多度大社
たどじんじゃ


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【公式HP】

本宮 多度神社
本宮 多度神社御祭神
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
相 殿
面足尊(おもだるのみこと) 惶根尊(かしこねのみこと)
天津彦根命は、『古事記』では天津日子根命と表記されるが、共に天照皇大御神と建速須佐之男命の誓約の際に、皇大御神が須佐之男命に授けられた物からお生まれになった五柱の男神の内の一柱であり、皇大御神の御子神である。
その御縁故により、当大社を「北伊勢大神宮」とも申し上げる。
また『新撰姓氏録』には、犬上県主・蒲生稲置・菅田首・額田部連・額田部湯坐連・三枝部造・高市県主・奄智造・凡河内国造・凡河内直・津国造・山背国造・山背直・磐城国造・磐瀬国造・菊多国造・周淮国造・馬来田国造・師長国造・茨城国造・周防国造らの祖神とされる。
その中にあって、桑名周辺に本拠を置く桑名首の斎き奉る御祖神と記載され、この『新撰姓氏録』が編纂された平安時代初期には、既に桑名周辺の人々の総氏神と崇められていたと思われる。
また、相殿に奉斎の面足尊、惶根尊は、共に天地開闢の際にお生まれになられた神世七代の第六代目の神であり、面足尊は男神、惶根尊は女神と見なされる。

別宮一目連神社
御祭神
天目一箇神(あめのまひとつのみこと)
別宮 一目連神社
別宮御祭神、天目一箇神は、天之麻比止都禰命、天久斯麻比止都命とも申し上げ、御本宮主祭神天津彦根命の御子神である。
『古語拾遺』によれば、天目一箇神は、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖であり、岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造られたと記されている。
また、大物主命を祀るときに作金者(かなだくみ)として祭祀に用いる物をお造りになられたとも伝えられ、日本書紀の一書(傍説)では、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとも記されている。
また、天目一箇神は御父神である天津彦根命と共に、天候を司る神とも仰がれ、古来より伝えられる雨乞祈祷では、御本宮と並び、別宮においても祭典が執り行われ、近世では伊勢湾での海難防止の祈願も多く捧げられた。
また、当地方一円では、天目一箇神が御稜威を発揚される際、時に臨んで御殿をお出ましになると言い伝えられ、古来御社殿には御扉の御設けが無い。



【桑名市HP】

多度大社は5世紀後半、雄略天皇の御代に御社殿が建てられました。 本宮の多度神社には、伊勢の神宮の御祭神、天照大神の第3皇子である天津彦根命をお祀りし、その御子、天目一箇命を別宮の一目連神社にお祀りしています。 この御祭神の関係から「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば 片参り」と謡われ、北伊勢地方の総氏神様として崇められています。 また、南北朝時代には多度祭の上げ馬神事も始まったと伝えられています。 然しながら元亀2年(1572年)、織田信長による兵火に罹り、御社殿を始めすべての御建物と、暦朝より賜った神位記・御神宝・諸記録のすべてが失われました。 その後、江戸時代に入り、桑名藩主本多忠勝公により莫大な寄進を受け、御社殿等も復興されました。 近代に入り、明治6年県社、大正4年には国幣大社という高い社格が授けられ、現在でも地元を始め全国の人々から厚い崇敬を受けています。


本宮

多度神社(向かって左の御殿)
御祭神 天津彦根命
天照大神の第三の御子で紳代の昔から御鎮座になり雄略天皇の御代に神殿が創建せられた
北伊勢地方の文化の発達・産業の興隆に力を尽くされ御子孫も広くこの地方に御繁栄になってその総氏神として五穀の豊饒漁獲の豊収に厚い御守護を加え給い、殊に雨乞の神として遠近に信仰する人が多い。
御例祭は5月4日、5日の両日で古くより「上げ馬」「やぶさめ」等特殊神事が行はれ、その年の作柄の豊凶を占うと云う意味にて特に民衆の熱心な信仰がある。

