日吉大社
ひよしたいしゃ


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【由緒】

『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とある。これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである。日枝の山とは比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に、日枝山の山頂から現在の地に移されたという。
また、東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。
西本宮の祭神大己貴神は、近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため大神神社の神が勧請された。以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。神階は、元慶4年、西本宮の祭神が、寿永2年、東本宮の祭神が、それぞれ正一位に叙せられた。『延喜式神名帳』では名神大社に列格し、さらに長暦3年、二十二社の一社となった。


【文化財】

国宝
西本宮本殿 - 1586年(天正14年)の建立。檜皮(ひわだ)葺きで、屋根形式は「日吉造」という、日吉大社特有のもの。正面から見ると入母屋造に見えるが、背面中央の庇(ひさし)部分の軒を切り上げ、この部分が垂直に断ち切られたような形態(縋破風)になっているのが特色。
東本宮本殿 - 1595年(文禄4年)の建立。建築形式は西本宮本殿に似る。昭和初期までは「大神神社本殿」と呼ばれていた。
重要文化財(国指定)
西本宮拝殿
西本宮楼門
東本宮拝殿
東本宮楼門
日吉三橋(大宮橋、走井橋、二宮橋) いずれも石橋である。
摂社宇佐宮本殿 西本宮本殿、東本宮本殿と同様、屋根は日吉造である。
摂社宇佐宮拝殿
摂社樹下神社本殿 樹下神社は東本宮と同じ敷地にあり、東本宮の参道と樹下神社の参道が直角に交わる、特異な配置になっている。
摂社樹下神社拝殿
摂社白山姫神社本殿
摂社白山姫神社拝殿
摂社牛尾神社本殿 牛尾神社と三宮神社は八王子山に位置し、拝殿は懸崖造になっている。
摂社牛尾神社拝殿
摂社三宮神社本殿
摂社三宮神社拝殿
末社東照宮本殿・石の間・拝殿、唐門、透塀
日吉山王金銅装神輿 7基
史跡(国指定)
日吉神社境内


日吉大社

ひえたいしや 滋賀県大津市坂本。
近江国日吉社・山王社。近江国一の宮として全国日吉山王3800余社の本祠。近江国と山城国との境にそびえる比叡山(主峰牛尾山)を中心とする地主神である。旧官幣大社(現、別表神社)。延喜式内の名神大社。祭神は東本宮に大山咋神、西本宮に大己貴神。創祀は崇神天皇7年に牛尾山上(上代には日埼。日尾とも称され現奥宮)に和魂・大山咋神を祀ったのをはじめとし、鴨鹿島をもって祝(神主)とされた。後、天智天皇7年(668)3月鴨鹿島八世孫宇志麿に詔して古来大和朝廷の守護神である大三輪の神(大和国一の宮)大己貴神をこの比叡(日枝)の地に勧請された。それは天智天皇がこの近江国に皇居大津宮を遷都(天智天皇6年(667)されたことに由来する。
大三輪神は『出雲国造神賀詞』に伝えるように皇孫命(天皇)の近親守護神であることから、以来、勧請された三輪神大己貴神を尊称して「大比叡」とし、大山咋神を謙譲した形で「小比叡」と称した。『古事記』大年神の神裔の条には「大山咋神、亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」とある。延暦7年(788)最澄がこの地に天台宗比叡山延暦寺を創建するに当り一山の鎮守として奉斎し、比叡山は日枝山に由来する。『延喜式』には名神祭に預かる社として「日吉神社一座(比叡神に同じ)とあり、名神大社である。
平安時代には神仏習合も深まり、鎮守日吉社の神は釈迦の垂迹であるとする本地垂迹説に基づき尊崇を受け、延暦寺の側からは「山王権現」「山王社」「日吉社」と称され、強訴の折には叡山の僧により日吉社の神輿を奉じて入京するまでになり、山王三聖・山王七社・山王二十一社等多数の社殿が併立した。山王の名は最澄も事実遊学した唐の天台山国清寺の地主神として山王元弼真君が祀られたことにあり「山・王」の両字を三諦即一・一心三観の理を表わすものと説かれた。
皇室の崇敬篤く、後三条天皇をはじめ、歴代の天皇の行幸・御幸行啓は枚挙にいとまがない。例祭4月14日。この日は「日吉祭」で古く乾元2年(1302)に始まり、元亀年間(1570−72)に一時中絶したほかは、年々盛大に行われ、例祭の14日は盛大な船渡御が挙行され、その前後の3月1日神輿揚げ、4月3日大榊神事、同12日午の神事(牛尾・三宮両社の神輿を本宮拝殿に納める)、同13日神興入れ(本宮・牛尾・樹下・三宮の四基の神興を本宮拝殿に納める)また宵宮落し、同15日酉の神事等の特殊神事が長期に及ぶ。例祭日には全神輿が八柳浜から乗船、唐崎にて東遊が行われる。
社殿は本宮を代表として、切妻造りの前と左右に庇をつけたもので「日吉造り」と称される。貴重な歴史資料をはじめ重要文化財も多い。多くの摂末社をはじめ名勝旧跡も残っている。明治4年(1871)官幣大社に列格し祭神問題が起こったが昭和3年旧に復された。

