惠奈神社
えなじんじゃ


戻るボタン





【由緒】

創建は不詳で、延長5年(927年)朝廷から幣帛料を賜った神社として、延喜式神名帳に恵那郡三座の内恵那神社と記されています。
恵那山には天照大神の胞衣を納めた地という伝承があり、恵那山信仰がありました。恵那山に鎮座する恵那権現社のことを、「中山道筋道之記」は「恵那ヶ嵩 中津川宿内より南 但シ中津川宿より麓まで二里 頂上に七社これ有り候」と書き、恵那権現、役行者、富士権現、神明、剣権現、和光同塵、熊野権現の七社をあげています。湯舟沢の諏訪社には恵那権現が合祀されているそうです。恵那権現の所属を巡って、落合村と手金野村(手賀野)で軋轢があったことも書かれているそうです。
天正4年(1576年)には恵那神社七社が再建されたようです。中川旧記(胞梺雑誌略草)によると、「小木曽彦十方控ニこれ有り」と、「永禄4年(1561年)9月 願主小木曽五郎兵衛 天正4年(1576年)七社共再建」の棟札があったことが書かれています。
正徳3年(1713年)3月の再建の記録では、川上(かおれ)の産土神「神明社」を除く六杜は、いずれも山岳信仰を基盤としており、修験道とのかかわりも深かったようです。
「飯沼村藤四郎日記」から宝暦14年(明和元年)(1764年)の恵那権現参詣の様子を見ると、参拝する道は、阿木村や飯沼村などから、龍泉寺(根の上にあった寺)道を通り川上(かおれ)へ下る道、それに、中山道沿いの村々などから、中津川を溯上して登山する二つの道があり、どちらから参拝したとしても、川上(かおれ)に一泊していたようです。
また、現在市内中村にある宗泉寺は、創建年月は不明ですが以前は恵那神社の前にあり(神仏習合)、恵那神社の別当も兼ね勤めていたそうです。川上(かおれ)には、寺屋敷の地名があり、宗泉寺の宝物として社僧当時の笏が残っています。恵那神社付近には五輪塔や宝篋印塔もあります。
明治45年(1912年)年に宮司 梅村 馨氏によって発刊された恵那神社の由緒や氏子など同神社について解説した「恵那神社誌」があり、「国立国会図書館ライブラリ」にて読むことができます。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815146/1
参考資料:中津川市史 中巻T

公式HP



【恵那神社由緒】

御祭神 主祭神 伊邪那伎大神 伊邪那美大神の夫婦神
社格 
延長5年(927)に完成した「延喜式神名帳」に恵那郡三座の内恵奈神社と記されて居る(奥宮)
天慶3年(940)に作られた「美濃国神名帳」に従五位恵奈明神とあるのが前宮
明治4年(1871)恵那郡の総鎮守・総氏神と尊崇される
明治6年(1873)郷社に指定される
大正14年9月19日(1925)岐阜県の県社に昇格
昭和20年3月10日(1945)宗教法人岐阜県金幣社に指定
社宝 木曽義仲奉納の伯耆国住貞綱の太刀(岐阜県重要文化財指定)
御神木 樹齢千年と云われる夫婦杉(岐阜県天然記念物指定)
芸能 古く元禄の頃より伝わる恵奈文楽(岐阜県重要文化財)は例祭日と一月元日に奉納される
恵那山 美濃地方の最高峰日本の百名山に数えられゐ
恵那の地名は伊邪那伎・伊邪那美の夫婦神が峠を越されて美濃の地に入れた(神坂峠・神坂村の地名あり)時、天照大神をお産みになった際胞衣(胎児を包んだ膜と胎盤)を山に納めたと伝えられ胞衣山が恵那山にまた産湯をつかわれた湯が「湯船沢」胞衣を洗ったとされる「血洗の池」「血洗神社」、出産を終え安らかな気分になり腰を掛けた岩「腰掛岩」やすらかな気・安気が「阿木村」等言い伝えにまつわる地名が数多く残っている。
恵那神社 第25代宮司梅村幸司 氏子総代会長可児豊司 

社頭掲示板



恵奈神社

恵奈は郡名に同じ、和名鈔、(郷名部)絵上、絵下、○祭神詳ならず〇恵奈嶽に在す、今権現と称す、(明細記)
神位
本國神名帳、從五位上恵奈明神

神社覈録



郷社 恵那神社

祭神 伊弉諾命 伊弊冉命
創建年代詳ならすと雖も、延喜式内社の一なりと、神名帳考証に、「恵奈神社、今在恵奈嶽、大屋津姫命、云々」と見え、神社覈録に、「恵奈神社、恵奈は恵那に同じ、祭神詳ならず、恵奈嶽に在す、今権現と称す、本國神名帳從五位上恵奈明神」と云ひ、美濃國式社考に、「恵奈神社、在恵奈郡恵奈山上、去落合駅南三里許、今称恵奈山権現、神名未考」と見え、神祇志料亦之に同じ、今按ずるに、祭神伊邪那岐命伊邪那美命と云伝ふれど、拠なければ尚考ふべきにこそ、濃陽志略に
「恵那嶽は是れ濃州第一の高山也、遠國より之を望めぱ形ち覆舟の如し、故に俗に覆舟山と名つく、其東麓は信州陽舟澤及び飯田に接す、絶頂の宿雪夏に至て滅せず、神祠あり、毎年九月十九日遠近の里民登山拝神す、按るに、延喜式恵奈神社、本國帳從五位下恵那明神是なり、と云ひ、新撰美濃志に云ふ所と大同小異なり、一宵話(牧墨僊泰□等が撰)といふ書に、此山の祭に郡中の村々より馬を曳て登る、其日必ず、風雨す、是多人数の二便に山内を侵すを嫌ひ給ひて、雨を降らして不潔を洗ひ浄め給ふよし、土人言ひ伝へしよし志るせり、祠官は宮原氏つかさどる、賎の小手巻に、恵那山は天照大神産給ひ、胞衣を納めし故恵那山といふ、山上に七社あり、恵那権現は九尺四面の社、其外は小祠なり、毎歳九月九日に登山す、絶頂までは五里、篠竹生茂り、常は道もなし、大勢踏わけて登り、前夜は川上に通夜、四十余度水垢離をして、鶏鳴て山にのぼる、山上の木は風烈しき故庭木の如く低し、四方を望む、富士、淺間、白山、伊吹、近江の湖、伊勢の海一瞬に見渡す、其夜は山上に小屋をさし通夜し、水垢離をして翌日下山す、其外七日精潔齊す、山上に池あり、此邊の笹を取来馬に飼へば、祈祷になると云と志るせり、」
とあり、蓋し恵那の義は吉蘇志略の湯舟海の條に、「在恵奈山北麓岩石形如槽、里民云、是天照大神御降誕時所浴也村名議是之由、且藏胞衣於此山胞衣倭訓恵奈、則恵奈山名亦復拠此、其山下所出水温腹則所謂温川也」とあるに基けるものなるべし、明治6年1月郷社に列せらる。
社殿は一宇にして、境内坪数12600坪(官有地第一種)を有す。

明治神社誌料






戻るボタン


美濃国INDEXへ        TOPページへ