浅間神社
あさまじんじゃ


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【由緒】

御祭神・御由緒
第11代 垂仁天皇八年(約2千年前)正月始めて神山の麓にお祀りされた。今ここを山宮神社と称して摂社となっている。第56代 清和天皇の貞観7年富士山大噴火の翌年(865年)12月9日、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を現在地にお遷ししてお祀りされている。甲斐国一宮であって延喜の制に於ける明神大社である。明治4年5月14日国幣中社に列格。
御祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は富士の神である。
本 殿 入母屋向拝造銅板葺
拝 殿 入母屋唐破風向拝造銅板葺
境 内 3,395坪(1ヘクタール余)
御神徳
御祭神、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は、大山祇神の御女でまた御名を吾田鹿葦津姫命(あだかあしつひめのみこと)又、桜大刀自命(さくらおおとじのみこと)と申し上げる。天孫瓊々杵命の妃として皇室の始祖大御母と仰ぎ奉る大神である。
大神は、木の花(桜花)の咲き映ゆる如く艶麗優美の御容姿でしかも考順、謙譲の美徳をもって天孫にお仕えして貞節、至純、国土経営に尽くされた内助の功も極めて大きく、今日の日本の基礎を築かれたご功徳は永く日本女性の規範と仰がれている。
古来山火鎮護、農業、酒造の守護神、又婚姻、子授安産の霊徳神として崇敬をあつめている。

公式HP



【論社考証】

「甲斐国八代郡 浅間神社」と記載される名神大社。以下の三社がいずれも古社であることから論社とされている。
A浅間神社(笛吹市) - 旧国幣中社
B河口浅間神社(南都留郡富士河口湖町) - 旧県社
C一宮浅間神社(西八代郡市川三郷町) - 旧村社
三代実録に以下の記載がある。
貞観6年(864)5月駿河國より、7月甲斐國より富士山噴火とある。
貞観7年(865)12月9日浅間明神が伴真貞に託宣して甲斐国に神社を定めることを求めた。勅により真貞を祝として甲斐国八代郡家の南に神宮を建て官社とした。
貞観7年(865)12月20日、甲斐国山梨郡にも同様に浅間明神を祭祀。
この解釈をめぐつて論が生ずる。第一に(1)八代郡伴眞貞の託宣により同郡郡家の南に神社を創建、それを官社としたととる解釈、(2)八代郡伴眞貞の託宣により同郡郡家の南に神社を創建したが、なお神意に叶わず改めて立派な宮を造営、それを官社としたとみる解釈。第二にその20日の記事と併せて、山梨郡にもそれと同様神社を造らせたが、それは官社ではないとする解釈。


【浅間神社】

第11代垂仁天皇8年正月初めて神山の麓に鎮座す。今此処を山宮神社と称して摂社たり。第56代清和天皇貞観7年12月9日現在の地に遷祀せらる 甲斐の国の一宮にして延喜式の制に於ける明神大社たり 明治4年5月14日國幣中社に列せらる 本殿は流造銅板葺、拝殿は入母屋破風造銅板葺なり
御 神 徳  御祭神木花開耶姫命は大山祗神の御女にして亦の御名を吾田鹿葦津姫命又桜大刀自命とまうす。天孫瓊々杵命の妃として皇室の始祖大御母と仰ぎ奉る大神なり。大神は木の花の咲き映ゆるが如く艶麗優美の御容姿にして而も孝順、謙譲の美徳をもって天孫に御仕へして貞節、至純、国土経営に尽くされし内助の功極めて大にして、今日の日本の基礎を築き給ひし功徳は永く日本女性の模範と敬仰し奉らる。古来山火鎮護、農蚕、酒造りの守護神、又婚姻、子授け 安産の霊徳神として崇敬極めて厚し。
特 殊 神 事 大神幸祭は甲斐国第一の大祭たり。社記によれば天長2年以来旧4月第二の亥の日、中巨摩郡竜王町三社神社に神幸の上、川除祭(水防祭)を執行し来れるが、明治以後4月15日と改め本社にて例大祭執行の後、同所及び甲府市上石田町三社神社に神幸す。(現在は竜王三社神社のみ)片途約六里(24Km)に及ぶ行程なり。
 梅折枝の神事、今境内瑞垣内に夫婦梅と称して陰陽二花相寄りて一顆を結実する神木あり、後嗣なき者祈願してこの梅を食すれば子宝を得ると云ひ伝へて遠近より授与を請ふ者頗る多し、古来毎歳陰暦4月第二亥の日に神前に供へ、子授祈願を執り行ふ。
摂社 山宮神社 鎮座地 一宮町字山宮1705 祭神 大山祗命 瓊々杵命
本社を距ること東南二十丁余(2km)清流山宮川の水源神山の麓にあり、千古の老杉二本、神木として連立す。本殿は春日造、桧皮葺にしてその結講頗る壮麗なり。毎月15日を恒例神祭日となす。3月15日山宮神幸祭あり。当社は垂仁天皇の御字鎮祭されし本宮なりしも貞観7年12月三柱の内木花開耶姫命現地に遷座ありしにより二柱を祭神とす。
御 宝 物 重要文化財 第105代後奈良天皇御宸翰「般若心経」一軸、武田大膳太夫晴信奉納自筆の包紙を添ふ 摂社 山宮神社 本殿 一宇  県指定文化財 国次の太刀(刀身三尺一寸五分)武田信玄公奉納 一徳斉助則の太刀(刀身三尺四寸)県指定天然記念物 夫婦梅 その他の御宝物 明治天皇御着用黄櫨染御袍並びに朱の御袴 武田信玄公自詠の短冊 うつし植る初瀬の花のしらゆふをかけてぞ祈る神のまにまに 参拾六歌仙(拝殿内に掲額) 鷹司前関白房輔卿の依御意、庭田大納言重条筆、土佐光成の末流 伊久間階球画 当町東新居 降矢盛重奉納(元禄7年)狛犬弐体 摂社山宮神社に有りしを欠損を憂へ現在本殿内に格護す。 山宮神社棟札(永禄元年戌午仲冬吉日)拝殿一棟(寛文12年5月朔日)指定有形文化財
祭 事 暦 歳旦祭1月1日 追難祭 2月節分 祈年祭 2月17日 山宮神幸祭・講社大祭 3月  例大祭・大神幸祭 4月15日 梅折枝神事 陰暦4月第二亥日 御田植祭6月17日 夏越大祓 6月30日 秋季大祭 10月17日 七五三祭 11月15日 新嘗祭 11月23日 師走大祓 12月31日 本社月次祭 毎月1日 山宮神社月次祭 毎月15日

