美和神社
みわじんじゃ


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【子安大神・由来】

平成30年10月、日本列島を北上した台風24号により、美和神社も多大な倒木被害に見舞われました。子授け・安産・子育て・子孫繁栄のこ神木として、人々から崇められていました樹齢三百年以上とも伝えられるヒノキのご神木も、無残にも途中から折れてしまいました。
ご神木を失うのは誠に忍びがたく、こうしたことから、妊婦の腹部を思わせるご神木部分を生かし、引き続き人々に参拝されますようご神木のあつた元の場所に子安大神を鎮座し、併せて社殿を建立したものであります。
子安大神(ご神木)は、私たちの命の源であり、人々の生きる力、神気を宿す力でもあります。
なお、美和神社には子孫繁栄祈願として、永禄6(1563》年、武田晴信(信玄)・義信親子により、「板絵著色三十六歌仙図」(山梨県指定文化財)が奉納されています。
令和2年11月吉日
美和神社

社頭掲示板



【手水舎(御手洗鉢)の由来】

明治の世に変わる四年前(1864)、黒駒の勝蔵の子分で八千蔵村に住む無宿者太市が、二之宮村に入り浸り、村人に因縁を付け、暴力を振った。困り果てた村では、村役人が強壮人(代官が任命した農兵)天川兵助・向山忠左衛門・角田佐七・古屋常七・石橋平右衛門に指図して常楽寺に居た太市を夜陰急襲し殺害した。
子分を殺された勝蔵が激怒し、子分共を集め「二之宮へ行って太市の仇を討つ…」との噂に怯えた右の五人や村人は、美和神社に御手洗鉢を献じ危難を免れるよう祈願した。又「謝り金」を出して金銭による解決を策した。
具体的金額や勝蔵への使者の選考に難航したが、金額は百両、使者はオ知と度胸に優れた村役人角田廣右衛門が選ばれた。彼は家族と水杯を交わし、一命をかけて解決の任を果たした。
御手洗石は、尾山の田中惣右衛門が寄進した。彼の持山で半加工し、村中総出で境内に搬入したが、太市事件解決と、不作続きによる金銭不如意等の事情で未完成のまま放置されていた。明治10年、神社が「郷社」の格付されたことを記念して、鉢は完成した。石工は、身延町寺沢の松蔵。
幕末の動乱の中で、御手洗鉢に秘められた建立の経緯を、今は知る人も少なく、鉢に刻まれた名前も判読困難だが、興味をひかれます。
平成26年4月吉日
美和神社
御坂町郷土研究会

社頭掲示板



美和神社

祭神 大己貴命(社伝)○八代郡二宮村に在す○当國二宮也
神位
三代実録、貞観5年6月8日己亥、授甲斐國從五位下美和神從五位上、同8年3月28日甲辰、甲斐國從五位上美和神授正五位下、同18年7月11日丙戌、授甲斐國正五位下美和神正五位上、元慶4年2月8日壬辰、授甲斐國正五位上美和神從四位下

神社覈録



郷社 美和神社

祭神 大物主命 創建年代詳ならずと雖も、傳へ云ふ、景行天皇の御宇、日本武尊の仰を受け、國造塩海宿禰本社を勧請し拳れりと、雄略天皇12年9月國幣を給り、文武天皇の御宇圭田三十五束余の御寄附あり、聖武天皇の御宇官幣に預りたりと申伝ふ、(甲斐国社寺由緒書抄)文徳天皇の御宇從五位下勲十二等の神階を給り、五十六代清和天皇貞観5年8月8日從五位上に進み、同8年3月28日正五位下、同18年7月11日正五位上を授けられ、後又五十七代陽成天皇元慶4年2月從四位下を給へる等、三代実録類聚國史に見ゆ。
光孝天皇仁和2年驟雨の焚あり、國司橘良基奏請し、三社(同郡一桜村淺間神社、西山梨郡國里村国玉碑社並に当社)合同水防の祭儀を修す、爾来毎年仲冬11月亥ノ日を以て、巨摩郡石田村(今は中巨摩郡貢川村)へ、首夏四月亥の日を以て、龍王村釜無川東岸へ行幸祭典執行せり、一條天皇の御宇当國の二ノ宮と定めらる、九十代後宇多天皇の弘安4年正一位勲一等に叙せられ、併て正一位美和大明神の敕額を賜はる、後小松天皇の応永年中國主の號を賜はり、併て宸翰(長三尺巾六寸の厚板に國主正一位勲一等美和大明神とあり)を下賜せられ、今猶ほ宝庫に蔵せりと云ふ、武田信玄神領百三十三貫三百丈を寄附し、徳川氏の所領となるに及び、神領として御朱印百七十七石五斗余を附せられたり、寛文年中に及んでは、祭典に官より武器を給し、警衛を加へ、社観を極めたりしも、明治維新後此典も止み、二ノ宮の號も随て廃れたり、明治6年郷社に列す。
同17年火災に罹り歴世所蔵の古文書器物等の大半鳥有に帰せり、翌18年本殿、同23年拝殿、宝庫、渡殿等を再建せり、境内地4301坪(官有地第一種)にして風致備はれり。
地名辞書に云く、「二宮神を延喜式内八代郡鉾衝神社に擬する説は名勝志に出で、神祇志料も之れに拠りたれど、太子伝玉林抄、嘉応2年の注説に「甲斐國八代郡有霊社號曰美和大明神亦曰二明神(二ノ下に宮字を脱せるなり)是釈迦垂跡也其形俗体而武者乗島駒」云々とありて、神座山に天降りたるものと述ぷ、以て式内鉾衝神社ならざるや明なり、御神体は衣冠立体の木橡なりと云ふ。

明治神社誌料






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