金鑽神社
かなさなじんじゃ


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【由緒】

武藏國児玉郡ニノ宮村鎭座金鑚神社ハ祭神天照皇太神素盞烏尊日本武尊ノ三柱ノ神二座セリ、今敬ミテ御鎭座ノ年月日及其由緒ヲ尋ルニ、景行天皇四十一年皇子日本武尊東征ノ日東國鎭護ノ爲伊勢神宮二於テ倭姫命ヨリ賜リテ常二草薙劔二副ヒ佩ヒ給ヒル火打金ヲ御霊代トシテ、天照皇太神素盞烏命両神ヲ齋キ祭り金鑚神社ト称奉ラセ給フテ関東総鎭守ト崇敬ス、日本武尊ハ欽明天皇二年尊ノ大勲ヲ追感アラセラレ合祭シテ勅幣ヲ奉ラセ給フ所ナリト云。

金鑚神社鎭座之由來記



【由緒】

此地を御室嶽と称し約五千坪を神体山とす。(○中略)貞観4年6月神階正六位を賜い官社に列し同年8月從五位下を賜い(三代實録)、延喜の制に名神大社に列す。延暦20年坂上田村麿祈願して夷賊討平の功を奏し、永承6年源義家祈願して奥賊討平の功を奏し大虎小虎の琵琶二面を奉納す。徳川時代朱印三十石を賜い、八幡山外二十二ケ村の総鎭守として几郷用水水利守護の神威を垂る。明治6年3月縣社兼郷社となり、明治18年4月官幣中社に列格し、昭和21年社格を失い、昭和24年10月10日境内地一萬6450坪を國家より無償譲與を受けたり。明治35年祝詞舎中門拝殿を改築し、明治38年12月勅使参向あり。大正4年11月大嘗祭につき勅使参向あり。大正15年特別建造物多宝塔を文部省より一萬円の交付を受け大修理を加へ、昭和3年11月大嘗祭につき勅使参向あり。昭和9年4月神饌所改築、神橋改築、列格五十年祭を行い、同年10月勅使の参向あり。同15年紀元二千六百年記念祭を行い、同16年11月勅使参向あり。同26年4月祝詞舎中門拝殿屋根柿葺換工事を竣工す。昭和22年六町三十八ケ村に渉り神社奉賛会を設定したり

神社明細帳



【金鑚神社】

社伝によると、創立は欽明天皇の2年(541年)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が厚かった。 境内は、欅や銀杏などの老樹に囲まれ、本殿と拝殿とを幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は亨保9年(1724年)、拝殿は安永7年(1778年)、幣殿は嘉永3年(1850年)のそれぞれの再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。大鳥居には、老中松平定信が揮毫した社額号がある。 当社の御神木となっている楠木の巨木は、埼玉県指定の天然記念物で、幹回り5.1m、高さ約20m、樹齢約350年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信嶺の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられている。 このほか、当社には本庄市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、金鑚神楽、小笠原忠貴筆建立祈願文がある。 数ある当社の祭りの中でも、例大祭は「本庄祭り」として一際名高い。この祭りは、江戸時代には「奥のお九日(おくのおくんち)」と呼ばれ、毎年9月29日に五穀豊穣と宿内繁盛を祈るものであったが、明治7年ごろ現行の祭日に変更された。祭りに際しては、神賑行事として北関東随一と称される山車(だし)の市内曳き回しがあり、旧本庄宿の各町内が自慢の山車を繰り出し、本庄市観光協会と各自治会の主導で旧中山道を中心として盛大に巡行を行う。一方、当社では厳粛な祭儀の後、御祭神である天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊の三柱の神霊を神輿に移して渡御式(とぎょしき)が斎行され、神楽殿では地元の金鑚神楽本庄組による神代神楽奉納がある。