山梨県神社庁



浅間神社

あさまじんじゃ 山梨県東八代郡一宮町一宮。静岡県側には富士宮市に浅間神社が鎮座するのに対し山梨県(甲斐国)側にあって古くから富士山望拝信仰の根拠地となった神社。旧国幣中社(現、別表神社)。祭神は木花咲耶姫命。清和天皇の貞観年間(859−77)、現在の地に遷祀されたと伝えられ、これより以前、垂仁天皇の時神山である富士の麓に神祭の事があったといわれる。本社の東南約2Kmの神領山の山腹にある摂社山宮神社がそれであるという。『三代実録』貞観7年(865)12月9日丙辰条には「勅、甲斐国八代郡、立浅間明神祠、列於官社、即置祝称宜、随時致祭」とあり『延喜式』では名神大社に列している。中世には甲斐国一の宮として崇敬された。武家の尊崇も篤く、殊に戦国時代の名将武田信玄は太刀を奉納し社領を寄進するとともに、社壇造営の儀疎略無く専ら之を相勤むべき旨を命じている。ついで武田氏が滅亡すると徳川家康により社領二〇〇貫文が寄進され、更に徳川家光の時に二三四石余の朱印地が安堵された。明治4年(1871)国幣中社に列した。
例祭日は4月15日の大神幸祭(川除祭)。ほかに山宮神幸祭(3月15日)、梅枝折神事(旧4月第二亥日。夫婦梅の実のついた枝を神前に献上)がある。本殿は入母屋造平入銅板葺。正面鎚破風向拝付。拝殿も同様で唐破風向拝付。摂社山宮神社本殿は重要文化財(旧国宝)で隅木入春日造桧皮葺鎚破風向拝付。建造年代は永禄元年(1558)。

神社辞典



淺間神社 名神大

淺間は阿左麻と訓べし○祭神木花開耶姫命(頭注云、同富士也)〇一ノ宮村に在す、(叢記)例祭月日、O当國一宮也、(一宮記)○惣國風土記六十二残欠云、八代郡淺間神社、圭田百五十束三畝二字田、活目入彦五十狭智天皇8年己亥正月、始被祭之、有神家巫戸等、
甲斐名勝志云、社傳曰、風土記所戴神社は今、山宮是也、
類社
駿河國富士郡淺間神社の條見合すべし
官社 社職
三代実録、貞観7年12月9日丙辰、勅甲斐國八代郡立淺間明神祠、列於官社、即置祝禰宜、随時致祭、先是彼國司言、往年八代郡暴風大雨、雷電地震、雲霧杏冥、難弁山野、駿河國富士大山西峯、忽有熾火、焼砕巌谷、今年八代郡擬大領無位伴直眞貞託宣云、我淺間明神、欲得此國齋祭、頃年為國吏成凶咎、為百姓病死、然未曾覚悟、仍成此怪、須早定神社、兼任祝禰宜潔奉祭、真貞之身或伸可八尺門或屈可二尺、変体長短、吐件等詞、求之卜筮、所告同於託宜、於是依神明願、以真貞爲祝、同郡人伴秋吉為禰宜、郡家以南作建神宮、且令鎮謝、雖然異火之変、于今未止、遣使者検察、埋劃海千許町、仰而見之、正中最頂飾造社宮、垣有四隅、以丹青石立、其四面石高一丈八尺許、廣三尺、厚一尺余、立石之間相去一尺、中有一重高閣、以石構営、彩色美麗、不可勝言、望請、齋祭兼預官社從之、
甲斐叢記に、貞観7年12月9日、勅甲斐國八代郡立淺間明神祠とあるは、河口村の社の事なるを、混ぜて誤るならん、又同月20日於山梨郡致祭淺間明神、同八代郡とあるは、即ち此一ノ宮にて、古昔は此辺は山梨に隷き、河口は八代に属しなり、斯れば富士山の暴火に就て、河口に社を立て、又此社をも祭られし時、今の地へ、遷せしならんかと云り
社領
当代御朱印高二百三十石

神社覈録






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