美保神社
みほじんじゃ


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【由緒】

ご創建
天平5年(733)編纂の『出雲国風土記』及び延長5年(927)成立の『延喜式』に社名が記されており、遅くともその時期には「社」が存在していたことがわかります。境内地からは4世紀頃の勾玉の破片や、雨乞いなどの宗教儀式で捧げたと考えられる6世紀後半頃の土馬が出土しており、古墳時代以前にも何らかの祭祀がこの地で行われていたことがうかがえます。
本殿
向かって右側の「左殿(大御前、おおごぜん)」に三穂津姫命、向かって左側の「右殿(二御前、にのごぜん)」に事代主神をお祀りしています。大社造の二殿の間を「装束の間」でつないだ特殊な形式で、美保造または比翼大社造とよばれており、建築用材の大半は美保関周辺に自生していた松を使用し、屋根は檜皮(ひわだ)で葺いています。
現在の本殿は文化10年(1813)に再建され、国指定の重要文化財です。
※神社において左右の概念は、神様を基準としています。したがって、向かって右側が「左殿」、左側が「右殿」となります。
拝殿
昭和3年、建築学者伊東忠太の設計監督により造営されました。檜造りで、屋根は杉板を敷きつめた柿葺き(こけらぶき)です。船庫を模した独特な造りで壁がなく、梁がむき出しの上、天井がないのが特徴です。この構造に加え周囲が山に囲まれている為、優れた音響効果をもたらしています。
また、鳴物をお好みになるご祭神への崇敬から年間を通して音楽の奉納も数多く行われます。
※伊東忠太が設計に携わった社寺…橿原神宮・平安神宮・明治神宮・築地本願寺など多数。
歌舞音曲(音楽)の神様
多くの船舶が停泊する美保関港美保関は古くより海上交通の関所で北前船をはじめ諸国の船が往来し、風待ちの港として栄えた場所です。「関の明神さんは鳴り物好き、凪(なぎ)と荒れとの知らせある」と、船人の口から口へと広く伝えられました。船人の美保神社に対する信仰心は非常に篤く、海上安全や諸願成就などの祈願の為、さまざまな地域から夥しい数の楽器が奉納され、この内846点が国の重要有形民俗文化財に指定されています。
846点の奉納鳴物のなかには、日本最古のオルゴールやアコーディオン、鳥取城で登城の時を告げていた直径157cmにもなる大鼕、島原の乱で戦陣に出されたと伝わる陣太鼓、初代荻江露友が所有していた三味線など名器や珍品も数多く含まれております。また、本殿以下さまざまなものを焼失した元亀年間(1570〜1573)の兵火の難を逃れた太鼓も現存し、その当時より鳴物奉納の信仰があったことがうかがえます。
平成4年には明治の初頭以来途絶えていた「歌舞音曲奉納」を100年ぶりに復活させ、一流の演奏家が神前に向かって(聴衆に背を向けて)演奏し、聴衆は一切の拍手をしないという独特の音楽祭が行われています。

公式HP



【由緒】

第四章 美保神社
当社は出雲國の北部に横はる島根半島の東端、即ち八束郡美保町大字美保関字泊小路に鎮座の國幣中社であります。乃ち古事記に御大之御前、風土記に三穂之埼又は美保郷等と見えて、境港及び松江港より汽船及び自動車の通ふ景勝の地であるが、元来この美保といふのは、水脈の義であります。海の水脈の顕著にあらはるる所にこの名がついたものであります。その美保濱に御鎮座のことは風土記にも見ゆる所であるが、旧社地は社域狭隘で、些か荘嚴を欠く恐れがあつたので、近年後方丘腹を開き、もとの神宮寺旧跡を含めて境内を拡張し、社殿を移転することとなりました。(神宮寺を中心とする当社のことは華頂要略に詳である)昭和3年御造営成り、同10月19日御遷座が執行はれたものので、これより後に蒼樹蔚々たる高丘を負ひ、相並ぷ両殿の千木は蒼穹を摩して神鳩翩々として砌上に飛翔するところ、当社特有の大拝殿をめぐつて諸殿宇の布置も亦その宜しきにかなひ、賽者をして自ら襟を正さしめるのであります。
