弘和の頃正一位に昇り給い、明応の棟札を始め古書古器皆正一位油日大神と見えている。この神階奉授のこと、或は朝臣参向のこと共上朝廷の御崇敬の厚かったのを窮い得る。中世に入ると、或は明応の本殿再建、永禄の楼門建立となり、或は天正年間永代神領百石の寄進、元和奉献の鍾楼、石灯となるなど甲賀武士及地頭領主等の数々の尊信の跡を残している。然もこゝに特筆すべきは、郡下官民が当社を以て「江洲に無隠大社」と仰ぎ「甲賀の総社」としてその御神徳を敬いまつったことである。即ち明応年間本殿造営の御奉加は実に近郷一円に亘り、油日谷、大原谷、佐治谷、岩室郷に於いて頭殿をはじめ多くの所役をつとめて当社大祭を奉仕し来たことは干年来の事実である。岩室の鎮守瀧樹神社、小佐治の明神佐治神社、石部の古社吉御子吉姫神社等の間に現に存している幾多の縁由、杣、横川、野洲、遠くは大戸の地域に及ぶ郡下全円その史実古伝に於いて或は神輿を頒ち、之を祭り、祭日を特定し、或は分霊と伝え、親子の縁を称し、その崇敬の跡を豊富に存している。
野洲川(天安河)の上流祝詞ヶ原の聖地からは、常に油日大神と天照大神が遙祭されていた。かくして現に崇敬者は郡下四万余戸に及んでいる。この深い広い崇敬は即ち社頭の隆盛となり、維新前はその神領に於ても野山除地村内にて五百四十余町歩、近郷にて干百三十余町歩の山手米を有し、境内亦十一町三反七畝歩を算した。現に楼門内社前の壮厳な結構は六町歩の神奈備と相まって他にその例なく、よく「甲賀の総社」としての真面目を呈している。
油日の宮居しずもる もや之中
 大日輪はあかあか昇る
  正浩
祭禮
油口まつり5月1日春の例大祭である。円融天皇の天元元年(978)橘朝臣敏保卿が勅命を奉じて参向したのを、甲賀の五姓、上野、高野、相模、佐治、岩室の五氏が年々交替して代参したのに始まると伝えている。これを頭殿(とうどう)参向といゝ、維新前までは連年行われていたが、明治初年より氏子関係にて上野頭のみによって行われることゝなり五年に一度となった。次は平成18年、23年の5月1日。
往昔この油日まつりには四十数基の神輿が乗馬と共に延々長蛇の列をなし野洲の下流石部の川原にお旅したと伝えられているが、今は毎年二基の神輿にて往復千mのお旅が行われている。五年に一度のまつりには、昭和33年県の無形民俗資料に選択されている「奴振り」が行われる。郷士色豊かな長持奴の歌のしらべ、毛槍奴挾箱奴の優雅な踊り姿、往時の盛大さが偲ばれるのである。又このまつりには列結野お旅所にて蚊帳を張る珍らしい蚊帳まつりがあり、信者がその中に入って神酒み鏡餅をいただき厄除の恵を受けるのである。
元旦祭1月1日
初詣倖せの肩ならべゆく
青雲予
厄除祭2月節分
祈年祭2月18日五穀をはじめよろずの生産増強商売繁昌を祈る。
岳こもり9月11日岳頂上にて徹夜ご神火を焚き上げつゝ参籠
大宮こもり9月13日秋まつりである。徹夜万灯を捧げ氏子信者は東、西廻廊のそれぞれ定まった座で蚊帳を張りこ神徳をたゝえ,油のヒの恵に感謝する。
敬老祭9月15日
新嘗祭11月23日この年の萩穀を供え神の恵み自然の恩に感謝のまことをさゝげる。
諸願成就月次祭毎月1日
油の月次祭毎月13日
油の祖神と蚊帳まつり
油の祖神としての神事は変ることなく、今も9月11日の油日岳頂上の油まつり、翌々13日の本社に於ける油まつり、この二つの秋まつりとして厳修されている。岳頂上に輝きはじめた一点の灯火は次第々々に其の光明を増し、大自然の光はこゝを根元として天地を覆い、日の恵み火の慈しみに森羅万象にわかに生成化育した無極の神威は、今も夜を徹して焚き上げられる9月11日夜の岳頂上の一大神火となり、その光り咬々として数里の外を照らし、之を拝み得らるゝ限り甲賀、伊賀両国を始め遠近の人等は、油日大神の荒御魂の顕現として家々里々で之を遙拝している。そして翌々13日の夕刻からは本社に幾百の信者が参集、東西の廻廊に幕を張り蚊帳を帛り、その中に参籠して社前には万灯の灯火を奉り、之亦夜を徹して油の祖神に熱祷をさゝげているのである。
