大山祇神社
おおやまずみじんじゃ


戻るボタン





【由緒】

瀬戸内海のほぼ中央、芸予諸島の中心をなす大三島は、平成11年5月全通した愛媛県今治市と広島県尾道市の間を10本の橋で結ぶ「せとうち・しまなみ海道」拠点の島であり、瀬戸内海国立公園のなかでも景勝の地として知られる。
 大山祇神社は島の西側宮浦に位置し、国指定天然記念物楠群に覆われた境内に鎮座している。「三島宮御鎮座本縁」によれば、はじめ島の東側にあたる瀬戸にまつられたが、のち現在の大三島町宮浦字榊山一番耕地に大宝元年から霊亀二年まで首尾十六年をかけて大造営をなし、養老三年四月二十日正遷座が行われたと記されている。天孫瓊々杵尊の皇妃として迎えられた木花開耶姫命の父にあたる大山積神は、皇室第一の外戚として日本の建国に大功をあらわし、全国津々浦々にその分社が祀られている。
 大正4年11月10日、四国唯一の国幣大社に昇格するのも右の由緒によるものである。古来日本総鎮守として尊称せられ、三蹟の一人藤原佐理が、日本総鎮守大山積大明神と揮毫奉納した神額は、国の重要文化財に指定され大切に保存されている。
 伊予風土記に「御島(みしま)に坐す。神の名は大山積・・・」と見える当社は、延喜式神名帳にも大山積神社と記されるが、土地の人々は三島明神、または大三島さんと呼んで崇め、記録にも残されている。古事記に「山ノ神、名は大山津見神」とあり、日本書紀には「山の神等を山祗と号す」と、そして伊予風土記に「大山積の神、一名を和多志の大神」とあって、山神である一方海神・渡航神としての神徳を兼備、鉱山・林業は無論のこと農業神として、さらに瀬戸内海を航海する人々の篤い信仰を集めてきた。悠久の歴史にあって、75代崇徳院に雷神と高?神が増祀されたことがあるが、やがて康治元年8月下津社が、久安3年6月上津社が創建されると、上津社に雷神が下津社に高?神が遷されて本社は大山積神一座の元姿になる。尚、これ以降本社・上津社・下津社の三社をもって汎く大山積神社と崇めまつる信仰となり今日に及んでいる。
 現今、官国幣社の制は廃せられたが、全国10326社の大山積神をまつる総本社として、日本一の甲冑・刀剣を所蔵する神社として、四季を通じ多数の崇敬者、拝観者が訪れる。
 なお当社ではご祭神名「大山積神」、神社名「大山祇神社」として積と祇を書き分けている。

愛媛県神社庁



【由緒】

大山祇神社の建立は以下のような由来譚が伝えられています。
「宝亀9年(西暦778年)、真海法師という老僧が来訪した。法師が眠りについた夜更け、法師を呼ぶ声が聞こえてきたという。法師が声の主を問うと"われこそは相模国三嶋大明神なり、この山に霊地あり。ここに於いてわれを山神として勧請すべし。火災、病苦諸厄を除き国中を安穏に擁護し、誠意を以って祈念する者は、一代に一回は必ず聞き召すべし"と厳かなる神勅をこうむった。法師はたちまち誠をこらして山に登り二夜三日の祈祷をこらして祠を築かんとしたところ忽然と幣束が現れたという。このことを村人に語ったところ皆感激して宝亀10年より石龕の建立をはかり9月9日に竣工し御遷宮式を挙行したと伝えている」
この由来譚によれば、勧請は宝亀9年とされており、奈良時代よりこの地を鎮守していたこととなっています。また、「なじょな(どんな)願いもききなさる山の神様」と伝えられているのはこの由来譚からと考えられています。

