伊豆山神社
いずさんじんじゃ


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【由緒】

関八州総鎮護 伊豆山神社
御祭神 伊豆山大神(火牟須比命・伊邪那岐命・伊邪那美命)
例祭日 4月15日
鎮座地 境内は古来歌枕に名高い伊豆の御山、子恋の森の一部で約四万坪、海抜170m
御由緒 当社は古来伊豆大権現、走湯大権現、又は伊豆御宮、走湯山とも呼ばれていましたが、明治の神仏分離令により現在の社名に改称されました。
又、伊豆の地名の発祥地は当社であります。
社伝によると当社は最初、日金山(万葉集にいう伊豆の高嶺)に鎮まり、次いで本宮山に移り、さらに三遷して現在の地に御鎮座になりました。
源頼朝は平治の乱の後、平家の手により伊豆の蛭ヶ小島に配流の身となっていたが、源家再興のことを当社に祈願し、後に鎌倉に幕府を開くに及んで、篤く当社を崇敬し、幕府最高の崇敬社として、関八州総鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に、鎌倉、室町期を通して武州、相州、上州、豆州、駿州、越州に23ヵ所の社領を所有していたことが室町時代の文書「寺領知行地注文」に記され、その所領範囲の広大であったことが当社の最隆昌期における状況を示しております。
鎌倉、室町の時代を経て徳川家康は江戸に幕府を開くに先立ち二百石を寄進し、次いで慶長になって百石と、併せて三百石の朱印料を寄進して崇敬の誠を示しており、歴代の将軍もこれに習い、当社を崇敬いたしておりました。
又、天皇家にあっては、第16代仁徳天皇が勅願所となされてより、22代清寧、30代敏達、33代推古、36代孝徳、105代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に、御奈良天皇は御宸筆の般若心経一巻(国指定重要文化財)を御奉納になられ国土安穏と万民の和楽を御祈願なされております。
大正3年1月13日、皇太子であられた 昭和天皇御参拝の折親しく、若松一株をお手植え賜り、現在緑の葉も繁く栄えております。また、昭和55年9月12日には皇太子浩宮徳仁親王以下の御参拝をいただいております。
なお、当社は明治以前においては神仏習合が盛んに行われた社で、役小角をはじめ 弘法大師、多くの山岳仏教徒や修験者が入峰して修行を積んだ霊場で 御白河法皇の御撰による梁塵秘抄に「四方の霊験所は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山」と著され、東国 東海における第一の霊場として聞こえていたことがしられます。
御神徳 火の神、国生みの大親神として、国を護り、生命の充実・発展、縁結び、家内安全、産業・事業・経営の護り、火防鎮火、温泉守護の御神徳があります。
宝 物 後奈良天皇御宸筆般若心経一巻・古剣一振・男神立像(日本最大)以上、国指定重要文化財、外多数の宝物を所蔵しております。
金槐和歌集 源実朝
ちはやぶる伊豆のお山の玉椿 八百万代も色はかはらし。
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ。
伊豆の国や山の南に出づる湯の 速きは神の験なりけり。

社頭掲示板



【火牟須比命神社】

中ノ本宮は牟須夫峯と称され、鎭座地をムスブ平と云ふが、同社付近からは中世初期の祭器類が出土してをり、あるいは式内の火牟須比命神社の鎭座地として擬する考へ方も一理はあるといへよう。
しかしながら、伊豆山神社の古記録によれば、雷電社について、若宮神社(中本宮の雷電社)と下之雷電社の二社が記されてをり、光の宮として著名な下之雷電社は、もと伊豆山神社現所在地の麓の方に鎭座してゐたと傳へてゐる。從つて、中ノ本宮の雷電社か下之雷電社か、そのいつれをもつて式内社にあてるべきかは、今後の研究にまつより他はないであらう。

式内社調査報告






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