古い時代から油業者、又行商人等も多数参籠されたようであり、今は東京、東海、京阪神、滋賀等全国油業界の参拝も年々賑わしくなっている。
上述万灯まつりの廻廊の蚊帳つりをはじめ、5月1日神幸祭御旅所での蚊帳まつり、厄除の信仰のみでなく、蚊帳が古代繊維の代表であることから繊維業者の信仰もあつい。
重文建造物附棟札
境内結構十数棟の社殿のうち、本殿拝殿楼門及び東西廻廊の五棟が、之らに係る十八枚の棟札と共に国の重要文化財に指定されている。(本殿一棟、附棟札十五枚及び楼門・廻廊三棟・附棟札三枚昭和二十五年指定、拝殿一棟昭和35年指定〕拝殿以外の四棟は織田信長入洛以前足利末期のものであるが、近在の多くの建造物が殆ど戦国の兵火にて消失しているに拘らず信長入洛直前のま新しい建物が揃って温存されていることは珍らしいことである。これは半歳ばかりの短かい期間であったが、奈良一条門の門跡から脱出した覚慶後の義昭将軍が、神社の南2Kmに居を構えた甲賀武士和田惟政の邸にあって信長と連携を保っていたためであろうと思われる。当時甲賀武士は油日神社を甲賀の総社自分等の祖神と仰ぎ、覚慶公方も亦永禄8年(1565)のある一日油日社に詣でている。
本殿は明応2年(1493)上棟、三間社流造向拝一間、桧皮葺向拝と身舎正面の蟇股、及び舞楽を演ずる楽人の姿が浮彫にされた両妻の脇障子が珍らしい。棟梁は藤原宗弘〔甲良氏}
棟札明応、永禄、寛永、寛文、元禄、正徳、享保、寛保、天明、文政、安政、慶応の銘十五枚
楼門は永禄9年(1566)の建立、三間一戸楼門、入母屋造、桧皮葺、棟梁大工は甲良五良左衛門尉、上層中の間の蓮花飾り、下層の葉ばかりでできた蟇股など名高い。
棟札元禄、宝永、天保の銘三枚
東廻廊は桁行九間西廻廊は桁行十間、共に梁間一間一重切妻造桧皮葺楼門と同時代の建立。
拝殿の建立は天正年代、桁行三間梁間三問一重入母屋造、妻入、桧皮葺、正面及背面に軒唐破風附なのが特徴。広々とよく繁った林相を背景に、上述重文建造物が.南の正面から楼門、その東西に廻廊、その奥に拝殿、中門の奥に本殿と凡そ一直線に並んだ社殿群、白砂の庭も十分のゆとりをもって整然とまとまった一郭が美しい調和を奏でていることも全国的に珍らしいとされている。
宝物と無形文化財
福太夫神の面とずずい子、昭和47年県指定有形文化財、面内側に永正5年(1508)櫻宮聖出雲作の墨書ずずい子背面に出雲明秀の銘、往昔正月初申の夜拝殿にて行われた豊作祈願の稲講会の神具聖徳太子絵伝四幅絹本着色町指定文化財
三千佛 二幅 町指定文化財
十二天画像 二幅 巨勢行忠筆
大般若経六百巻 箱書に貞治2年(1363)
槍二筋 貞享6年(1689)梅田木工之丞治忠奉納
神道流(本心鏡智流)
太鼓踊(大踊り、小踊り)昭和48年国選択無形文化財
往昔水不足に悩された里人等の必死の雨乞をしたのが大踊り、かなえられると踊りまくっての返礼、これが小踊りである。現在は氏子内四ヶ宇にその伝統をつながれ、随時に奉納・公演されている。
境内社及祖霊殿と岳、白鬚両摂社
明治44年村民敬神の赤誠はこって一となり、村内各字の村社三社、無格社七社を本社に合祀合霊して一村一社の美を成し、八幡常松二神社にその祭祀を厳修している。今本社の氏子は甲賀町内九ヶ字一千余戸、その氏子の祖先の霊は奥深い境内の祖霊殿に鎮ります。
白鬚神社は本社の西方矛杉高き丘陵に鎮座、その本殿は明応を下る十数年後永正7年(1510)再興の棟札を存し、古書、又本社と同時代の創立と伝えている。祭神猿田彦命は本社にも配祀されているが、油日大神の天降り鎮座ましし折のサキダチ彦で、授福方除敷地祓いの神として賽者の数も多い。
岳神社は杣の水源油日岳頂上に鎮座油日大神の神体山として荒御魂をまつり、水神罔象女命を配祀、社殿は四十年目毎に式年の造営が行われる。このお山は海抜690余m、頂上に聳える老桧巨杉も鉄道沿線から肉眼で見える位の手近な山で、一日のハイキングコースとしても恰好なところと喜ばれ、頂上からは甲賀、伊賀の山野が一望の中に在り、近江富士も可愛いい饌頭のように見え、晴天のときは琵琶湖の一線が青く浮き出される。

