山梨岡神社
やまなしおかじんじゃ


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【御室山】

山梨岡神社の背後にある山。山梨岡神社の岡は御室山を指し、古来より神のいる場所として信仰されてきた。 中腹には山梨岡神社旧社地・御室山古墳がある。旧社地は神聖な場所とされ、かつては祭日に御輿が登っていた。御室山古墳は積右塚の円墳で直径11m、高さ2m。石室は南西方向に開く無袖型横穴式石室で、全長約7mである。
また、毎年4月上旬には御室山では笈形焼が行われる。笈形焼は笈を模した一辺400mの日本一の規模を持つ山焼きである。昭和63年(1988)4月に復活した。山梨岡神社には笈形焼の場所や御室山周辺の様子等を記録した「山争いの図」が保管されている。
山梨県春日居町

社頭掲示板



【山梨岡神社】

山梨岡は夜萬奈之乎加と訓べし、和名鈔、(郡名部)山梨、(也万奈之)○祭神大山祇命、(名勝志、叢記)○鎮目村に在す、(叢記)例祭、月日、
甲斐名勝志に、神前にキと云一足の獣の像あり、実に古物也云々といふ、叢記にも此キの事をいへり、國人云、是は所謂獅子の柄たるを取つくろへるなりと云う、
社領
当代御朱印高九石八斗余

神社覈録



郷社 山梨岡神社

祭神 雷大神 大山祇神 高おかみ神
創建は崇神天皇御宇日光山高千穂峯(村内にあり旧名にして今此に存せす)に祭れる所にして、其地現今の岡部村春日居村平等村などに当る、而して現今の社地は岡郁村大字鎮目の山梨岡なり、鎮目とは神社の鎮座などより出でしならむ、祭神大山祇命鎮目村に在すとは旧神祠記、神社覈録、神祇志料等に見ゆ、疑もなく式内神社たり、古來日光権現と称す、又古文書に山梨明神、山梨権現とあり、慶長8年の黒印、慶安元年の御朱印以來、日光権現と称せらる、御朱印社領八石一斗(旧神祠記には九石八斗余)、「社中社道山林若干、神幸場、神主屋敷、神子屋敷等あり、伝へ云ふ正殿は飛騨の工の造立する所と、戸前に独足猷像を置く、之れをキと称す、極めて古物なり、拝殿庭前に輪橋あり、又郡石と云ふは、長五尺三寸、横四尺二寸傍邊に波紋あり、綿片の如く、一般厚さ僅に数寸なり、王代記に曰ふ享保元年9月7日8日山梨宮垂木一本、血流9日留り、10日四本より流ると云、又州人の旧説に若し國に災害ある時は、御室山豫め鳴動し、秋山の池水、血色をなして未然を示すと云へり、俚歌に
山梨や御室の山の鳴る時は秋山の池ちしほなるらむ
酒祈の御室の山にも此歌を伝へたり、何れか是なるを知らず(甲斐国志甲斐名勝志)神庫に藏する所天正11年4月18日五貫五百三十文の朱印、慶安9年8月17日八石一斗山林竹木並神主屋敷諸役等免除御朱印、此他代々の御朱印都合八通、11月4日信玄の書状、午8月晦日以清齋成吉、右一齋日下部定吉、連署の書状、申卯月27日櫻井以清斎石四右玄随齋連署皆斎目録、天正17己丑年11月23日伊奈熊藏俵数書出黒印、辰正月20日木下勝左衛門尉直方の寄附状、辰3月6日上月蔵助行治馬一匹山口免許手形、慶長8年3月朔四奉行の黒印、又社前に天文13年甲辰9月晦晴信の禁制を掲げたり、及び三十六歌仙の裏書に、天正4丙子年2月16日太田佐渡守とあり、其人詳ならす、明治維新後旧号を廃して山梨岡神社と改称し郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿及、渡殿、神樂殿を有し、境内1383坪(官有地第一種)風景絶佳の霊地にして、古人の吟詠和歌集に載するもの少なからす。

明治神社誌料






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