秩父神社
ちちぶじんじゃ


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【由緒】

秩父神社のご創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀−国造本紀−』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。
元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。
現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることなどから、埼玉県の有形文化財に指定されています。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。

公式HP



【例祭】

「秩父夜祭」の名で知られる秩父神社の例祭は、能楽を想わせる典雅な神代神楽に勇壮な屋台囃子、豪華な笠鉾・屋台の曳き回しに呼応する盛大な打ち上げ花火の競演など、人々を魅了するお祭りとして知られ、例年20万人以上の人出が見込まれています。
そもそもこのお祭りは、ご祭神である妙見様にちなんだ祭礼であり、かつては旧暦11月3日に行われていたものが、明治の改暦によって12月3日となり、現在に至っています。
妙見信仰とは、古代バビロニアにはじまり、インドと中国を経て、仏教と共に我が国に伝来したものが、平安時代に献灯をもってする北辰祭として都に流行し、時を経て上野(今の群馬県)の国衙に近い花園妙見寺から秩父平氏が招来したもので、北辰(北極星)・北斗(七星)を神座とする星辰の信仰として伝えられました。
秩父夜祭が、武甲山の男神と秩父神社の女神との年に一度の逢瀬の物語として語られることも、中世以来の信仰史の育てた風土のロマンにまつわるものと考えられます。
ところで、このお祭りには更に古層とも言うべき隠れた神聖コードが潜んでいます。それを解読するヒントが、ご神幸行列の先頭を行く大榊に巻きつけられた藁づくりの竜神です。この竜神は、毎年、春4月4日に行われる特殊神事「御田植祭」(埼玉県選定無形民俗文化財)において、市内に鎮座する今宮神社境内の竜神池から迎える水神様のご神体に他なりません。しかも、この竜神池の湧き水は、秩父神社に対面して聳える武甲山の伏流水であり、盆地をうるおす大切な水源なのです。秋の収穫を終えての夜祭の神幸祭には、春先に招迎した武甲山の竜神を初冬に歓送するという太古以来の壮大な風土の神祭りを読み解くことができるのです。
およそ全国に鎮座する古社には、土地の神話的風土をその社地のたたずまいと祭礼の伝承様式に体現しているものが多く、秩父夜祭もまた、秩父盆地の生活風土を神話的世界に包み込む祭礼によって、とかく薄れ勝ちな故里の風貌をなおも色濃く守り伝えている伝統ある祭礼文化なのです。

公式HP



【文化財】

国重要無形民俗文化財
重要無形民俗文化財秩父祭の屋台行事と神楽 - 昭和54年2月3日指定
選択無形民俗文化財秩父神社神楽 - 昭和50年12月8日選択
秩父祭屋台 6基 - 昭和37年5月23日指定。旧部品は市指定有形民俗文化財 中近笠鉾、下郷笠鉾、宮地屋台、上町屋台、中町屋台、本町屋台
埼玉県指定文化財
有形文化財社殿(附 天正20年の棟札 1枚・神輿 1基)(建造物) - 神輿は室町時代のもので、埼玉県最古。昭和30年11月1日指定
秩父神社文書 9点(歴史資料) - 昭和48年3月9日指定
無形民俗文化財秩父神社御田植祭 - 平成21年3月17日指定
天然記念物秩父神社柞の森のブッポウソウ - 昭和35年3月1日指定
秩父市指定文化財
有形文化財刀剣脇差 1口(工芸品) - 昭和36年1月9日指定
妙見塚 1基(附 幟旗2枚)(有形民俗文化財) - 妙見塚は秩父神社と合祀される前の妙見宮があったところにある塚
川瀬祭の屋台・笠鉾 8基(有形民俗文化財) - 平成20年3月25日指定 番場屋台、宮側屋台、東町屋台、熊木笠鉾、道生笠鉾、上町笠鉾、中町笠鉾、本町屋台(夏)
史跡秩父神社大祭御旅所 - 昭和29年11月3日指定