まづ諸殿の大様を記せば、第一に本殿は23坪3合3勺、基礎を一にして二棟を連ねた比翼大社造の殿宇で、文化10年の建造にかかり、所謂美保造とも称せらるろ珍らしい形式であるので、これのみは這般の御造営にも唯上葺を改むるに留められたのであります。明細帳によれば、この御本殿に祀る御祭神をば
祭神 事代主神  一座
配祀 三穂津姫命 一座
   大后杜   二座
   姫子社   二座
   神使杜 稻背脛命 一座
と記されて居ります。又拝殿は間口七間奥行九間の切破風総檜造、屋根は檜皮葺で、殊に奈良朝の古式に則り、全部石畳とし、丸柱開放の造方で雄大の趣を存してゐる。次に拝殿の前面に神門を設け、その左右に前面舞台総檜材、檜皮葺切妻破風造の回廊をつらね、右廻廊に接続しで同形式15坪の神符授与所が建ち、拝殿の右側には、同形式12坪の神饌殿が建てられて居り、而して右側の廻廊前には社務所があります。これは入母屋造屋根重層銅板葺で、61坪の建物であつて、なほ此の外、境内神社が二杜あり、又手水含・随神門・御船庫・神樂殿・宝物館等も改築又は新設が計画されて居ります。
さて当社の境内は、もと頗る廣大であつたと伝へ、豊臣氏の削減にあうた時にも、なほ二万六千八百八十二坪ありましたが、その後更に減少して明治維新後は八百五十三坪になつてゐたので、這般の御造営に際して、四千九百十五坪に拡張された。これに沖御前・地御前(海礁)の飛地境内千二百六十六坪を合すれば、六千坪を超ゆるわけで、地御前は半島の東瑞の地蔵岬の■頭に近く、沖御前はこれより東北二十八町の沖にあつて、これ即ち当社御祭神事代主神の釣魚の遺跡と傳ふる所であります。
白披のいさきもとほる三保の浦はいやとほしろき神所かも 鈴木重胤
御神徳を仰いで詣で來る遠近の参拝者年々数十萬に達し、實に出雲大社に亜いで県下第二位に居る名社であります。
當社は世に二社大明神と称せられて來たが、これは御本殿が左右両社並び坐すによるのであつて、文禄5年吉川廣家造立の棟札にも「美保関両社御殿」と見えて居ります。就中主祭神と仰がるるは、右殿であつて事代主神を祀る。日本紀によると武甕槌神・経津主神の二神が出雲國の五十田狭の小汀に降到りまして、大己貴神に皇孫のため國土を避り奉らむことを問ひ給うた時、大己貴神は我が御子に問うて報申さんと仰せられたのであつたが、この御子といふのは即ちわが事代圭神であつて、その時遊行きて当初美穂の碕に在し・鈎魚を以つて楽と為させられた。そこで熊野諸手船(亦の名はは点鴿船)を以つて使者稲背脛を載せて遣はして、高皇霊尊の勅を事代主神に致した所、事代主神は天神の勅に対しては、我が父宜しく避り奉るぺし、吾れまた違ひまつらじと御答になつて、因つて海の中に八重蒼柴籬を造つて船竄踏んで避り給ひ、使者の神は還つて報命し給うたので、大己貴神はこの報命によつて、わが頼んだ子だにも既に避去り奉つたから、吾れも亦避りまつらうとて、事代主神の御辞を以つて二神に対へ給うたと見えて居るのであります。これで神代における最大な事件に属するものの一であつた国土の奉還は滞りなく行はるるに至つたわけで、これ即ち御祭神を以つて忠孝両全の懿範を後世に胎し給へるものと称する所以であります。つまり大義名分を明かにし給うた大功神に坐すのであつて、御神名の事代とは事知の義とも、或は言説で、その分明正直なるをたたへた義とも考へらるるのであります。古事記に八重事代主神が、神の御尾前となりて仕へまつらぱ、違ふ神はあらじとあるのも、やはりこの御神徳を申したものであります。
みほの碕よる波のほのいちしろく神代の跡そここに残れる 三條実美
さて大神を当社に奉齋するのは、この時青柴垣に隠りて海底に入り永く現御身を隠し給へるにより、その御霊を齋ひまつつたのに由來するのでありませう。而して御本社の客殿に坐す五座の神々は、元亀元年の兵災以前には撹内神社に坐したと伝へるが、就中神使社に稻背脛命の祀られ給ふのは、前紀の御故事に基くわけであります。乃ち社記に載せてある古伝祭の記載にもその有名な二つについて次の如く見えて居ります。
