大洗磯前神社の創建は『文徳実録』によると、856年(斉衡3年)である。戦乱により中世には荒廃するが、近世になって、水戸藩主徳川綱條により再興される。再建された現在の本殿は独特の形をしている。 大洗磯前神社は岬の丘の上に鎮座し、社殿は海に面している。海岸の岩礁に最初に神が影向したと言われるところがあり、鳥居(神磯の鳥居)がたてられている。岬は陸地と海原の境界である。岬はこの世と異界の境界であると同時に両者を繋ぐところでもあるのである。岬に神が降臨したのは、岬が神が異界からこの世に来るためのゲートだったからといえるだろう。 大洗磯前神社は酒列磯前神社とともに2社で一つの信仰を形成しているが、鹿島神宮と香取神宮の例や熊野三山の例がある。 |
由緒 文徳実録の記録によれば齊衡3年常陸國鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里人の一人に神がかりして人々に教えられました。「我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この國を造り常世の國に去ったが、東國の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰ってきた」と仰せられました。当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、國内が乱れて居りました大國主神はこうした混乱を鎮め平和な國土を築く為に後臨されたのです。 即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大國主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。朝廷は國司の上奏に基づき翌天安元年8月7日官社に列せられ、次いで10月15日には「大洗磯前薬師菩薩名神」の称号を賜りました当時國司の上奏から八か月で此の待遇に預ると云う事は破格の事でありまして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事とが出来ます。 延喜の制当社を名神大社に列せられ東國の大社として祀田千石を領し祠宇宏壮にして、遠近の信仰を集めて栄えた事は現存する元禄御造営以前の御本殿格子等からも察せられます残念な事に永禄中、小田氏治の兵乱に際しその難を蒙り、御社殿以下の諸建造物は悉く焼失し爾来一小社に辛うじて祭祀を続けて来ました。 水戸藩主徳川光圀公は由緒深き名社の荒廢を見るに忍びず、元禄3年御造営の工を起し、次いで綱條公に至り本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、名大社にふさわしき輪奐の美を整えました。 爾来歴代の水戸藩主は厚く当社を尊崇し幕末に至りました。 現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲ぶに足る文化財として貴重なものです。 明治新政府が、神社制度を定めらるるや、明治7年9月県社に指定せられ、明治18年4月國幣中社に列せられましたが大東亜戦争終熄を機に、神社は未曾有の変革を余儀なくせられ、政教分離の名の下に宗教法人としてのみその存続を容認せられました。 神社が國家の宗祀たりし時代より激動の時代を経て現代に至るまで、当社は人々の厚き信仰に支えられて発展して参りました。そして悠久の昔より永遠の未来にわたり國家と共に栄えて行く事でしょう。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大洗磯前神社 所在地・茨城県東茨城郡大洗町磯浜町 電話・029-267-2637 のりもの 国鉄常磐線水戸駅よりバス大洗行にて神社前下車 ◇御鎮座 当神杜の御創立は文徳実録の記す処によれば、齊衡3年(856)と云われて居りますから今(平成8年)を去る1140年前の事であります。 文徳実録齊衡3年12月戊戌(29日)の條に、「常陸國上言鹿島郡大洗磯前有神新降云云」、とその状を事細かに記してあります。 全國に名社、大杜と云われる神社が数多くありますが、当杜の様に御創立の年代の明確な御社は稀であります。 ◇御祭神と御神徳 御祭神は文徳実録に「大奈母知、少比古奈命也」とありまして、大奈母知」は即ち大國主神にして、日本書記には素盞鳴尊の五世の孫と云い、古事記にはその御子神と記してあります。 何れにしても素盞鳴尊の御子孫で、出雲族の中心人物として活躍された神である事に間違いはありません。 大國主神、大物主神、顕國玉神、葦原醜男神、八千戈神等々数多の御名があり常に少彦名命と二柱相並び御出現になり、御神徳を顕されて居ります。 少彦名命は高皇産霊神の御子神と記されてあります。 大國主神は國土を開拓し殖産興業に力を尽し人々の生活の基礎を築き、少彦名命と共に山野に薬草を求めて、病難に苦しむ人々を治療し又禁厭の法を定めて、民の災禍を防ぐ等、國土の経営と民生の安定を計り徳望高く人々は深くその恩恵を蒙って居りました。 國土献上と臣民の道 神代の昔、天孫降臨に先だって日本の國土に統治権を行使していた出雲族の代表者である大國主神に対し、高天原朝廷は武甕槌神を使として、"葦原中國(日本)は天照大御神の御子孫が統治すべき國であるから國土を献上せよ”。との天照大御神の仰せを伝えました。 大國主神は、御子事代主神と協議の結果謹んで仰せを承る旨を申し上げました。 当時人々は無智蒙昧にして利によって離合集散を繰返し、社会を支配するものは力のみであり、"力は正義なり"と信ぜられていた時代に、順逆の理に従い國土献上と云う具体的事実を以って、國民として在るべき姿を示された。即ち君臣の義茲に立ち、民族の道義が確立されたのであります。 正に歴史は一人の偉大なる人格によって作られる、神代の昔、一人の大國主神が坐さざれば平和のうちに國譲りが行われたかどうか、もしそうでなかったならば我が國も亦易世革命を事とする覇権國家として、相つぐ争乱に國民は塗炭の苦しみに泣く悲運に見舞われないと誰が保証できましょうか。 大國主大神の最も偉大なる神徳は世に云う福徳円満の神よりも慈悲仁愛の神徳よりも理非曲直を正し、民族の道義を確立された事にあると云うべきであります。 ◇御由緒 文徳実録の記録によれば齊衡3年常陸國鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里人の一人に神がかりして人々に教えられました。「我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この國を造り常世の國に去ったが、東國の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰って来た」と仰せられました。 当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、國内が乱れて居りました。大國主神はこうした混乱を鎮め平和な國土を築く為に降臨されたのです。 即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大國主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。朝廷は國司の上奏に基づき翌天安元年8月7日官社に列せられ、次いで10月15日には「大洗磯前薬師菩薩名神」の称号を賜りました。 当時國司の上奏から八力月で此の待遇に預ると云う事は破格の事でありまして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事が出来ます。 延喜の制当社を名神大社に列せられ東國の大杜として祀田千石を領し祠宇宏壮にして、遠近の信仰を集めて栄えた事は現存する元禄御造営以前の御本殿格子等からも察せられます。 残念な事に永禄中、小田氏治の兵乱に際しその難を蒙り、御社殿以下の諸建造物は悉く焼失し爾来一小社に辛うじて祭祀を続けて来ました。 水戸藩主徳川光圀公は由緒深き名社の荒癈を見るに忍びず、元禄3年御造営の工を起し、次いで綱條公に至り本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、名大社にふさわしき輪奐の美を整えました。 爾来歴代の水戸藩主は厚く当杜を尊崇し幕末に至りました。 現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲ぶに足る文化財として貴重なものです。 