伊佐須美神社
いさすみじんじゃ


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【由緒】

伊佐須美神社の創建は不明ですが、伝承によると崇神天皇10年(紀元前88年)、国土平定の為、大毘古命が北陸道を御子神である建沼河別命が東海道を北上し当地域で合流した事から相津(会津)という地名が起こったとされ、2神は国家安寧の為、会津高原の天津嶽(標高:1386m)の山頂に伊弉諾尊、伊弉冉尊の分霊を勧請して祀ったのが始まりと伝えられています。その後、博士山(標高:1482m)、明神ヶ岳(標高:1074m)と移転を繰り返し、欽明天皇13年(552)に高田南原の地に遷り、同21年(560)に現在地に遷座し大毘古命、建沼河別命を合祀しています。伊佐須美神社は格式も高く、承和10年(843)に従五位下に列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では名神大社に記されるなど古くから信仰の対象となり会津総鎮守(会津郡と耶麻郡で式内社は伊佐須美神社と蚕養国神社、磐椅神社の3社、格式の高い名神大社は伊佐須美神社だけだった為、会津総鎮守とされた)、奥州二宮、岩代一宮にもなっています。歴代領主からも崇敬され室町時代後期に芦名盛安(高田城主)から寄進された金色の神輿は国重要文化財に指定されている他、永正11年(1514)に芦名盛舜(芦名家第15代当主)が社殿を再建し社領300貫文が安堵されています。天正年間(1573〜1593年)伊達政宗の会津侵攻により庇護者であった芦名家が常陸に逃れた事で一時衰退しましたが奥州仕置きで伊達家が岩出山(宮城県大崎市岩出山町)に移封されると豊臣秀吉から社領が認められ再興しています。江戸時代に入ると伊佐須美神社は会津藩の保科家(松平家)の崇敬社として、会津大鎮守六社に指定され寛政4年(1792)に社殿を再建されているをはじめ数多くの社宝が寄進され社領30石が安堵されています。明治6年(1873)には国幣中社に列しています。御田植祭は日本三大田植祭に数えられ催馬楽、獅子追い、田植人形、など古来から伝わるもので福島県最古の形式を伝えているそうです。神門(神社山門)は入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚楼門。拝殿は入母屋、銅板葺、平入、正面3間向拝付。本殿は三間社流造、銅板葺。祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命。
伊佐須美神社の文化財
 ・ 朱漆金銅装神輿−室町時代後期−国指定重要文化財
 ・ 会津の御田植祭−国選択無形民俗文化財
 ・ 木造狛犬一対−南北朝−高さ97cm、寄木造、漆仕上げ−福島県重要文化財
 ・ フジ(別称:飛竜のフジ・登竜のフジ・瑞木のフジ)−福島県指定天然記念物
 ・ 伊佐須美神社の田植神事−福島県指定無形民俗文化財
 ・ 黄金扉−室町−縦161.8cm、横55cm、厚3.8cm−会津美里町指定文化財
 ・ 古代扉−室町−縦173cm、横49.5cm、厚6cm−会津美里町指定文化財
 ・ 鉄華表−明応元年−全長193cm、円筒周196cm−会津美里町指定文化財
 ・ 日本紀竟宴和歌−江戸時代−全長5.5m−会津美里町指定文化財
 ・ 太々神楽−会津美里町指定無形民俗文化財
 ・ 伊佐須美神社奥宮の地−会津美里町指定史跡
 ・ 薄墨桜−推定樹齢800年−会津美里町指定天然記念物(福島県緑の文化財)
 ・ 伊佐須美神社社叢−会津美里町指定天然記念物(福島県緑の文化財)