【天神地祇社】

平安時代から中世にかけて、朝廷の「 二十二社」奉幣制度と共に、全国の各国毎に「一ノ宮」「総社」の運営、祭祀の尊重が図られるようになりました。かつて秩父地方は、知知夫国として独立した存在でありましたが、その当時には既に武蔵国に属しており、現在の東京都府中市に鎮座致します大国魂神社(別称六所宮)が武蔵国の総社とされ、その第四ノ宮に当社のご祭神が奉祀されました。
 古くから当神社の境内社の一つとされて参りましたこの天神地祇社は、全国の一ノ宮(計七十五座)をお祀りしています。これほど多くの一ノ宮の神々を、境内社としてお祀りしている事例は全国的にも珍しいものと思います。
 何故、このような形でお祀りされたのかは定かではありませんが、一説によると当社のご祭神である八意思兼命が多くの神々の意見を纏められ、折々のご聖断を下される神様として古典神話の中で活躍されていることから、たくさんの一ノ宮の神様がお祀りされたとも云われています。ともあれ、これも秩父の歴史風土に深く根差した独自の信仰の表れであると云えるかもしれません。
 この天神地祇社それぞれのご神前にお参りすることによって、合せて全国の一ノ宮を遥拝することになりますので、ご案内申上げます。

社頭掲示板



秩父神社

ちちぶじんじや 埼玉県秩父市番場町。
旧国幣小社(現、別表神社)。もと大宮郷と称した市街地中央に位置し、社殿は名峰、武甲山(1336m)を望んで南面する。
祭神は八意思兼命・知知夫彦命・天之御中主神を配祀する。『国造本紀』に、第一〇代崇神天皇の御代、八意思金命10世の孫、知知夫彦命が国造に任ぜられ、そのとき「大神拝祠」とある。この「大神」をめぐって近世以来三つの説があり、国造の神祖・思兼命とする説、同時代の『崇神紀』にみえる「大神」と同語で大己貴命をさすとする鋭、それに『天神本紀』に秩父国造の祖とある思兼命の御子、天下春命とする説である。決定的な史料を欠くが、もと「大神」とは秩父の国魂神の汎称に他ならず、七世紀頃に旧国造家が祀職化するに当たって、神祖・思兼命を始祖・知知夫彦命がその斎主として創祀したとの伝承が成立したとみるのが妥当であろう。『三代実録』には、貞観4年(862)に正五位下勲七等から正五位上に、同13年を経て元慶2年(878)正四位下に叙すとある。勲功は秩父銅奉献を慶祝した和銅改元(708)にかかわるかも知れない。延喜の制では小社に列して国幣をうけ、武蔵国府の総社(現、府中大国魂神社)には四ノ宮として勧請された。鎌倉初期に秩父平氏の崇敬する妙見菩薩を合祀し大宮妙見と称して以来、戦勝奇瑞の妙見信仰の一拠点となり、末流の関東平氏、とくに千葉氏、相馬氏の分祠によって上総・相馬地方の妙見信仰の源ともなっている。『甲斐国志』によれば、武田信玄も甲斐国急林寺に秩父妙見を勧請している。鎌倉・江戸期を通じて幕府の篤い崇敬をうけ、天正19年(1591)家康より五七石の朱印領を安堵された。近世には「虎修法」なる秘法をもって大麻を将軍と領主に献じたが、庶民には産育と養蚕の守り神として崇敬を集めた。維新後は妙見を廃してこれを天之御中主神の配祀と定め、現代では主神、八意思兼命を学術文芸の守護をもって崇め祀っている。例大祭は12月3日の通称秩父夜祭(国指定無形文化財)。国文化財指定の山車・屋台六基の華麗な供奉のもとに武甲山を望む斎場で執行される神事は日本三大曳山祭の一つと称される。特殊神事として2月3日の節分祭、4月3日の田植神事があり、他に7月20日の川瀬祭がある。因みに、近世以来例大祭は妙見市と称され、これを発端に荒川沿いを下って熊谷、大宮(十日市)、浦和と順日に催される歳の市は一名妙見崩れとして江戸板橋に達するのが例であった。