明治新政府が、神社制度を定めらるゝや、明治7年9月県社に指定せられ、明治18年4月國幣中社に列せられましたが大東亜戦争終熄を機に、神杜は末曾有の変革を余儀なくせられ、政教分離の名の下に宗教法人としてのみその存続を容認せられました。 神社が國家の宗祀たりし時代より激動の時代を経て現代に至るまで、当社は人々の厚き信仰に支えられて発展して参りました。そして悠久の昔より永遠の未来にわたり國家と共に栄えて行く事でしょう。 ◇年間の祭事 1月 歳旦祭(初日の出奉拝)、成人祭 2月 節分祭、紀元節祭、祈年祭 4月 太々神楽祭 6月 夏越大祓式 8月 八朔例大祭 10月 神嘗祭当日祭、献饌講々社祭 11月 明治節祭、有賀祭、七五三子供祭、新嘗祭 12月 天長節祭、除夜祭、古札焼納祭、年越大祓式 以上の如く幾多の祭典が行はれますが特色ある二・三の祭典につき記して見ます。 歳旦祭初日の出奉拝の儀 当杜の年末より年頭にかけての神事は往古は極めて厳重な斎戒の下に奉仕された。古記録によると毎年12月晦日夜より正月7日に至るまで、宮司は神殿に侍して外出を許さず、粢醴を供えて楽を奏さず、村人等は一切の音楽を禁ぜられて謹慎し、葬儀を行わず、寺院に於て鐘をつく事を禁ぜられ、厳重な斎戒を経て、7日の朝に至り始めて神楽を奏し天下太平五穀豊穣の祈祷を行い斎戒をとく、と云う年頭の祭祀は当時如何に厳重を極めたかを想像する事が出来ます。 此の様な精神は今も尚当地方の風習として残って居り、暮市(12月26日・此日神礼を受けて正月を迎える準備をする)より正月15日までは死者ありといえども喪を発せず、縁者知友といえども喪を弔う事をつゝしむ。故に正月近づきて病重き人あるときは"早く正月の餅をつく様に"と知らせる風習であります。 現去は歳旦祭を午前6時執行、終りて宮司以下神職は神磯に下り初日の出奉拝の式を行う。初日の出を拝さんと海岸に集る者数万。奉拝後当社に初詣りするを例として居ります。 八朔祭 8月25日 朔は「ついたち」にして八朔祭とは8月1日の祭と云ふ意味なり、古くは旧暦8月1日に行われたが近年8月25日を以って当社の例祭となし、八朔祭と称す。五穀豊穣と国民生活の安定を祈る祭儀なり、古くは鹿島神社の神職総代等矛・楯を奉じ騎馬を以って当社に参向し祭儀を奉仕せしが、中断して現在は行われず、大祭のみを執行す。 秋季神事祭11月11日 有賀祭とも云う。東茨城郡内原町の有賀神杜神職"神矛"を奉じ氏子総代以下供奉し法螺貝を吹き鳴らしつつ当社に参向します。当社禰宜正面鳥居にて迎えて本殿に"神矛〃を奉安し祭儀を厳修の後還御致します。幼児の虫切りに霊験著して云われ、当日早朝より境内は幼児を背にする人々の群で埋り、我が子の健全な成長を祈る人々は先を争って神矛を拝さんとして境内は殷賑を極めます。 当日参拝すれば無病長寿にして家門繁栄すると云われ沿道には二カ所の御仮屋を設けて駐輩し虫切りの神札を授くるを例とする。 ◇神磯 御祭神御出現の地を神磯と云う。毎年元旦神磯の日の出を拝さんとして未明より海岸に集る者数万、神磯の日の出を拝して後当社に参拝するを例とせり、大平洋万里の波頭岩を咬み、波の花散る壮観は比すべきものなし。徳川光圀公当社参拝の折、此の景観を詠み給える歌。 荒磯の岩にくだけて散る月を 一つになしてかへる波かな ◇大洗海洋博物館 大洗磯前神杜御鎮座1100年を記念し、昭和34年に設立せり。 青少年の海洋に関する智識の普及を目的として資料を陳列す。建物は木造モルタル平屋建、一部鉄骨三階建、屋上展望塔からは大平洋を一望に収め、沿岸には点々として操業中の漁船が見られます。 ○鎮座地 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890番地 ○御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 大己貴命は世にだいこく様とも云われ、慈悲深く、福徳を授ける神として尊崇され、少彦名命は医薬の祖神と仰がれ万民の病難を救う神として信仰され当社に祈願をこむれば一度は必ず御聞届け下さると云われています。 ○境内地34,524坪84昭和22年法律第53号により当初37,870坪余の譲与を受けたが、その後道路拡張等の用地としてやむなく公共団体に提供し、現在の坪数となる。 ○御社殿其の他建造物 御本殿 木造流れ造、茅葺屋根、奥行一間、間口一間 幣殿 木造、銅板葺、入母屋造、九坪 拝殿 木造入母屋向拝千鳥破風付、銅板葺、十七坪四合 中門 木造流れ破風造、銅板葺、壱坪五合 随神門 木造、切妻流れ、銅板葺、八坪五合 斉館木造、平屋建、銅板葺、九十二坪余 社務所木造、平屋建、銅板葺、七十九坪余 由緒書 |
