国神社
くにじんじゃ


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【和漢三才図会】

鉢ケ峯神社(旧国神社か) 上神郷鉢峯(堺市鉢ケ峯寺)にある。
祭神 天照大神
縁起にいう。垂仁天皇八年に、天照大神が鳳凰に化してこの襲峯(おいそのみね)に降った。垂仁天皇の皇子が登臨して化跡を礼祭したので、神郷という。景行天皇24年に神託によって、武内宿禰に命じて社を営み、55年に神鳳を千種森に移した。今の大鳥社がこれである。
『旧事紀』にいう。大己貴尊は天羽車大鷲に乗り、妻妾を求めて節渡県〔節渡は茅渟と書くのに当る。茅渟は即ち今の和泉の地である〕に下向した。大陶祇の女活玉依姫を娶って妻として往来した時、人はそのことを知らずして密かに往来する間に女が懐妊した。父母は疑い怪しんで、誰が来るのか、と問うと、女は答えて、神人が装い来て、屋上から降って来られ、共に臥すだけである、と言った。そこで父母は早く正体を知りたいと思って、麻を績んで綜を作り、針で神人の短裳に掛けさせた。明朝掛けたものに随って尋ねいくと、鍵穴を抜けて節渡山にを経て吉野山に入り三諸山に留まった。それで大神であるとわかった。綜の残りを見ると、ただ三わげであったので、三輪山と名付け大三輪神社という〔『泉州志』にいう。大己貴尊の降臨の地はこの山か。陶邑も近い。かつこの地を上神と名付けて加無都美和(かむつみわ)と訓むのは、大和国の三輪に対していうものか〕。


【法道寺】

白鳳時代、天智天皇9年(670年)法道仙人当山に来たり飛鉢の法修せられ、その霊験の著しきにより終に輦下に達し勅願寺として開創され、もと閑谷院長福寺と称され多数の寺院を擁した大寺院であった。享保元年(1716年)徳川八代将軍吉宗公の嫡子に長福丸と名づけられてより法道寺と寺号が改められた真言宗の寺である。 承和11年(844年)慈覚大師、仁明天皇の勅を奉じて当山に参籠薬師の尊像及光背に千体の薬師仏を造刻せらる(本堂中央に安置)、又伝教大師、弘法大師も勅を受けて祈願所とされたが、のちに寺運衰え、加えて元亀、天正の乱を蒙り寺坊も減じ幕末には7坊となり現在は2ケ寺となった。  境内には、鎌倉時代中期に建てられた食堂、室町時代初期の多宝塔があり、ともに国の重要文化財建造物にしていされている。また寺宝には鎌倉時代の十六羅漢像十六幅(土佐将監の筆)は国の重要文化財美術品にしていされている。「社頭掲示板」


【大阪府指定有形文化財】

御神体として神殿の奥深く祀られている男神像(だんしんぞう)、菩薩形像(ぼさつぎょうぞう)、明王形像(みょうおうけいぞう)の三体の神像は、もとは鉢ヶ峯寺(はちがみねじ)の國神社(くにじんじゃ)に祀られていましたが、明治43年に國神社が櫻井神社に合祀されたためともに移されました。
 これらの像はいずれもヒノキの一材から彫り出され、今はほとんどはがれ落ちてしまっていますが、かつては彩色が施されていた痕跡があります。
 20センチメートル程度の小さな像にもかかわらず、頭部の表現には素朴で力強いものがあります。衣のひだなどの表現は簡略で、像によっては表面に節(ふし)がみられることから、神木のような何か特別の意味のある木をつかったのではないかとおもわれます。
 平安時代後期につくられた泉大津市泉穴師神社(いずみあなしじんじゃ)の神像(重要文化財)とくらべてやや形式化がすすんでいることから、鎌倉時代のはじめころの制作と考えられます。「堺市HP」


【大阪府指定無形民俗文化財】

上神谷(にわだに)のこおどりは、鉢ケ峯寺(はちがみねじ)の氏神・國神社(くにじんじゃ)の旧暦8月27日の祭りに若衆によって演じられていた踊りです。
 かつて和泉地方に多く見られた雨乞い、雨礼踊りとして行われたものですが、秋祭りの芸能としても毎年行われていたようです。
 鬼が数十本の紙花(ヒメコ)を挿して背負った竹籠や、ここで歌われる踊り歌などに、室町時代の風流踊りの影響がうかがえます。
 國神社が、明治43年(1910年)に片蔵の櫻井神社に合祀されてからは櫻井神社の秋祭りで毎年の10月第1日曜日に演じられています。
 現在、堺こおどり保存会によって地域の小中学生への伝承活動が積極的に行われ、伝統あるこおどりの保存が図られています。
「堺市HP」
国・記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財選択としても登録





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