神社辞典



妙見社

下町續にあり、當社は【延喜式】神名帳に載たる、本郡二座の一秩父神社なり、人皇四十代天武天皇白鳳4年の鎮座にして、祭神は當國國造の祖知々夫彦命とも、大己貴尊とも云、又當社天正20年の棟札の裏書に、欽明天皇御宇、明要6年丙寅鎮座とあり、明要は逸號なれば、丙寅は即位より七年に當れり、當今の縁起には、大和國三輪大明神を寫など記して、其説定かならず、按に【國造本紀】瑞籬浅御世八意思金命十世孫知々夫彦命、定賜國造拝祠大神とあるに據れば、崇神の浅國造を置玉ひし時より、國神の祀らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑ひなかるべし、然に後年知々夫彦の靈をも配せ祀りしかば、兩説となりしにあらずや、三輪を寫せしと云は、いかなる據にや詳ならず、又當今妙見社と號するものは、後年社内に北辰妙見社を勸請して、靈驗著しかりければ、終に妙見の名盛に行はれて、本社の舊號は失ひしなるべし、按に【三代實録】に、貞觀4年7月21日戊子、授武蔵國正五位下勲七等秩父神正五位上、同13年11月10日壬午授從四位下、元慶2年12月8日己巳授正四位下と載るのみならず、見に其地の名を大宮と稱せるにても當時大社なりし事知らる、神體白幣を置く、社傳云、中古までは末社も七十五宇建たりしに、兵亂の爲に焼亡せられ、神田をも掠め奪はれ、神殿瑞籬のみ纔に存せしを、東照宮廢れたるを興させ玉ひ、五十七石の神領を御寄附ありしより、神事祭禮等舊に復すと云、毎年2月3日祈年の祀り、8月23日年穀の祭、11月3日麥穀の祀りにて、近郷つどひてことに賑はへり、按に當所へ妙見を勧請せしことは、千葉氏譜に據に、天慶年中平高望の五男、村岡五郎良文常陸の國香、下総國染谷川の邊にて、将門と合戦の時、國香が加勢としてはせ向ひ、難なく将門を追退けし頃奇瑞有し故、良文里老を招て此邊に靈驗の神社ありやと問ひければ、里老答て上野國群馬郡花園村に、妙見菩薩の靈場ありと云、夫より良文同國緑野郡平井へ赴き、秩父へ居を移せし時、彼花園の妙見を當地へ勧請し、其後又良文下總國千葉へ轉ぜし頃、當所の妙見を彼國へ勧請すといへり、其後良文三代の孫平将恒(或作将常再び當郡中村に移住、中村太郎秩父太郎ともいふ)と號し、子孫打續て居住せしかば、畠山・河越・小山田・江戸・葛西・榛谷等の家、是より分れて當國の名家となれり、彼中村と云は古き郷名にて、【和名抄】にも出たれど、今は纔に小名に遺れり