大洗磯前神社 御鎮座 当神社の御創立は文徳実録の記す処によれば、斉衡3年(西暦856年)といわれて居ります。 文徳実録斉衡3年12月戊戌(29日)の條に、『常陸国上言鹿島郡大洗磯前有神新降云々』、とその状を事細かに記してあります。 全国に名社、大社といわれる神社が数多くありますが、当社の様に御創立の年代の明確な御社は稀であります。 御祭神と御神徳 御祭神は文徳実録に『大奈母知、少比古奈命』とありまして、大奈母知は即ち大国主命にして、日本書紀には素戔鳴尊の五世の孫と云い、古事記にはその御子神としてあります。 大国主命、大物主命、顕国玉神、葦原醜男命、八代戈神など数多の御名があり常に少彦名命と二柱相並び御出現になり、御神徳を顕されて居ります。 少彦名命は高皇産霊神の御子神と記されてあります。 大国主命は国土を開拓し、殖産興業に力を尽くし人々の生活の基礎を築き、少彦名命と共に山野に薬草を求めて、病難に苦しむ人々を治療し又禁厭(まじない)の法を定めて、民の災禍を防ぐ等、国土の経営と民生の安定を計り、徳望高く人々は深くその恩恵を蒙って居りました。 御由緒 文徳実録の記録によれば、斉衡3年常陸国鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里人の一人に神がかりして人々に教えられました。 『我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰って来た』と仰せられました。 当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、国内が乱れて居りました。大国主神はこうした混乱を鎮め平和な国土を築く為に降臨されたのです。 即ち、大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大国主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。 朝廷は国司の上奏に基づき翌天安元年8月7日官社に列せられ、次いで10月15日には『大洗磯前薬師菩薩名神』の称号を賜りました。 当時国司の上奏から八ヶ月で此の待遇に預かるという事は破格のことでありまして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事ができます。 延喜の制当社を明神大社に列せられ東国の大社として祀田千石を領し、祠宇宏壮にして、遠近の信仰を集めて栄えた事は現存する元禄御造営以前の御本殿格子等からも察せられます。 残念なことに永禄中、小田氏治の兵乱に際し、その難を蒙り、御社殿以下の諸建築物は悉く焼失し爾来一小社に辛うじて祭祀を続けて来ました。 水戸藩主徳川光圀公は由緒正しき名社の荒廃を見るに忍びず、元禄3年御造営の工を起こし、次いで綱條公に至り、本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、名大社にふさわしき輪奐の美を整えました。 爾来歴代の水戸藩主は厚く当社を尊崇し、幕末に至りました。 現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲ぶに足る文化財として貴重なものです。 明治新政府が、神社制度を定めらるゝや、明治7年9月県社に指定せられ、明治18年4月国幣中社に列せられましたが大東亜戦争終息を機に神社は未曾有の変革を余儀なくせられ、政教分離の名の下に宗教法人としてのみその存続を容認せられました。 神社が国家の宗祀たりし時代より激動の時代を経て現代に至るまで、当社は人々の厚き信仰に支えられて発展して参りました。そして悠久の昔より永遠の未来にわたり国家と共に栄えて行くことでしょう 社頭掲示板 |