大洗磯前神社
おおあらいいそさきじんじゃ


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【由緒】

常陸国上言。鹿嶋郡大洗磯前有神新降。初郡民有煮海為塩者。夜半望海。光耀属天。明日有両怪石。見在水次。高各尺許。体於神造。非人間石。塩翁私異之去。後一日。亦有廿餘小石。在向石左右。似若侍坐。彩色非常。或形像沙門。唯無耳目。時神憑人云。我是大奈母知少比古奈命也。昔造此国訖。去徃東海。今為済民。更亦来帰。
國司が上言するに、一製塩者が、夜半に海上を見ると、光耀が天をつき、翌日海濱に出てみると、高さ尺余の二怪石があつた。更に翌日みると、二十余の小石が二怪石の左右に侍坐してゐるやうにあり、二怪石の形は沙門にて耳目がない。時に神が人に依りて云ふに、我は大己貴・少彦名命なり、昔、この國を造り訖つて、東海に去つてゐたが、いま民を救はんとして、更にまた此処に來たのだといふ.

『日本文徳天皇実録』斉衡3年(856年)



【由緒】

【御鎮座】 御創立は『文徳実録』の記す処によれば、斉衡3年(856)と云われて居ります。
【御祭神と御神徳】
 大己貴命(大国主神)は国土を開拓し殖産興業に力を尽し人々の生活の基礎を築き、少彦名命と共に山野に薬草を求めて、病難に苦しむ人々を治療し又禁厭の法を定めて、民の災禍を防ぐ等、国土の経営と民生の安定を計り徳望高く人々は深くその恩恵を蒙って居りました。
 当神社のご祭神は昔から大国様、恵比須様と親しまれ、家内安全、商売繁昌、福徳円満、良縁成就、開運厄除の大神、更には酒造、病難治療の祖神としてあらたかなご神徳により広く厚く信仰されております。
【御由緒】
 「我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰って来た」と仰せられました。当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、国内が乱れて居りました。大国主神はこうした混乱を鎮め平和な国土を築く為に降臨されたのです。
 大国主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。
 残念な事に永禄中兵乱に際し御社殿以下の諸建造物は悉く焼失し、水戸藩主徳川光圀公は元禄3年御造営の工を起し、次いで綱條公に至り本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲ぶに足る文化財として貴重なものです。
【年間の祭事】
1月:歳旦祭(初日の出奉拝)、初祈祷 2月:節分祭、紀元節祭、祈年祭 4月:太々神楽祭 6月:夏越大祓式 8月:例大祭並に八朔祭 10月:神嘗祭当日祭、献饌講献穀祭 11月:明治節祭、有賀祭、新嘗祭 12月:天長節祭、年越大祓式、除夜祭
・例大祭並に八朔祭 8月25日
朔は「ついたち」にして八朔祭とは8月1日の祭を云ふ意味なり、古くは旧暦8月1日に行われたが近年8月25日を以って当社の例祭となし、八朔祭と称す。五穀豊穣と国民生活の安定を祈る祭儀なり。
・秋季神事祭 11月11日
有賀祭とも云う。東茨城郡内原町の有賀神社神職"神矛"を奉じ氏子総代以下供奉し法螺貝を吹き鳴らしつつ当社に参向します。幼児の虫切りに霊験著しと云われ、当日早朝より境内は幼児を背にする人々の群で埋り、我が子の健全な成長を祈る人々は先を争って神矛を拝さんとして境内は殷賑を極めます。