【東鑑】文治6年11月3日、右大将ョ朝發駕随兵の中に、中村兵衛尉・同小太郎・同七郎・同五郎・同四郎など見えしは、爰に住せし人にや、又正和・延慶の頃中村彌次郎なるもの、妙見造營及寄進等の文書の寫數通、神職の家に傳へたり、こは全く良文の末孫なるべし、今も祭禮の時小名中村より舊例に任せて、神馬を牽奉るは、将恒以来舊儀の僅に存しならん、されど中葉戰争の頃、社頭も兵焚に罹りて、舊記等悉く失ひたるのみならず、近き年神主に不正の事ありて御告を蒙り、一旦斷家となり、其後新に置れて、今の薗田筑前まで二代なるよしいへば、古事の傳はざるも宜なり、當今傳ふる所の縁起は、恐くは後人の妄作に成りしものなるべし、社地一萬千よん百八十四坪、是を柞の森と稱す、杉・檜・槻の大木多く繁茂し、古社の様思ひ知らる、神主唯一神道吉田家の配下にて園田筑前と云、社人宮前・丹波・同主税権代丹後・橋塚・淡路など稱せる者あり、
本社。南向一丈七尺餘に一丈九尺餘、高二丈七尺八寸、前に幣殿あり、一丈二尺に一丈八尺、高一丈八尺五寸、拝殿三丈六尺に一丈八尺餘、高二丈三尺餘唐破風作なり
鳥居。木にて造る、南向柱間二丈、拝殿距ること四十三間餘、此間切石を敷けり、社地には檜・杉生茂り、又大樫など若干株あり、此鳥居内にある末社下にしるす、當社棟札左の如し、(棟札銘文省略)
〇東照宮御社。本社東南隅にあり
〇知々夫彦社
〇天照太神社
〇日御崎社
〇豊受太神社
〇七十五末社。本社の後ろより、少し左右へ折廻し、一棟にて七十五座區別す。片倉明神社、由留伎明神社、伊雑並明神社、羽野明神社、阿野権現社、多戸明神社、中原明神社、多賀明神社、枚岡明神社、大鳥明神社、住吉明神社、敢國明神社、都並岐明神社、伊射波明神社、熱田明神社、事麻知明神社、淺間明神社、三島明神社、寒川明神社、洲崎明神社、玉前明神社、香取大神宮、鹿島大神宮、南宮明神社、水無明神社、諏訪明神社、抜鉾明神社、二荒山明神社、都々古和気明神社、大物忌明神社、遠敷明神社、気比明神社、白山明神社、気多明神社、伊夜彦明神社、渡津明神社、天神地祇社、物部明神社、由良姫明神社、仲山明神社、吉備明神社、嚴島明神社、玉祖明神社、日前明神社、大麻彦明神社、田村明神社、都佐明神社、筥崎明神社、高良玉垂明神社、西寒田明神社、淀姫明神社、阿蘇明神社、和多積明神社、松尾明神社、吉田明神社、戸隠明神社、丹生明神社、貴布彌明神社、廣瀬明神社、瀧田明神社、正八幡宮、粟島明神社、恩智明神社、斯香明神社、熊野権現社、水尾明神社、白鬚明神社、御崎明神社、石出明神社、賀茂明神社、許波明神社
神楽殿。御供所。手水石
七つ井。本社より西北の間に、其數七つ往々にあり、里民常用とす徑四尺許、平水二尺餘の清水にて、旱魃にも涸れず、洪水にも溢れずと云、
鐡燈籠二基。
石灯籠八基。
雨池。或は尼ヶ池とも書せり本社の東二町許にあり、往昔?祭の時、この池にて祈?せしよし、今は水涸て畑となれり、僅の?あり、
拝来。本社の南五町許にあり、例祭11月3日、神輿の旅所となりて、人々拝み来ると云ふより地名となり。
犬戻橋。本社の艮二町許にあり、昔は土橋なりしが、今は石橋にて長九尺、幅五尺許、大宮郷より大野原村へ往来の小堀に架せり、名義詳ならねど、其名を惡みて婚禮の時には、渡らぬことゝはなれり。
神主園田筑前。

