穂見神社
ほみじんじゃ


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【神楽殿】

市指定文化財(建造物)
指定 平成5年11月15日
この神楽殿は、神社拝殿の前に建つ桁行一間、梁間一間の舞台で四周に肘高欄付の切目縁を巡らす。縁は揮肘木によって受け南側に廊下が接続している。柱は几帳面取の角柱で柱上には台輪をのせる、組物は三手先斗供でこれを詰組に置く。
頭貫先は木鼻を付け、軒廻リは華やかである。軒は二軒扇垂木とし、屋根は四方に入母屋造りの妻を見せ、その軒には軒唐破風を付ける。入母屋の妻飾は虹梁大瓶束式で懸魚は鶴の彫刻を施す。軒唐破風の兎毛通は懸魚と同じく異形で竜・虎・鷹・鶴等を彫刻し装飾意匠とする。
古くからあった神楽殿が火災にあったため、この建物は明治18年から再建をはじめ、同24年に竣工したものであるが、舞台建築の粋を集めた豪華な姿を見せる県内でも有数の建築である。
なお、神社随身門前にこの神楽殿建築記念石碑があり、大工棟梁名などが銘記されている。
高尾穂見神社の大スギ
市指定文化財(天然記念物)
指定 平成5年11月25日
社殿前の東に位遣し、境内一の巨木で、御神木として崇敬されている。
目通りの幹囲5.75m、根元の周囲6.80m、樹高約45m、枝張りは、東西25m、南北20mである。
樹型は直幹、枝張り円錐型で、『スギ』つまり直(す)木(き)の典型的美型を保持する名木であり、樹勢旺盛である。
平成6年8月
南アルプス市教育委員会

神社辞典



【穗見神社】

穗見は假字也○祭神保食神、(名勝祀)○西郡筋高尾山に在す、今稻荷社と称す、(同上)例祭月日、
甲斐名勝志に、往昔は國民稻穂を献しと云、保食神は五穀を司る神なればなり、故に穂見の號あるならん、享保13年7月國中洪水の時、此山の麓の渓水大に漲り、岸を崩し流しけるに、土中より古き石碑出たり、銘に穂見神社とあり、字形古体にみえたりとぞ、今は神殿の中に有と云といへり、
社領
当代御朱印高七斗二升余

神社覈録



郷社 穂見神社

祭神 保食神
創立年代詳ならず、延喜式所載の神社と称す、後島羽天皇文治3年の古碑に穂見神社と記し、本殿古扉にも文治3年穂見神社、御願主一条次部忠頼、三弟智野兵部大夫家方と載す、別社を御崎明神と云ふ、(社記)甲斐名勝志に、「高尾山稲荷神社、相傳ふ「穂見神社(延喜式神名帳)」往昔國民稲穂を献せしと云ふ、稲荷は保食神にて、五穀を司る神なればなり、故に穂見の号あるならん、享保13年7月國中洪水の時、此山の麓の渓水、大に漲り、岸を崩しゝに、土中より石碑出で銘に穂見神社とあり、宇形古体に見えたり」とあり、又甲斐國志に「御崎明神(高尾村)黒印神領七斗二升、社地若干、(黒印証文慶長15年慶安元年地頭久保五郎兵衛の証状あり、)除地畝歩一町一反二畝二十八歩、白山権現三体王子(大福王子、大寿名王子、大智徳王子)を配祀す、俗に文珠と称せり、掛鏡一面(此事地名僻書にも見ゆ後に出す)享保13戊申年7月洪水の時、山岸崩れて、土中より出てたりと云ふ、其形殺上豊下にして、上稍囲み一尺三寸五分、下梢一尺六寸二分、長一尺四寸五分、正面に穂見神社と正字を以て刻せり、其左の方に両三字あるが如くなれども欠け落ちて弁じ難し、又其左に文治三の三字彷彿と見ゆ、又其左に智家方の三字を刻せり、因て本祠を以て穂見神社なりと為せり、11月朔を以て祭る、授福の神と称して参拝の者多し、神主穂坂丹波」と見ゆ、神社覈録には「穂見は假名なり西郡筋高尾山に在り、今稲荷社と称す云々(名勝志卜同ジ)旧神祠記に「號正一位御崎明神同郡西郡高尾村、」又地名辞書に「今上宮地平岡なとゝ合併し、神村と改む、高尾に御崎明神あり、損鏡圓径八寸六分、三体王子の橡を鋳る、其銘に曰甲斐国八田御牧、北鷹尾、天福元年12月5日、大勧進連華坊辮妻云々」、又甲斐叢記には「鷹尾寺の棟札に嘉吉3年、甲州胡麻郡、鷹津名庄、平林郷とも録せり、此邊に今鷹林、高下鷹座山などタカてふ地名の添はるもの多し」とも見え、当社地の古地なるは明かなり、唯式社としては尚他に数社其名を冒す者ありて、今何れとも定め難けれども、当社を以て充つること穏当ならむか、明治4年社領を上地し、同6年郷社に列す。
社殿は本殿、舞殿、幣殿。神樂殿、装束所、集會所、参籠所、神鳥屋、随神門等にして、境内861坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料






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