青柴垣ノ神事 4月7日
古事記に語其父大神言、恐之、此國者立奉天神之御子即踏傾其船而、天逆手矣於青柴垣打成而隠也とある故事に拠れるものにて、先づ御船の三方に若木を以て垣を結び、榊を刺榮し、注連縄を曳き巡らし、籏幟等数多く樹て列ね、内には波剪御幣及び氏子の神饌を納めたる唐櫃を置き、神職・氏子の當屋以下溢るるばかり分乗して、港の中央より社前宮の灘に引寄せ、古式の行列を調へ、載する所の御幣を社頭に納め、神饌を行立して式畢るものとす。御船二艘に大綱数條を取り懸けて、もそろもそろに、宮ノ灘にご引き寄する状恰も小島を引くに似たり。其の叫びあふ聾は天に轟き、鼓笛の音は地に轟きて凄じきこといふばかりなし。海に陸に群参する人々は、御船の着岸を今や遅しと待ち構へ、舟より舟へ走り徒りて、帰り来し御舟の青柴垣に取りつき、舟子警護の輩が制止を聴かばこそ、我先きにと柴の小枝を手折り、敷薦を引き抜き、或は海に転ぴ落ち、或は打ち合ふなど、其の混雑名状すべからず。而してこの二艘の主長を一の当屋二の当屋と称す。こは前年の大祭日に氏子の内より神籤を以つて定むる習はしなり。
諸手船神事 12月3日
日本書紀に以熊野譜手船載使者稻背脛遣之、而致高皇産霊尊ノ勅於亭代主神とあり、古事記に即踏傾其船而天逆手矣於青柴垣打成而隠也とある故事に拠れるものにて、同時の故事を分ちて、一を青柴垣神事とし、一を諸手舟神事としたるものなり。傅来の儀式は、まづ社頭の式を畢り、行列をつくりて下向、諸手船(古型を伝へたるものにて神社の祭器たり)二艘を宮灘より前面、港の一角をなす客人山麓指して漕ぎ出し、拝礼の後やがて宮灘に漕ぎかへりて、事代主命と使神との対応に擬し、拍手の式を行ふ。事代主命に擬したるは灘岸にあり。神職の長官これを勤む。使神に擬したるは船の先頭にたつ。かくて拍手慮答の式畢るや、櫂を控へし漕子は競ひて白波を蹴立て、港の中心を漕ぎ回ること大小六回、やがて上陸、社頭に昇殿して以つて式を終るものとす。その使神に擬せるは舳に刺飾れる鉾を捧げ、各先頭に起ち、揖子八名づつ等しぐ帆懸島帽子を被り、素肌に白張を着、白の短袴を穿ち、寒空を霰交りの風に堪へて漕ぎ競ふさま、げに勇ましき極みなり。なほ揖子はこの日かねて神事に関かりし氏子どもの内より神籤を以つて定むる習はしなり。
因にこの神事は、古くは八百穂の祭(新嘗祭)として11月中の午の日に行ひ来りしが、官祭たる新嘗祭と共に今は3日に行ふこととなりたり。
即ち当社の御鎮座地は神代以来出雲における交通の要衝であり、今も海岸に所謂ネットシンカと称する漁具の石器が発見せらるる所から見ると、石器時代以來、漁業も行はれた所であり、中世ここに関税徴収の関が出來て、美保関といひ又単に関とも称するに至つた程で、漁舟を始め往来の船舶の寄港するもの頬る多かつたもので、今や益々盛んになつて居ります。故にここの市街は当社の門前町と往来の船舶の錠泊港との二つの意味から発達したもので、その前面は美保港を隔てて出雲富士(大山)の秀峰を仰ぎ、大天橋弓濱の長州は右手に横り、境外末社客人神社を祀る客人山の松翳は近く港の東口を扼して、翠影册に落ち、楼亭参佐、水に映ずるところ、自ら起る弦歌に旅愁も忘らるる仙境であります。
関はよいとこ朝日を受けて大山おろしがそよそよと 俗謡
関の五本松一本伐りや四本あとは伐られの夫婿松  同上