新編武蔵風土記稿



秩父神社

古の面影を今に伝える柞の森を背に、雄々しく力強い山容を持つ武甲山を仰ぎ見るように鎮座する当社は、県内屈指の古社であり、その例祭は秩父夜祭の名で広く全国に知られている。
「秩父」は、古代においては「知知夫」と宛て、一つの国を成していた。当時の知知夫国の範囲は、現在の秩父郡とほぼ等しいと考えられており、国の政務や祭胞を司る国造が置かれたのは、武蔵国に約一世紀先立つ、崇神天皇の時代であったと『國造本紀』に記されている。「瑞籬朝御世。八意思金命十世孫知知夫彦命定賜国造拝祠大神。」の記事がそれである。この『國造本紀』の記事は、国造の任命を伝えると同時に、当社の創建をも伝えている。すなわち、「拝祠大神」の一節である。社記には、允恭天皇の34年に、知知夫彦命九世の孫である狭手男巨が「遠き御祖の御璽を葉葉染の社に祀る」とあることから、まず八意思兼命(大神)が祀られ、後に知知夫彦命が併せ祀られたものと思われる。
知知夫国はやがて武蔵国に併合され、その一郡となったが、平安初期においては、なお相当な勢力を有しており、当社もまたその勢力に支えられ、繁栄したと推察される。
『三代実録』には、諸社への神階奉授の記録がある。これを県内の神社に限って見るならば、神階奉授の初期にあっては、当社が最高位に叙され、足立郡の氷川神社がこれに次いでいた。貞観7年になると正五位上であった当社を抜いて氷川神社が正四位下に昇進し、この関係は逆になる。最終的には、元慶2年に、氷川神社は正四位上、当社は正四位下に叙されるが、これに次ぐ椋神社は従五位上、金佐奈神社は従五位下である。このことは、『延喜式』の神名帳では氷川神社や金佐奈神社が「名神大」となっているのに対し、当社が「名紳小」であることから考えても、勢力の変遷を示すものと注目できる。
しかし、古くは大きな勢力を誇った当社ではあるが、延長5年に完成した『延喜式』に記されているのを最後に、明治維新に至るまで歴史上にその名を表すことはない。それは、律令制度の崩壊により、当社を支えてきた豪族の力が弱まるにつれ、当社も次第に衰徴していったためであろう。これに代わって登場するのが妙見社である。
天慶年間、平将門と常陸大掾・鎮守府将軍であった平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は、同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を撃ち破ることができた。以来、良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年、秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが、秩父の妙見社の創建であると、社記や『風土記稿』は伝えている。
良文はその後、下総国に居を移したが、その子孫は秩父に土着し、秩父平氏と呼ばれる武士団を形成した。また、武蔵七党の丹党の惣領である中村氏も、秩父に土着した。
中世の秩父においては、式内社秩父神社が忘れられ、妙見社が、奉斎する武士団に支えられて、交代したものと思われる。
当初、妙見社は、秩父神社の北東の宮地(一説には大野原)(註:大野原愛宕神社参照)に鎮座していたが、嘉禎元年に落雷に遭い社監を焼失したため、翌年、幕府は再建を命じ、柞の森に妙見社を移し、火神である愛宕神を旧地に祀り、後難を防がした。正和3年に至ってようやく社股が落成し、遷宮が行われた。これについては、正和2年の『秩父妙見宮造営次第』(県指定有形文化財)が残されている。次いで、社記に「応永4年の秋7月、鎌倉の主将足利左馬頭氏侯、中村の氏、園田の氏此二氏に命じて神社の再興を営もふさしむ」とあり、丹党中村氏が奉斎の中心にあり、神職として薗田氏があって、今日の祭祀が整えられた時期はこのころと考えられる。
永禄12年、甲斐国から秩父に攻め入った武田信玄は、郡内の有力な社寺に次々と火を放ち、焼き払った。このため、当社も社領を失い社殿は烏有に帰した。しかし、氏子らは天正元年に仮殿を造営し、同7年には鉢形城主北条氏邦が当社再建に着手するとともに社領七石を寄進した。天正18年に鉢形城が落城したため、この北条氏による再建は成らなかったものの、同19年には徳川家康から社領五〇石を加増され、五七石となり、翌20年には家康の命により本殿の造営が行われ、次いで拝殿・幣殿が造営された。これが昭和30年に県指定有形文化財となった現在の社殿で、天正20年の棟札が現存する。構造は権現造り(本殿は三間社流造り)で、本殿・拝殿ともに極彩色の華麗な彫刻が施されている。とりわけ、拝殿正面左側の「子育ての虎」と本駿東側の「つなぎの竜」と題された彫刻は有名で、当代随一の名工左甚五郎の手になるものと伝えられている。
江戸時代の絵図を見ると、境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むように天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御崎社の四桐が配されている。神宮司社は、式内社である秩父神社の衰微した姿であるといわれており、斎藤鶴磯は『武蔵野話』の中で、この神宮司社について「この神祠は地主にして妙見宮は地借なるべし。(中略)妙見宮は大祠にして秩父神祠は小祠なり。諺にいへる借家をかしておもやをとらるゝのたぐひにて、いづれ寺院神祠には、えてある事なり」と評している。
明治維新に際して行われた神仏分離を機に、当社は秩父神社の旧号に復することになり、祭神も八意思兼命・知知夫彦命の二柱に改められ(前述の神宮司社はこれにより廃止)、妙見社祭神であった妙見大菩薩は天之御中主神として配記されることになった。
明治4年に郷社となったが、同6年に県社に昇格し、次いで昭和3年には国幣小社となった。昭和28年には、同年逝去された秩父宮雍仁親王の尊霊を配祀し、現在に至っている。