社頭掲示板



多度神社

たどじんじや 三重県桑名郡多度町多度。旧国幣大社(現、別表神社)。祭神は天照大神の皇子とされる天津彦根命と、天目一箇命を祀る。多度大社とも称される。
創建は雄略天皇の御代と伝えられている。
『続日本紀』の延暦元年(782)に従五位下を授けられたのをはじめ、『続日本後紀』『文徳実録』に神階叙位の記録がみられる。特に『三代実録』の貞観元年(859)2月に従二位を授けられ、神位記財宝が奉られている。また、寛仁元年(1017)には一代一度の大奉幣に預かっている。『延喜式神名帳』の名神大社に列せられた。祭神の天津彦根命との関係により、古くから伊勢神宮に対して北伊勢大神宮とも称され、産業開発の神として崇敬を集め栄えてきた。歴代天皇家の尊崇も篤く、戦国時代には織田信長の兵火に焼かれて一時荒廃したが、慶長年聞(1596-1615)桑名城主本多忠勝が再興した。以来桑名城主歴代の崇敬が篤かった。祭神が祈雨や海上の風難、水火の災いに霊験があるとして、近郊はもとより、伊勢・名古屋など近畿・東海の各地の人々により広く崇敬されている。例祭5月4、5日。多度祭とも称され、氏子の中から選ばれた六人の少年騎手が、陣笠・はかま姿で馬に乗り、3m余の崖を駆けあがり、その馬の駆け登り具合で、その年の豊凶が占われる上げ馬神事がある。宝物には明和7年(1770)の豪雨の際に裏山より発見されたといわれる平安時代後期の作品である銅鏡三〇面と、神宮寺の堂宇が完成した延喜20年(801)の11月3日付で願主沙弥法教から僧綱所に差し出された紙本墨書神宮寺伽藍縁起並資財帳や、平安時代後期の作品である金銅五鈷鈴が重要文化財に指定されている。別宮の一目連神社は天目一箇命を祀り、金属工業・農業・水産の神として信仰を集めている。11月8日にはふいご祭が行われる。

神社辞典



多度神社 名神大

多度は假字也○祭神 ○多度村に在す、(考証、俚諺)〇式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、伊勢国多度神社一座、○永万記、伊勢國多度宮八丈十疋、
続日本紀に、当耆郡多度山美泉とあるを、伴信友が、古ハ美濃国ニ属セルニヤ、又山ハ美濃伊勢ニワタリテ、神社ハ伊勢ニ属セルニヤ、と云るは漏也、美濃國多芸郡と、伊勢國桑名郡とは摂せば、中間に美濃の石津郡挾れり、多度は同名異処也、混ずべからず、
神位、官社
続日本紀、延暦元年10月庚戌朔、叙伊勢国桑名郡多度神從五位下、」続日本後紀、天長10年4月庚辰、奉授伊勢國従五位下多度大神正五位下、承和6年12月丁巳、奉授伊勢國正五位下多度大神正五位上、同11年6月丙辰、奉授伊勢國正五位上多度神從四位下、文徳實録、嘉祥3年9月甲申、詔以伊勢国多度大神、列於官社、」三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授伊勢國從三位多度神正三位、同年2月17日癸卯、授伊勢國正三位多度神從二位、同5年6月26日丁巳、進伊勢国從二位多度神階、加正二位、
官幣 神宝
三代実録、貞観元年2月19日乙巳、遣正五位下守右中弁兼行式部少輔大枝朝臣音人、向伊勢国多度神社、奉神位記財寳、仁和3年4月6日己酉、分遣使者、奉幣於伊勢國多度明神社、(事は山城國八幡宮の下に見ゆ)
宮寺
続日本後紀、嘉祥2年正月辛巳、伝燈大法師位寿龍言、以伊勢國多度大神宮法雲寺、爲眞言別院、即為護國家、兼奉飾太神者、依請許之、