公式HP



【由緒】

大山祇神社(おおやまずみじんじや)
愛媛県越智郡大三島町大字宮浦。旧国幣大社(現、別表神社)。
大山積神一柱を祀る。和多志大神・三島大明神(『釈日本紀』所引『伊矛風土記』)と称する。神位は天平神護2年(766)従四位下を授け神戸五烟を充て、承和2年(835)明神に預かり、貞観2年(860)従三位を加え、同8年正三位を、同12年従二位に叙され、同17年正二位をうけ、延喜の制、名神大社に列した。承暦4年(1080)御トに大山積の崇あるにより社司に中祓を科せしめる。
毎年二度桜会また大頭という祭に鹿の生贄を供えるも、正応2年(1289)僧一遍が神教に託して、その礼をやめさせる。(『一遍上人縁起』)。そののちも神威ますます盛んとなる。白河天皇の御代伊予国守護藤原範国の代参として当社に詣でた能因法師は祈雨の歌「天の川苗代水にせきくだせ、あまくだります神ならば神」と詠じて奉るに、正月より三、四月までつづいた旱も、にわかに大雨となり枯れた稲も潤うた(『金葉集』『十訓抄』)という。また三蹟の一人藤腹佐理は鎮西よりの帰途、伊予の泊で嵐にあい、「日本総鎮守大山積大明神」の神号扁額(現、重文)を乗船の船板に書き航海の安全を祈ったが、これは日本第一の能書で、三島社と六披羅密寺の額とはこの人の筆跡である(『十訓抄』『東斎随筆』)。のち源氏・北条氏・足利氏をはじめ領主藩主の崇敬篤く、とくに三島水軍の将河野氏は氏神として尊崇ただならぬものがあったという。社殿は建保5年(1217)、貞応元年(1222)焼亡したが、建長7年(1255)国中段別平均米をもって造営すべきを幕府より下知せられ、正応元年(1288)造営が成った。元亨2年(1322)兵火により再度焼失、天授4年(1378)宝殿以下大小の社殿を復旧した。本殿は三間社流造で昭和28年解体修理のさい、床板から応永34年(1427)云々の墨書が発見され、その頃の建造であることがわかった。じつに100年の歳月をついやしての造営である。本殿は重要文化財に指定される。当社には34の摂末社があるが、たとえば摂社阿奈波神社(磐長姫命)。姫子邑神社(木花開耶姫命他二柱)があり、末社に一七神社(諸山積神社の古称、大山紙・正鹿山祇・志芸山砥など種々のヤマツミを祀る)があり、その21体の神像はすべて平安初期の木彫である。うち17体は国の重要文化財に指定される。例祭日、旧4月22日(春祭)。秋は旧8月22日に産須奈大祭として神幸祭が執行されるが、獅子の狩姿を神前に奉納するのは、一遍上人の生贄を止めさせたときに始まる。御田植祭(旧5月5日)・抜穂祭(旧9月9日)。抜穂祭は薪穀祭とも呼ばれる収穫祭で、一人角力(無形民俗文化財〉は両度の祭典に奉納される。御更衣御戸開祭(11月22日)は冬から夏の御衣にお召し替えする祭。そのほか特殊神事はきわめて多い。大小200余本の楠群は樹令3000年を誇り、昭和23年国の天然記念物に指定される。所蔵の宝物は数万点に及び国宝の島と呼ぶにふさわしい。
国宝に指定されたもの8点、重要文化財に指定されたものにいたっては実に127点の多数に及び、なかんづく、兵器類108点を有し甲胃については全国の国宝・重要文化財の指定なうけた総点数の八割を占めるという驚嘆すべき点数である。いま国宝指定の宝物のみを挙げる。河野通信奉納紺糸威鎧兜大袖付、源義経奉納赤総威鎧大袖付、源頼朝奉納紫糸威鎧大袖付・越智押領使好方奉納沢潟威鎧・斉明天皇奉納禽獣葡萄鏡、護良親王奉納牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵、大森彦七奉納大太刀-無銘伝豊後友行附野太刀拵、後村上天皇奉納大太刀-銘貞治5年丙午千手院長吉(国宝・重要文化財指定は昭和50年2月現在)。なお社号は大山紙神社・山神社・三島神社など多岐にわたるが、大山積神を祀る神社で金国に鎮祭される御分社の数ば10318社(昭和47年8月神社本庁闘べ〉を数える。

神社辞典






戻るボタン


出雲国INDEXへ        TOPページへ