【文化財】

重要文化財(国指定)
朱漆金銅装神輿(工芸品) 室町時代の作とされる神輿。大永6年(1526年)に高田館主の蘆名盛安・盛常父子によって奉献されたと伝わる。屋根は宝形造銅板張で、柱は金銅製。正面には朱漆塗で「堅二ツ引」・「左三ツ巴」の金銅の紋を打つ扉、正面以外の3方には金銅輪宝紋を打つ銅板を立て、それらの周囲に廻縁を巡らす。廻縁の高欄は金銅製で、四方に階段と金銅製鳥居を付す。この神輿は室町時代後期の特色を有し、同時代の優品とされる[39][40]。現在は伊佐須美神社宝物殿に所蔵・展示されている。昭和16年7月3日指定。
無形民俗文化財(国選択)
会津の御田植祭 - 伊佐須美神社の田植神事、慶徳稲荷神社(喜多方市)の田植神事を包括。平成27年3月2日選択。
福島県指定文化財
重要文化財(有形文化財) 木造狛犬 1対(工芸品) 南北朝時代の作と推定される1対の狛犬。高さは各97cmで、巨大な木造狛犬として全国でも珍しいものである。像は寄木造で、漆で塗られている。頭小胴大で、平安時代・鎌倉時代流行のものとは形式を異にしている[43]。現在は宝物殿に所蔵・展示されている。昭和28年10月1日指定。
重要無形民俗文化財 伊佐須美神社の田植神事 - 昭和55年3月28日指定。
天然記念物 伊佐須美神社のフジ - 平成11年3月30日指定。
会津美里町指定文化財
重要文化財(有形文化財) 黄金扉 1枚(工芸品) 室町時代の作と見られる金色の扉。大きさは縦161.8cm、横55cmで、厚さ3.8cmである。扉は古代扉よりは小型ながら豪華なもので、元は本殿の扉であったと推定される。庶民や信仰者の力のみによるこの扉の製作は考えられず、領主からの多大な支援の存在があったと指摘される。古文書では、文亀3年(1503年)の社殿焼失を受け、永正11年(1514年)に蘆名盛高・盛滋父子が願主となって社殿を再建したと見えるが、この扉はその時の作と推定される。その社殿も天明3年(1783年)に焼失しているが、その際に難を逃れたと見られる[45]。現在は宝物殿に所蔵・展示されている。昭和49年3月1日指定。
古代扉 1枚(工芸品) 室町時代の作と見られる扉。金銅椿文朱漆の扉で、大きさは縦173cm、横49.5cmで、厚さ6cmである。元は本殿の内陣に使用された扉と推定される。黄金扉同様、永正11年(1514年)の再建時の扉で、天明3年(1783年)の火災で難を逃れたと推定される。現在は宝物殿に所蔵・展示されている。昭和49年3月1日指定。
鉄華表 1対(工芸品) 鉄製の華表(鳥居の意)。円筒形であり内部は空洞で、大きさは全長193cm、円筒周196cm。『会津旧事雑考』によると、明応元年(1492年)10月26日に長嶺越中という人物が建てたといい、両柱があるも虹梁はないという。『新編会津風土記』にも記載が見えるが、これらの文献から鳥居の足を差し込んで使用する筒であると推測される。一方で、これらは灯籠が壊れた後の柱であるとする伝えもある。平成6年4月1日指定。
日本紀竟宴和歌 1巻(古文書) 江戸時代、紙本墨書の和歌。全長5.5m。前文は服部安休、和歌は吉川惟足、後書は水野清雄の3人の筆跡になる。寛文10年(1670年)8月17日に会津藩主の保科正之が家臣・神官ら42人を集め、城内で服部安休による「日本紀神代巻」の講義を開いた際、講義後の祝宴(竟宴)で講義内容を詠んだ和歌を記したものである。この時42人は和歌、1人は漢詩を詠んでいる。昭和49年3月1日指定。
重要無形民俗文化財 太々神楽 - 昭和50年3月25日指定。
史跡 伊佐須美神社奥宮の地 - 昭和44年6月20日指定。
天然記念物 薄墨桜 - 昭和46年4月1日指定。昭和57年9月13日に福島県緑の文化財に登録。
伊佐須美神社社叢 - 平成6年4月1日指定。昭和57年9月13日に福島県緑の文化財に登録。



【お田植祭り】

毎年7月12日に行われる御田植祭は伊佐須美神社最大の祭りであると同時に、県内でも屈指の本格的な祭典です。伊勢の朝田、熱田の夕田と並び高田の昼田と称され、古くから日本三田植に数えられています。勇壮な「獅子追い」に始まり農家の長男が女装して踊る「早乙女踊り」、午後からは「神輿渡御」や「田植式」などが行われます。「神輿渡御」の祭にうたわれる、催馬楽とも言われる田植え歌は中世の名残りをとどめたもので、福島県で最も古いと言われています。





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