又同じく客殿に坐す大后社と姫子社との御祭神は、御神名不詳と傳へられてゐるが、古事記に事代主神は大国主神が神屋楯比売命にみあひて生みませる御子だと見えて居り、神武紀には事代主神が三嶋溝杭耳神の御女なる玉櫛媛にみあひまして生みませる媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后にならせ給うたことが見えて居れば、恐らくこれらの女神等に方るでありませう。殊に毎年5月5日に行ふ古伝祭の四の御前迎(今は神迎神事と改称)は、当日未明に御舟を義して神職数名これに乗り、神蹟沖の御前に至つて事代主命の后紳並に御子神等四前の神霊を迎へ奉る。御舟が港近くかへり、静かな鼓笛の昔が暁の松籟に和して聞えて來ると、留つてゐた神職が打揃うて御舟を宮灘へ迎へ、かくて昇殿献供をもって終る祭儀であるが、なほ湾頭の末社で諸手船神事の行はれる客人神社は、大己貴神を祭るのであるから、此等によつても、当社に傳はる神代の遺風の尋常ならざるを察すべく、以つて御神徳の悠遠さが仰がるる次第であります。
次に右殿の事代主神に並んで左殿に坐す三穂津姫命は現在ではやはり配祀の神とされてゐるけれど、神名帳頭註にも「三穂津姫也。一座事代主』とあるし、その御神座の位置から拝察すると余程重要な御祭神に坐すであらうと思はれます。しかし御神系を見ると、三穂津姫命は高皇産霊尊の御女であつて、大和の天高市における帰順の首渠なる大物主神と事代主神との二神の内にて、大物主神の妻神とならせられた神であります。そこで式社考にはこの神は出雲風土記に見ゆる美保須々美命の誤であらう。美保須々美といふ御名は日本紀などにないから、いつしかわが根本神典にあふやうに、美保津姫命と転輾その訛誤を傳ふるに至つたものであらうかと説明されてゐるが、これは注意してよい説でありませう。何者、風土記の島根郡美保郷の條には所造天下大神命が高志国に坐す神なる意支都久辰命の御子の卑都久辰為命の御子なる奴奈宜波比売命を娶つて産ませ給うた御穂須々美名がここに坐すので美保といふとあり、又社の條に在神祇官社の美保社、不在神祇官社の三保社が各一社づつ見え、更に同郡美保濱の條には、濱の広さが一里六十歩あつて、その西に神社があり、北に百姓の家がある云々と見えて居れば、この美保社及び三保社が美保郷内の神社たることは疑ひなく、而してその一社が御穂須々美命の御社たることも亦疑ひのないことだから、當社左殿の御祭神三穂津姫命といふのは、この御穂須々美命の誤として考へらるる余地はあるやうに思ふ。けだし御祖の奴奈宜波比売命は、古事記など爾見ゆる沼名河姫命であり、御子の御穂須々美の須々は能登國珠洲郡須々神社の須々であつて、此等はよく古事記における大己貴命の物語や、風土記における國引の神話と符合するのであります。
当社は永緑12年山中幸盛と隠岐為清との兵焚にかかつて古記録がすべて烏有に帰したので、中世以前のことは詳にしがだいけれど、美保六郷は古く当社の神領であつたと云へば、ここに拠つて威武を振つた佐々木氏及び松田氏等は即ち当社神領の地頭として、當社の造営維持に努め、諸の神事に奉仕し來ったものでありませう。文禄5年領主吉川広家は高麗国在陣の立願に対する報賽のため、御造営を奉仕したのであるが、当時当社の神領としては銀子七十匁が寄進されて居た。この社領を銀子で寄進する例は、当縣下を通じて他に例のないことで、当社の特色であるが、恐らく美保関の設置されて関料を徴収されるに至つた以来の先例によるのであるまいか。されば慶長6年4月26日堀尾吉晴の就封に際しても、亦先例に從つてゐるのであります。尤も寛永15年12月6日松平直政に至つては、『美保関大明神の燈明銭に』と云つて居ります。その銀子七十匁前々の如くといふのは変りはありません。これは前例によつたのだから、容易に変更もされなかつたであらうが、松平氏が直政以來歴代篤き崇敬を捧げだことは、藩祖御事績等にも見えて明かであります。從つて慶応3年5月16日には、藩圭松平定安より神領として高二十石を美保関の内にて献じ、さらに翌明治元年11月24日には高三十石を蔵米にて献じて居ります。加之、同2年には年穀稔らず、窮民の苦が一入なるを見るや、翌3孝2月には定安父子当社大前に額いて藩民のため田畑の豊作を祈つたのであります。