由緒書



【由緒】

ご 神 徳
 油日大神のみ名は記紀にも見えず、又油日の名も国内に見当らない。たゞこの地に於いてのみ千数百年の昔から、油日大神とのみ申しあげて篤い信仰がさゝげられて来たのである。油日大神はアブラのヒの大神さまであって、万有始動の根元神として諸事繁栄発展の大本を司られる大神さまである。従って古来より諸願成就の神として衆庶の尊信あつく、又油の祖神として業界の崇敬があつめられている。
 猿田彦命は道案内(サキダチヒコ)の神として方除授福のご神徳高く、又罔象女命は水神として衆庶の生業に大御恵を光被まします。
ご 創 立
 南鈴鹿の層巒が南に尽きるあたり、神の御山の姿もおごそかに油日岳が聳えている。春朝翠霞の中に映ずる油日岳、旭光輝き亘る秋空にうき出る油日岳、四六時中仰ぎ見るこの御山のみ姿が人の心の糧となったことは今も昔も変りはない。油日大神は太古この油日岳を神体山として鎮まり給うたが、世を経て今のこの本社の地に移り鎮りましたのである。今も毎年9月13日夜本社にて秋のまつりが行われるが、その前々日11日の夜には信心の人たちによって岳の頂上にて一夜を参籠し夜を徹してご神火を焚き上げる千年来の古い姿が残されている。
 その後今を去る千百参拾有余年の昔、陽成天皇の御宇元慶元年(877)12月3日油日神に神階を授けられたことが国史三代実録に見え、所謂国史見在の古社である。
朝野の崇敬と甲賀の総社
 元慶以降御代々々神階は累進して弘和の頃正一位に昇り給い、明応の棟札を始め古書古器皆正一位油日大神と見えている。この神階奉授のこと、或は朝臣参向のこと共朝廷の御崇敬の厚かったのを窮い得る。中世に入ると、或は明応の本殿再建、永禄の楼門建立となり、或は天正年間永代神領百石の寄進、元和奉献の鐘楼など甲賀武士及地頭領主等の数々の尊信の跡を残している。然もこゝに特筆すべきは、郡下官民が当社を以て「江洲に無隠大社」と仰ぎ「甲賀の総社」としてその御神徳を敬いまつったことである。即ち明応年間本殿造営の御奉加は実に近郷一円に亘り、油日谷、大原谷、佐治谷、岩室郷に於いて 頭殿 とうどう をはじめ多くの所役をつとめて当社大祭を奉仕し来たことは千年来の事実である。岩室の鎮守瀧樹神社、小佐治の明神佐治神社、石部の古社吉御子吉姫神社等の間に現に存している幾多の縁由、杣、横田、野洲、遠くは大戸の地域に及ぶ郡下全円その史実古伝に於いて或は神輿を頒ち、之を祭り、祭日を特定し、或は分霊と伝え、親子の縁を称し、その崇敬の跡を豊富に存している。
 野洲川(天安河)の上流祝詞ケ原の聖地からは、常に油日大神と天照大神が遙祭されていた。かくして現に崇敬者は郡下四万余戸に及んでいる。この深い広い崇敬は即ち社頭の隆盛となり、維新前はその神領に於ても野山除地村内にて五百四十余町歩、近郷にて千百三十余町歩の山手米を有し、境内亦十一町三反七畝歩を算した。現に楼門内社前の壮厳な結構は六町歩の神奈備と相俟って他にその例なく、よく「甲賀の総社」としての真面目を呈している。

公式HP



油日神社

あぶらひじんじや 滋賀県甲賀郡甲賀町油日。油日岳の西麓の登山口に鎮座する。
旧県社。祭神は油日神で、猿田彦神、罔象女神を配祀している。俗に油日大明神の名でよばれ、油脂の祖神として全国的に信仰されている。社伝には用明天皇の頃に、聖徳太子の創建とある。『三代実録』の元慶元年(877)に従五位下を授けている。平安時代には神仏習合の風により、天台宗の影響をうけたようで、境内には僧坊跡などが残されている。中世には甲賀武士団五三家の氏神として崇敬が篤かった。祭礼は四月と九月の13日に油脂大祭が行われ、全国の油脂業者をはじめ多くの人々で賑わう。
また、五年に一度、5月1日の油日祭は長持奴三人、挾箱奴四人、手槍奴二人をまじえた総勢六四人の大名行列や、雨乞の花笠踊りは県の無形文化財に指定されている。
当社の本殿、拝殿、楼門および左右回廊の五棟は、室町、桃山時代の建築で、いずれも重要文化財に指定されている。