神社覈録



縣社 多度神社

祭神 天津日子根命
延喜の制名神大社に列せられし社にして、古は多度大神宮と称す、祭神は天照大神第三の御子なり、日本書紀に凡川内國造、額田部湯坐連茨木國造、倭田山直山代國造、馬来田國造、道尻岐閇國造、周芳國造、倭俺知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等祖」と見え、社伝に依れば、多度山に鎮座せるは遠く神代に在り、宮殿の創立は雄略天皇の御代にして、天平宝字7年に至り最も広壮を極めしが、其初め満願禅師、神託に基きて小祠を建てたるを多度大神宮の濫觴とすと、神名帳考証に「多度神社(名神大)在多度山麓、神前有奇巌流水、天津彦根命也、按桑名、佐乃富、額田神、皆此神之親族也」とあり、又続日本紀に、「延暦元年10月庚戌朔、叙伊勢國桑名郡多度神從五位下」と見ゆ、同5年長官紀朝臣佐婆麿、介井上直手耳、大目大伴直赤椅省、春戸村主廣江等、三重郡六條五鍬柄里七海邊田玖段六十歩十二俣田三百歩、尾張國墾田並田代参拾五町捌反四十歩六年還公空地拾捌町を寄連し、同17年大納言藤原雄黒其他の人々、伊勢國桑名郡幡桙島東庄墾田並田代捌拾町四反三百四十歩及蔀町六反三百歩、外に桑名郡野代郷條外手十九室木田二反三百歩次二十室木田二反次二十一室木田四反六條九鳥垣里廿四染原田代野二條黒門屋原二町七條二多治比邊里田代並山一ヶ処を神傾として寄附す、同20年多度大神宮寺沙彌信教より資財帳を奉る、続日本後紀に、「天長10年、奉授伊勢國從五位下多度大神正五位下」と見え、又云く「承和11年6月、奉授從四位下」、嘉祥3年9月10日宮社に列し、同年10月9日名神に選ばる、貞観元年正月27日正三位を授けられ、翌2月17日從二位に陞叙、同月19日右中辮兼式部少輔大枝朝臣音人勅使として神位記財宝を奉る、越えて同5年6月26日正二位に陞せらる、即ち三代實禄に「進伊勢國從二位多度神階加正二位」とあるもの是也、かくて、光孝天皇仁和3年4月6日使を遣はして幣を奉らしむ、次いで醐醍天皇延喜の制、名神大社に列し、後一條天皇寛仁元年10月丁卯20日一代一度の大奉幣を奉らしめ、本朝四十八社の一に置かる、乃ち此時藤原秀忠を勅使としで絹五尺綿一、糸一両を御幣とし、紫綾蓋平文野剣一腰赤漆御弓一張箭四筋鏡一面平文麻桶一口平文線柱本等を神宝として奉らる、其後永萬元年6月神祇官より全國神領ある諸社に令して貢物を微す、即ち永萬記に云く、「伊勢國多度宮八丈十疋」と、以て神領の夥多なるを知るべし、降つて建仁元年2月從一位に進めらる、慶応3年社殿造営に際し伏見、賀陽、山階三宮及二條関白東西本願寺若江修理大夫吉田侍從飛鳥井中納言野宮中納言尾張大納言増山対馬守本多能登守成潮隼人正石河佐渡守松平範次郎松平隠岐守林肥後守等より金品木材等を寄附せらる、依つて幾もなく竣工遷宮す、現今の社殿是也、大日本名勝地誌に、「山麓に多度神社あり天津彦根命を祭り、面足命、惶根命を合祀す、雄略天皇の時の創健に係る、元亀中織田氏の兵焚にかゝり、社殿神宝悉く焼失せしが、其後本多忠勝の桑名を治せし時之を造営すと云ふ」と見え、又東海道図会には、「多度大神、天津彦根命、相殿新宮明神内母明神、摂社一目連祠等あり、社説に云く、北勢洪水暴風の時、此神其難を防がせ給ふ、往昔は多度柚井戸津本多猪飼等の地皆此神領なりき、永禄天正の頃、長島合戦連年止まず、神社寇火に罹る、慶長に至り桑名城主小山忠勝再営あり、爾後累代桑名侯の尊信する所となり、大略旧観に復し、供僧法雲寺を再置す、神庫に古鏡三十面古劒一口古陶古銭数十品を蔵む、神域に老樹奇草を生じ、巖石の怪異なる者多し、八壺谷の幽渓は勝景特に著る」と見ゆ、而して其古鏡等は明和7年社側の厳石故なくして傾く、依って其地を掘りし時出でしものなりと云ふ、明治6年3月縣社に列せらる、と同時に多度神社の旧號に復す、同年8月三重縣庁より奉幣使を遣はされ爾來恒例となれり、其後諸國の崇敬者金品を寄附して、神樂殿及び御禊瀧を築造す、尚社記によれば、今境内社たる別宮一目連神社は、本宮天津日子根命の御子大目一箇命、又の御名は天久之比乃命にして、筑紫、伊勢両国齋部の祖神なりと、姓氏録に、「桑名首、天津彦命男天久之比乃命之後也、多度社傍小社一目連者、多度大神之子天麻比止都禰命とあり、旧事紀に云、天麻比止都禰命、作天一目命、俗謂一目連者、蓋天一目命之転語也云々」とあり、往古天津日子根命と共に多土山に祀りしに創ると云ふ。
社殿は本殿、高欄、階、瑞垣門、瑞垣、於葦門、冠木鳥居、藩塀、神楽殿、神饌所、神巫殿、神輿殿、絵馬殿、鳥居三、神橋、社務所、警視場、祭典場、神厩、石灯篭、神石等を具備し、境内坪数29866坪(官有地第一種)を有す。
宝物は勅額(聖武天皇御宸筆)神鏡、神鈴、弓、矢、鉾、太刀、兜、古鏡三十面、古刀、古斧、古鈴等あり、特有祭事は流鏑馬の古式にして、初め武装騎乗して神輿に随ひ、肘江其他諸村を過ぎ、小山邑の馬場に至り、神前にて厳格なる射式を行ふものなりと云ふ、尚一は雨乞の祈祷にして国内は勿論、遠くは東は駿遠西は四国北は若狭等二十余州より来り祈るに、霊験あらざることなく、殊に海上の風難及び水火の焚を祷り、霊験著しといふ、

明治神社誌料






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