南宮大社
なんぐうたいしゃ


戻るボタン





【由緒】

南宮大社について
 金山彦命を主祭神に、旧国幣大社で美濃国一の宮として、また全国の鉱山、金属業の総本宮として、今も深い崇敬を集めています。
 現在の建物は、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の兵火によって焼失したものを、寛永19年(1642年)、春日の局の願いにより 三代将軍徳川家光公が再建したものであります。
 広い境内には本殿・拝殿・楼門など、朱塗りの華麗な姿を並べ、江戸時代の神社建築の代表的な遺構18棟が、 国の重要文化財に指定されています。
 年間を通じ大小50余の祭典が斎行され、5月5日の例大祭、11月8日の金山祭(ふいご祭)など特殊な神事があります。
由 緒
 御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天昭大神(あまてらすおおかみ)の兄神に当らせられる大神様であります。  社伝によれば、神武天皇東征の砌、金鵄を輔(たす)けて大いに霊験を顕わされた故を以って、当郡府中に祀られたらせられ、 後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉還され、古くは仲山金山彦神社として申し上げたが、国府から南方に位する 故に南宮大社と云われる様になったと伝えます。  御神位は古く既に貞観15年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国39座の内、当社のみ国幣大社として 名神祭にも預る大社に列せられています。  天慶3年(940)、平将門の乱の誅伏の勅願や、康平年中(1058〜65)安部貞任(さだとう)追討の神験によって、 正一位勲一等の神位勲等を極められ、依頼、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、 美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります。
社殿
*和様と唐様を混用した独自の「南宮造」
 南宮大社(垂井町宮代)は主祭神に金山彦命を祀り、相殿に見野命、彦火火出見命が祀られている。主祭神の名から、鉱山をはじめ金属一切をつかさどる神様として、うやまわれてきた。
 創設は神武天皇の時代にさかのぼる。古くは仲山金山彦神社といわれ、美濃国府が置かれていた府中(垂井町)に祀られていたとされる。現在地の二キロほどのところである。
 崇神天皇のとき、現在の場所に移り、国府の南に位置することから、南宮大社と呼ばれるようになったと伝えられる。この「南宮」という社名の由来については、宮司の宇都宮精秀さんが、「朝鮮半島と深い関わりがある」という新説を唱えている。
 慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦の兵火で社殿は焼失。そののち寛永19(1642)年、この地にゆかりの乳母・春日局らの願いを聞き入れた三代将軍、徳川家光によって再建された。
 現在の南宮大社の社殿、石鳥居、石橋などは、このとき家光が寄付した七千両(約21億円)をもとに、造営奉行、岡田将監の指揮によって建築・造営された。
 正面の楼門をくぐると、舞楽を奉納する高舞殿があり、その奥には拝殿、本殿などが三百六十年の時を経て、荘厳なたたずまいを見せている。
 木々の緑に囲まれた社殿は、十五棟からなる。本殿、弊殿、拝殿、樹下社、高山社、隼人社、南大神社、七王子社、回廊(左右)、勅使殿、高舞殿、楼門、神輿舎、神官廊。そのすべてが国の重要文化財に指定されている。
 建築様式は、和様と唐様を混用した独特の様式であることから、南宮造と呼ばれている。本殿と弊殿だけは素木造りで、その他の社殿は鮮やかな朱塗りになっていることも特徴の一つと言える。社殿の軒回りは、すべて刳抜蟇股という社寺建築独特の装飾が施されている。その形が蟇の股の曲線に似ていることから蟇股と呼ばれる。中でも高舞殿の蟇股にある十二支の動物の丸彫りが特に名高い。
 楼門の表には右大臣、左大臣の木像、裏には狛犬がそれぞれ門番のごとく配置され、参拝の人々を見守っている。
 屋根を葺き替える式年遷宮は、51年目と定められていて、最近は昭和48(1973)年に行われた。この時は文化庁の指導のもとに二年余りの歳月をかけて社殿の修復が行われた。また、楼門の南の広場にはコンクリート建築の宝物殿が新築された。宝物館には名刀など多くの宝物が保存され、毎年、文化の日(11月3日)に公開される。
 このほか三重塔、本地堂、鐘樓などの仏教関係の建造物も同じ時期に建てられたが、明治維新の神仏分離のとき、これらは近くの真禅院(朝倉山)に移築された。
 南宮大社には江戸時代の社殿の配置を描いた古図が保存されていて、それには三重塔など仏教関係の建造物も描かれている。

公式HP



【文化財】

重要文化財(国指定)
建造物
本殿
幣殿
拝殿
回廊(2棟)
勅使殿
高舞殿
楼門
神輿舎
神官廊
摂社樹下神社本殿
摂社高山神社本殿
摂社隼人神社本殿
摂社南大神神社本殿
摂社七王子神社本殿
輪橋
下向橋
石鳥居
工芸品
太刀(銘 三條)
太刀(銘 康光)
鉾(無銘)
重要無形民俗文化財(国指定)
南宮の神事芸能 - 昭和54年指定
岐阜県指定重要文化財
刀剣
紅糸中白威胴丸