元来当社は御祭神の御事績によつて、海上安全、漁業満足の御神徳著しく、船人漁民の参拝者が多いのであるが、更に五穀豊穣の御神徳を以つて知られてゐるので、右の如く藩主の祈願も行はれたわけであります。しかも、かの釣魚の御故事は俗に福神恵美須の神として商売も亦その御神徳を仰いで、その崇敬年々盛昌を極めてゐるのであります。されば明治5年正月郷社に列し給うたが、同7年4月には縣社に、同18年5月5日には国幣中社に列せさせられ、殊に同21年には畏くも明治天皇より御劒一口を御寄進あらせられ、又同26年には常宮内親王殿下、周宮内親王殿下より各々純銀製の大形瓶子一対づつを御寄進あらせられ、大正14年には皇后陛下より神ながらの道一部の御寄附があり、大正8年には当社御造営に対し思召を以つて金員の御下賜がありました。又明治40年と大正6年とには各々時の皇太子殿下の御代拝があり、大正14年秩父宮雍仁親王殿下、昭和8年閑院宮載仁親王殿下、東伏見宮周子妃殿下・三笠宮崇仁親王殿下、同9年高松宮宣仁親王殿下・同喜久子妃殿下、同10年久邇宮供子大妃鍛下、同11年閑院宮春仁王・同妃殿下の御参拝があつて居るのであります。 されば古來奉納されて来た宝物什器の類にも棟札・刀劒・甲冑・古鏡・樂器・書画等に亘つて数百点に及んで居り、中には重要美術品に認定されたるも存して居るのであります。又明暦元年10月に安倍弘忠撰並書の縁起書一巻の如きは、俄かにその内容が当社の由緒を明にするものたるのみならず、その縁起そのものが当時の社家横山氏の社記に関する苦心の迹と、碩學安部氏の遺墨を見るを得ぺき貴重な史料と云はねばならぬのであります。
とりあへぬぬさを手向てめくみある神のこころやみほの浦波 水無瀬氏成
波風も舟出をいそぐ聲たてて目に見えぬ神のしるしあらはせ  同上
当社古来の社家は横山氏で、即ち現在の宮司の家であります。その出自は詳かにせぬやうなれど、藤原氏を名乗る所から見ると、當社神領の地頭なる松田備前守の一族でありませう。その松田氏が当社を氏神として当国に威を振つたことは、古記に見ゆる所であります。或はこれは当郷の郷長の後かも知れません。その松田公順の一族横山公定の子定雄の時、永正15年の霜月に、客伝神社の造営を行つたこと同社の棟札に存してゐるが、これは同社が当社の境外に在るを以つて、隠岐為清の兵焚をも免るるを得たものであります。この定雄の子真次の時、天文3年6月、はじめて白川家について神道の傳授を受けました。爾来横山家は白川氏の門流に属し、從五位下に叙せられたのであります。さうして真以の子定章は弘治2年林鐘十三月にやはり境外末杜天神社の遷座祭を行つてゐるが、その時の棟札には、神主三穂定章と見えて居ります。乃ち三穂を以つて苗宇としたこともあつたもので、爾來藏人真次・右京大夫元久・越前守政次・越中守正吉・大隅守玄藏・大隅守達安・大藏之輔真清・大隅守真央・大隅守真民・長門守真恒・岩根真矛・清丸と相続いで現宮司(正勝)に至つてゐるのであります。 処で当社において古來人口に膾炙せるは所謂『関の一年神主』であります。現今は供奉頭人と称してゐるが、これは伴信友の著書などにも載せられ、神秘奇異の風習を喧傳されて、或はこれこそ職業的神職の出現以前における氏人奉仕の俤を残すものであると説かれて,近来に至るまで世俗は勿論、學界までの問題となり話柄となつてゐる所であるが、しかもその實際においては、近來大田直行氏の『出雲新風土記』に紹介されてゐる如く、中世以降わが國の社寺に普く布及して来てゐる御頭の範疇に入るべき一例にすぎないでありませう。ただその齋戒が特に嚴重なることと、青柴垣神事の如き特殊なる古傳祭を中心として他に異る発達を遂げて来たものなる点において、最も注意すべき特色をもつものとせねぱなるまい。近来では.この当社に功労の著しかつた頭人が、氏子惣代人として依然神社に奉仕し、供奉頭人として祭事に勤務してゐるのであるが、これは洵に當然のことと云ふべきであります。

神国島根






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