神社辞典



縣社 油日神社

祭神天忍日命 道臣命 械取女
国史油日神と記し、古来油日大明神、又は通山大明神とも称し、近世更に川枯神社油日大明神と號せしが、明治7年明細帳調製に際し、川枯神社と改め、式内社川枯神社とす、然れども、近江與地誌略、淡海誌、伊賀國風土紀、伊水温故、伴氏神名帳考証、式外神名考、神杜覈録、神祇志料。大日本史、其他社蔵油日大明神縁起並同社由緒紀等、皆当社を以て、油日大明神とし、未だ川枯神社とするものなし、加之、社藏の金幣に「総社正一位油日大明神元禄9丙子5月吉辰と刻し、古面に奉寄進油日大明神田作福大夫神之面永正五年戊辰6月18日」と記し、旧境内の梵鎮其他皆正一位油日大明神、若しくは油日大明神と記す、是に於て明治38年8月社号復旧の請顧をなし、同11月19日聞届けられ、今日油社と称す、創立年代詳ならす、但、社説に拠れば太古の鎮座とし、社殿は用明天皇の御宇聖徳太子の創建に係る所とす、御神体は伊水温故に「神霊忿怒容儀、芦毛馬乗」と見えたり、乃ち当社は国史現在社にして、三代實録に元慶元年(〇陽成天皇)12月丁卯朔、3日己巳、授近江国正六位上油日神従五下」と記せり、伝へ云ふ、仁明天皇養和9午伴健峯橘逸勢、恒良親王を奉じて謀反を企つ、親王当社に参籠して祈願あらせられしに神変あり、即ち落髪して仏門に入り、名を恒寂と改めて難を遊け給ひしと、又伝ふ、圓融天皇の御宇、此地に大蛇有りて禍を為す、同天文元年、帝橘敏保に命じて之を討たしめらる、敏保勅使として此地に来り、之を当社に祈りしに神助を得て功を奏す、帝御戚斜ならずして正一位に叙し奉り給ふと敏保勅使として参向すること三年、四年に至り、甲賀五姓の長者に、勅使代勤を仰付らる、爾来其子孫代勤す、其式今に存すと、かく当社は古来著名の神社にして、朝廷を始め奉り、傾主地頭の崇敬他に異なりき、殊に祭神の末裔と称する甲賀古士五十三家、氏神として厚く崇敬し、除地十数町を保護して元亀年間」に至りしが、天正年中織田氏の為に没収せられ、一時社頭衰頽せしと雖も幾許ならずして、徳川氏の世となり、再び除地と為る。而して甲賀一郡の総社たりしが、今は二ケ村五字の氏神たり、然れども崇敬者は尚ほ十四ク村五十六字に亙り、其崇無慮三萬二千と称す、明治9年10月社格制定に際し郷社に列せられ、同39年7月21日更に縣社に昇格す。
社殿は本殿、拝殿、其也棲門、廻廊、宝庫、神輿庫、水舎、神門、瑞垣、及社務所等あり、本殿は今より四百余年前、即ち後土御門天皇明応2年。領主富田景政の再建に係る、棟札あり、「于時明応二暦癸丑穐八月二十二日、上棟云々」とあり、裏に「御遷宮明応四年乙卯霜月念九日」と記せり、明治34年3月、特別保護建造物に指定せらる。是より先一條天皇長徳3年、領生富田景時修理の事当社紀録に見えたり、境内は延宝7年の当村御検地帳に「十一町三反七畝歩略麓駄油日大明神宮地境内」云々と注せしが、明治維新其大部分上地を命ぜられ、今4200坪(官有地策一種)鈴鹿山脈の高峰油日岳の麓に在り、東西北の三面は態々たる官林を以て続らし、其の中央に、壮麗なる社殿魏然として天を摩す、宝物は聖徳太子一代記及佛喬刀劒、其他油"大明神縁起、同濫觴記等数部を蔵す、明治27年5月、内務省より保存金百五十円を下賜せられたるが、爾来神職氏子、鋭意社頭の発展に腐心し、今や其所有地参町一反三畝捨二歩、公債預金亦五千余圓を算するに至れり・
又明活44年1月本村内村社八幡神社、同日吉神社、同神明神杜、無格社八幡神社三社・同春日神社、同金刀比羅神社、同櫻神社を本社境内に合併移縛し、八幡神社と睾称せり。

明治神社誌料






戻るボタン


近江国INDEXへ        TOPページへ


学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録