埼玉の神社



金鑚神社

社名
神流川周辺では刀などの原料となる良好な砂鉄が得られ、御嶽山からは鉄が産出したという伝承がある。
社名「金鑚(かなさな)」は、古くは「金佐奈」と記載され、砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源とも、 また 産出する砂鉄が昆虫のサナギのような塊だったため「金サナギ」が語源とも考えられている。
児玉郡は 埼玉県の平成6年度(1994)の調査報告において 1,380基の古墳が確認されており、この地域を 「魏志倭人伝」にある2〜3世紀頃の倭人のクニの1つ「華奴蘇奴(かぬそぬ)国」に比定する説がある。
歴史
創建
元禄年間(1688-1704)につくられた「金鑚大明神縁起」や明治35年(1902)の「金鑚神社鎮座之由来記」によると、 金鑚神社の創始は「景行天皇41年(111)に日本武尊が東国遠征の折に、倭姫命より授けられた草薙剣とともに携えてきた 火鑽金(火打金)を御霊代として山中に納めて、天照皇太神と素戔嗚尊の二柱の神を祀ったことによる」と伝えられている。
社格
「日本三代実録」貞観4年(862)6月4日の条に、「武蔵国正六位上金佐奈神列於官社」とあり、 同年8月6日の条では従五位下の神階を授けられたことが記録されている。
延長5年(927)にまとめられた「延喜式」神名帳には「児玉郡一座 大 金佐奈神社 名神大」と記載され、 古くは「金佐奈神社」とも表記された名神大社である。 武蔵国の名神大社は武蔵一宮氷川神社と当社のみで、他は式内小社である。
金鑚神社は、古代から官社として神階を授かり、他の式内社より格が上位であり、 江戸時代には武蔵国二宮と呼ばれるのにふさわしい祭祀組織が築かれていたと思われる。
明治6年(1873)県社に昇格、明治18年(1885)官幣中社として官幣社に列せられた。 戦後は神社本庁包括下の別表神社。

公式HP



金鑚神社

神體金山彦命或は素戔嗚尊とも云、二十二村の惣鎮守なり、【延喜式】神名帳に武蔵國兒玉郡金佐奈神社名神大と載す、【三代實録】に貞観4年6月四日武蔵國正六位上金佐奈神列於官社、同年8月6日授武蔵國正六位上金佐奈神從五位下と見ゆ、古は村東今の見先森の兩社ある所に建し由、今の社地も松杉繁茂したれば、轉遷も古きことなるべし、往古の社傳は元禄11年回禄にかかり烏有となり、永禄年中の古鰐口を別當寺に蔵す、銘文に金鑚■五宮と彫れり、其故は詳ならず、其圖上に載す

新編武蔵風土記稿



金鑽神社

かなさなじんじや 埼玉県児玉郡神川村二宮。旧官幣中社(現、別表神社)。式内社。
武蔵一の宮の氷川神社についで「二の宮さま」と通称する。祭神は天照大神、素戔鳴尊。日本武尊を配祀する。社伝によれば、日本武尊東征の帰りに、かねて伊勢神宮に立ち寄られた際に倭姫命より賜わられた火鑽金を御霊代として当地の御室ケ嶽に鎮め給い、あわせて天照大神、素戔鳴尊の二柱を奉斎された。貞観4年(862)神階従五位下に叙せられ、鎌倉時代には武蔵児玉党の総鎮守として郡内一帯の武士団の篤い崇敬をうけ、江戸幕府には朱印領三〇石を安堵された。近世以来、児玉から本庄に至る九郷の総氏神の地位にある。また大社でありながら本殿を構えず、もっぱら背後の御室ケ嶽を神奈備(神体山)とする拝殿だけを備えた古い社殿形式を伝承する点で、奈良の大神神社(桜井市に鎮座)と並び称される。御室ケ嶽には通称「鏡石」という大岩(特別天然記念物)があり、古くは磐座とも考えられる。境内には天文3年(1534)建立の多宝塔(重要文化財)が現存する。
4月15日の例祭には九郷からの奉幣があり、11月23日の火鑽祭には懸税神事として九郷から稲穂の奉納があり、1月15日には筒粥神事もある

神社辞典






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