埼玉の神社



秩父神社

秩父は郡名に同じ〇祭神大己貴命、(地名記)〇大宮本町に在す、今妙見と称す、(地名記参考)例祭月日、
兵家茶話に、三峯社は秩父神社也、日本武尊を祭る、社はなくて石七ッあり、ゆゑに七石大明神と云、是奥の社也、甲信武三國の峯にて白鳥郷大龍村と云処也、当郷山六十六村あり、是土人の説也と云り、
神位
三代実録、貞観4年7月21日戊子、授武蔵國正五位下動七等秩父神正五位上、同13年11月10日壬午、授武蔵國正五位上勲七等秩父神從四位下、元慶2年12月8日己巳、授武藏国從四位上勲七等秩父神正四位下、

神社覈録



縣社 秩父神社

祭神 八意思兼命 知々夫彦命
合祭神 大國主命 素戔鳴命
本社は元と妙見社又は柞杜とも称せり、創立年代詳ならす、但し天正20年の棟札に、当社開基者、仁王三十代欽明天皇御宇明要6年丙寅奉祝云々と、三代實録に清和天皇貞観4年7月戊子、正五位下勲七等秩父神に正五位上を授くるよし見え、次いで同13年11月壬午、從四位下を賜ひ、陽成天皇元慶2年12月己巳從四位上より正四位下を授くるよし見え、延喜の制小社に列せらる、後世当國四宮たり、往古甚だ盛大にして「中古マテハ末社モ七十五宇建タリ」と新編武藏風土記稿に見えしも、近古兵乱の爲め末社焼失神田掠奪の厄に遇ひ、僅に瑞離内を存するのみ、然るに徳川家康天下の権を握るに当り、社殿復興社領五十七石寄進せられ、漸く旧観に復することを得だりと、当社、社殿は天正20年の棟札に、延慶2年造営、後ち元亀元年放火に遇ひ、天正元年再興すと雖も麓造、即ち天正20年徳川家康大旦那となり再興せられたるよし見えたるが、尚ほ当社緑起に依れば、嘉偵元年9月雷火に遇ひて社灰燼となり、延慶2年10月假殿遷宮、応永4年7月本殿再典、永禄12年武田信玄隣國侵掠の際兵焚に罹り再び灰燼に帰す、天正7年に至り北條氏邦假殿造営、圭田七石を附せしが、同19年11月徳川家康五拾石を加増し、20年本殿造営云々と、明治4年縣社に列せらる、社殿は本殿、幣殿拝殿、神樂殿、境内は3185坪(官有地第一種)、内530坪、21年公園地に組替しが、32年公園地壼町三反入畝五歩別に一反七畝二十歩境内に編入せられたり、社記記して云く、「新地11484坪、是ヲ柞ノ森ト称ス、杉松槻ノ大木多ク繁茂シ、古社ノ様思ヒ知ラル」
旧社家神主園田筑前が家に傳ふる所の古丈書二通同書に見えたり、正和2年当社造営の事に関し鎌倉將軍に致すの書たり、

明治神社誌料






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