南宮大社

御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神の兄神にあたらせられる大神様であります。社伝によれば、神武天皇東征のみぎり、金鵄を輔けて大いに霊験を顕された故を以て、当郡府中に祀らせられ、後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉遷され、古くは仲山金山彦神社と申し上げたが、国府から南方に位する故に南宮大社と云われる様になったと伝えます。御神位は古く既に貞観15年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国39座の内、当社のみ国幣大社として、名神祭にも預る大社に列せられています。天慶3年(940)、平将門の乱の言朱伏の勅願や、康平年中(1058-65)安部貞任追討の神験によって、正一位勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります。御社殿 現在の社殿は、天下分け目の関ケ原合戦の折、兵火にかかって炎上の為、再建を願う美濃国人の只管なる念願と、この西濃に生い育った春日局(家光公の乳母)や、竹中伊豆守(竹中半兵衛の一族)等の厚い崇敬心と相俟って、寛永19年の秋九月、徳川三代将軍家光公の天下普請によって、旧構のままに造営されたものであります。以来、歴代将軍の替わる毎に405石の朱印状を捧げてこれを安堵し、また、51年目毎の式年遷宮をも、古式を護って、これを奉仕し続けて来たのであります。社殿様式は「南宮造り」と称せられる名建築であります。寛永御造営の棟札を始め、造営文章623冊を蔵し、これに維新の神仏判然令によって移築された堂塔も含めて、細大洩らさずその経費が明示され、御社殿・石鳥居・石輪橋等18棟とともに国の重要文化財に指定。
特殊神事 御鎮座金山祭(通称ふいご祭)11月8日
節分大的神事 2月節分日
文化財等 国指定重要無形民俗文化財(5月4,5日)御田植神事
神輿渡御神事
国指定重要文化財 本殿以下18棟
太刀 銘三条外

岐阜県神社庁



南宮大社

御由緒
御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)の兄神に当らせられる大神様であります。社伝によれば、神武天皇東征の砌、金鵄を輔(たす)けて大いに霊験を顕わされた故を以って、当郡府中に祀らせられ、後に人皇10代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉還され、古くは仲山金山彦神社と申し上げたが、国府から南方に位する故に南宮大社と云われる様になったと伝えます。御神位は古く既に貞観15年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国39座の内、当社のみ国幣大社として、名神祭にも預る大社に列せられています。天慶2年(940)、平将門の乱の誅伏の勅願や、康平年中(1058〜65)安部貞任(さだとう)追討の神験によって、正一位勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります。
御社殿
現在の社殿は、天下分け目の関ケ原合戦の折、兵火にかかって炎上の為、再建を願う美濃国人の只菅(ひたすら)なる念願と、この西儂に生(お)い育った春日局(家光公の乳母)や、竹中伊豆守(竹中半兵衛の一族)等の厚い崇敬心と挨って、寛永19年の秋9月、徳川三代将軍家光公の天下普請によって、旧構のままに造営されたものであります。以来歴代将軍の替る毎に四百五石の朱印状を俸げてこれを安堵し、また50年目毎の式年遷宮をも、古式を護って、これを奉仕し続けて来たのであります。豪壮華麗なるこの朱塗の社殿様式は、正(まさ)しく御神威表徴する独自の社殿様式であり、世に「南宮造り」とも称せられる名建築であります。寛永御造営の棟礼を始め、膨大な造営文書623冊を蔵し、これには明治維新の神仏判然令によって移築された堂塔をも含めて、細大洩さず、その経費が明示され、全国的にも極めて貴重な史科として、御社殿・石鳥居・石輪橋等十八棟と共に国の重要文化財に指定されています。

由緒書



中山金山彦神社 名神大

仲山は奈加夜麻、金山彦は加奈也万比古と訓べし、○祭神明らか也○社伝云、金山彦命、見野尊、彦火々出見尊、秘神二座、○新井郷宮代村に在す、今南宮と称す、○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、美濃國仲山金山彦神社一座、○当國一宮也○日本紀、(神代上)一書曰、伊弉冉尊、旦生火神軻遇突智之時、悶熱懊悩因為吐、此化爲神名曰金山彦神
鎮坐
崇神天皇5年11月申10日鎮坐(明細記)
神位
続日本後紀、承和3年11月己巳(美濃國不破郡仲山金山彦大神、奉授從五位下、即預名神、同13年5月戊申、奉綬美濃國不破郡從五位下中山金山彦神正五位下、三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授美濃國從三位仲山金山彦神正三位、同6年5月22日丁未、授美濃國正三位仲山金山彦神從二位、同15年4月5日己夘、授美濃國從二位仲山金山彦神正二位、社傳、朱雀天皇天慶3年、平将門叛逆時、敕祈誓、神功最掲、被授勲一等、後冷泉天皇康平年中、安部貞任、宗任乱、亦有霊験被授正一位(明細記)本國神名帳、正一位勲一等仲山金山彦大神、
社領
当代御朱印高四百五石
沿革
明細紀云、慶長5年庚子9月、関ケ原合戦之時、安國寺手勢放火神社為灰燼、東照宮祈顧、天下一統之後、至于家光公、寛永9年造営成、元禄7年修造、
社職
社家不破氏、大庭氏、(東四あり)宇都宮氏、及社僧十坊、 

神社覈録






戻るボタン


美濃国INDEXへ        TOPページへ


学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録