茨城県神社庁



大洗磯前神社

御由緒
平安時代の書物である『日本文徳天皇実録にほんもんとくてんのうじつろく』によると、文徳天皇の斉衡3年(856)12月29日、現在の神磯に御祭神の大己貴命・少彦名命が御降臨になり、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造りおへて、去りて東海に往きけり。今民を済すくわんが為、亦帰またかえり来たれり」と仰ったことから、当社が創建されたと伝わっています。その後、国からお供え物をいただける数少ない神社の一社となり、更には「大洗磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。延喜式神名帳(平安時代の神社名鑑)では霊験あらたかな神社を表す「大社」とされ、明治時代には国幣中社という社格を賜りました。
御社殿等は戦国時代の兵乱によって焼失してしまいましたが、江戸時代になり水戸藩2代藩主徳川光圀公の命で元禄3年(1690)社殿等の造営を始め、3代綱條つなえだ公の享保15年(1730)に完成したのが今の本殿・拝殿・随神門です。
本殿・拝殿は彫刻や建築様式が江戸初期の数少ない建造物として県の文化財に指定されています。
医薬の神様と御神水
 当社の創建について記されている「日本文徳天皇実録」には御祭神が降臨された時代は、天然痘が流行り、飢饉が起こるなど大変な時代だったことが記されています。特に御祭神御降臨の3年前には流行り病が猛威を振い多くの死者が出たとあります。
薬も医者もいない時代に常世の国(不老不死の国)とも言われた常陸の国に医薬の神が「今、民を救わんがために、また帰り来たれり」と仰り降臨されたのは、もう2度と同じような災難が繰り返されないよう、人々の願いを受けて二神が降臨されたと考えられています
御祭神は平安の書物に「大洗磯前薬師菩薩明神おおあらいいそさきやくしぼさつみょうじんく」とも書かれた文字通りの医薬の神様です。
 境内から涌く水は眼病に効くといわれ明治時代まで「目さらしの井」があり、神社前の海岸は潮湯治(病気治療のため、海水につかること)で江戸時代から御祭神の御利益をいただこうと賑わっていたようです。
 現在も霊験あらたかな御神水を求めて多くの方が遠方よりお越しになります。
※飲用に使われる方はなるべく煮沸してください。(毎年検査を行っておりますが、地下水ですので何時菌が出るかわかりません)
  お水取りの場所(24時間可能です)
 東日本大震災では4mの津波が押し寄せたにもかかわらず、大洗町では津波での死者はいませんでした。 「目さらしの井」があった辺りには今でも少し水が湧いていますが不思議なことに、この時には大量の水が湧き出しました。大洗町は断水していましたので、この御神水を求めて多くの町民が神社に訪れ、喉を潤すことで地震で沈んだ心が癒えた方が多くいらっしゃったと思います。

公式HP



大洗磯前神社

おおあらいいそざきじんじや 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町。旧国幣中社(現、別表神社)。大己貴命を主神とし少彦名命を配祀する。『延喜式』に大洗磯前薬師菩薩神社とみえるのが本社である。洗磯前神社、洗磯神社また単に磯前神社ともいう。文徳天皇の斉衡3年(856)12月、常陸国の上言によれば、初め郡民で塩を焼く者、夜半海上に光り輝き、翌日見ると二個の怪石があった。後一日また二〇余の小石が、左右に向って侍坐するように見えたり、沙門の形に見えたりした。時に神が人に憑いて、我は大奈母知少比古奈命である。昔此の国を造り終って東海に去ったのであるが、今人々を救うために帰来した、と託宣があった。そこで大己貴命を本社に、少彦名命を酒列磯前神社に祀るという。天安元年(857)8月、本社を官社にして、同10月薬師菩薩明神の号を授けられ、延喜の制で名神大社に列した。江戸時代元禄年中(1688−1704)徳川光圀が祠殿を営んで遷宮の式を行い、享保15年(1730)今の地に遷す。古来の祭祀は、大晦日の夜から正月七日まで神職は参籠、棄、醴を供へ、神楽を奏しない。鳴物、寺の鐘もやめ、建築その他の工事もとめて専ら慎しむ。七日己の刻、初めて神楽奏上、四海平穏。五穀豊稔を祈る。現在はこのことはない。当社は古くから「薬祖神」として医師・医薬業関係者の信仰が篤く、又「醸造の神」「漁業の守護神」・「産業守護神」として広く篤い崇敬者層がある。
祭祀は4月14、15日太々神楽祭、旧8月1日=八朔祭、9月9日=例祭、11月11日=有賀祭。この祭は子供の虫封じの神事として有名である。本殿は一間社流造、茅葺である点が異っている。拝殿は正面五間・側面二間・中央拭板敷・左右脇の間は各々一〇畳の畳敷とし、三方に回縁勾欄を有し、正面に一間の向拝を付す。屋根入母屋造平入、向千鳥破風附・向拝の槌破風正面に軒唐破風を飾る。拝殿前方に、三門一戸の随身門が建っている。本殿・拝殿は県の重要文化財である。

神社辞典



大洗礒前藥師菩薩神社 名神大

大洗礒前は於保安良比伊曽佐伎、藥師は久須志と訓べし、菩薩は昔読也、○祭神大己貴命、(頭注)○宮田郷礒濱村に在す、(常陸志)例祭月、日、〇式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、常陸國大洗磯前藥師菩薩神社一座、
官社 名神 菩薩
文徳實録、天安元年8月辛未、在常陸國神大洗礒前神預官社、同年10月己夘、在常陸國大洗礒前神、號藥師菩薩名神、
鎮坐
文徳實録、斎衡3年12月戊戌、常陸國上言、鹿島郡大洗礒前有神新降、初郡民有挺海爲櫨者、夜半望海、光輝属天、明日有両怪石、見在水次、高各尺計、体於神造、非人間石、塩翁私異之去、後一日、亦有廿余小石、在向石左右、似若侍坐、彩色非常、或形沙門、唯無耳月、時神憑人云、我是大奈母知少彦名命也、昔造此國、去往東海、今為濟民、更亦来帰

神社覈録






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