神社辞典



日吉神社 名神大

日吉は比叡と訓べし○祭神大山咋神〇比叡山麓坂本村に在す○式三(臨時祭)名神祭二百八十五座、近江國日吉神社一座、○江家次第、(祈年穀奉幣)日吉、(近代被加五位」)廿二社注式云、(下八社)日吉、(幣数一前)〇拾芥抄云、三十番神、大比叡、(十七日)
古事記、大山咋神亦名山末之大主神、(大年神娶天知迦流美豆比売而生)此神者坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野松之尾、用鳴鏑者也、(旧事紀も同じ)今山王七社と称す、所謂大宮、(大巳貴命、称大比叡)二宮、(大山昨神、称小比叡、三十番神、十八日)三宮、(事代主命)聖真子、(天日方奇日方神、三十番神、十九日)八王子、(建御名方命、三十番神、廿一日、)客人、(伊弉冊尊、三十番神、廿日)十禅師、(瓊瓊杵尊)以上七社、(諸社根源記祭神異説あり)なほ首巻二十二社の條考合すべし、抑当杜之濫觴は、古事記、旧事紀の文にて明なり、考証に、釈最澄入唐、帰朝創建延暦寺於比叡山擬、異邦之天台山、亦以天台有山王祠、因日吉神社称山王と云るが如く、宣長も後世に日吉七社と申すは、古書に見えぬ事なり、其はかの最澄が、延暦寺を建る時よりの所爲と見えたり云々と云る尤然り、されば煎に七社の社號神號を挙たるも、此に預らぬ事といふべけれども、世上の流弊に、日吉七社と云へば博覧の為なり、尚当社の事を書たる物多しといへども、皆延暦寺草創以後の事なれば、是を贅筆せず、
祭祀
諸杜根元記に、後三條院延久4年4月23日記云、、今日比叡祭也、自今年、初被奉官幣、」明月記、建久10年4月22日、天晴、二宮、十禅師、八王子、三宮御輿、御王子宮拝殿於其所、奉幣、正真子、客人御輿、御大宮拝殿、価又同奉幣、」長興宿禰記、文明19年4月26日、晴、今日日吉祭也、臓口口楽向也、
臨時祭
諸社根元記に、建久3年2月13日、臨時祭始也、建暦3年以後相続、11月中申日式日、
行幸
諸社根元記に、延久3年10月29日始之、
神位、
三代実録、貞観元年正月27日甲中、奉授近江國從二位勲一等比叡神正二位、從五位下小比叡神從五位上、元慶4年5月19日壬申、奉授正二位勲一等大比叡神正一位、從五位上小比叡神從四位上
諸社根元記に、二宮、壽永2年正一位、聖眞子、建長2年正一位、八王子、客人、十禅師、三宮同前、
官幣、
三代實録、仁和3年4月6日己酉、分遺使者、奉幣近江國日吉明神社、(事見山城國八幡社下)

神社覈録






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