阿蘇神社
あそじんじゃ


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阿蘇神社

御主神健磐龍命は一代神武天皇の勅命に依って九州鎮護の大任に当られた。後に命は、紀元76年春2月阿蘇に下られ草部吉見神の娘阿蘇都比当スを娶り、矢を放ち居を定められ、四方統治の大計を樹て阿蘇の国土開発の大業を始められた。当時大湖水であった阿蘇火口湖を立野火口瀬より疎通し阿蘇谷の内に美田を開拓せられ、住民に農耕の道を教えられた(7月28日の御田祭神事の起り)。
また歳ノ神を祭り(3月の田作神事の起り)、更に霜神を祭り(霜宮火たき神事の起り)、風神を鎮め給う(風宮社の風祭の起り)等国利民福の為に尽くされた。
業成っては阿蘇山麓に大巻狩を行い鳥獣の害を除き(9月25日田実神事に執行の流鏑馬の起り)※これは下野の狩りとも云い中昔源頼朝が富士の牧狩を行なうに先ち使者を遣わし、この狩りの古実を学ばせたと云う。この巻狩りは天正以後廃絶した。祀典の範を定め庶民のために其の憂苦を除き給いて吾が大阿蘇開発の先駆者として不滅の功績を遺された。是に土地開け住民この地に安住して今に至るまでその恩沢を享け皆夫々生業を営めるは命の偉大なる御事蹟に外ならず、洵に命の大業は吾が日本建国史に不滅の光彩を放つものと云うべきであり現今国土開拓の神、農耕道の祖神として汎く世人の崇敬をうけ11世紀以降肥後一の宮と仰がれ肥後の国熊本の総鎮守神として尊崇をうけております。国土の開拓とはただ産業の振興のみならず吾々人間生活に関わりある交通・文化・学芸・結婚・医薬・厄除等の生活守護の神として限りない御神徳をいただいています。
第7代孝霊天皇の9年6月御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始めで平成3年より2273年前であり、第12代景行天皇の18年惟人命に勅して特に崇敬を尽くされ永く祭祀を廃せざる様命ぜられた。これが阿蘇大宮司職の始であって現在に至まで連綿91代世々祀職を継承されており皇室に次ぐ日本最古の家柄である。
◎皇室 国家の尊崇第53代淳和天皇(弘仁14年)、従四位下勲五等に叙し健磐龍命に封二千戸を充て奉り順年昇位し貞観元年正二位、次いで延喜の制明神大社に列し名神祭に預かり、寛仁元年一代一度の大奉幣に預かる等朝廷の御尊崇極めて篤く肥後の国の一の宮とせられた。
爾来禁裏将軍家を始め武家武将の崇敬を享け、阿蘇氏の武門としての勢力は肥後一円に及び厖大な社領を有していたが、秀吉九州征伐の時阿蘇神領を没収し改めて天正15年三百町の地を寄せられ、ここに往時の勢力を失墜するに至った。後に加藤清正、細川氏藩主たるに及んで畧代社領の寄進、社殿の造営等を為し崇敬の誠を表された。明治4年5月国幣中社、明治23年4月官幣中社に、大正3年1月官幣大社に列せられた。
◎社殿 社殿の配置結構は皇居の制に準い、旦つ33年毎に肥後の棟別に賦課して改築せらるゝを例としていた。
神殿は最も古くは十二殿、下っては六殿、更に三殿と時代と倶に変遷しているが、現今の神殿は天保6年斧初め、同11年一の本殿、同12年二の本殿、同13年別殿、嘉永2年神幸・還御両門及び樓門と竣工したが何れも藩主細川氏の建立によるものである。
拝殿、祝詞殿、翼廊、神饌所、神輿庫等は昭和16年以降の政府事業及び造営奉賛会の造営計画により昭和23年に竣工した。
尚、三神殿、拝殿、翼廊、神饌所、神輿庫及び樓門、神幸・還御両門の御屋根銅版葺替工事、並びに廻廊、透塀の復元工事を昭和49年に完工した。
本殿、樓門等の構造は特例の阿蘇式であって、一・二の本殿は千鳥破風の曲線美妻は入母屋、千木外そぎ八本の鰹木を据え何れも欅材の白木造り樓門は二層樓の山門式、同時代最優秀の彫刻美を誇っている。
◎阿蘇大神神幸分布 阿蘇神社及び阿蘇大宮司家は往古より肥後国の精神的中心であったが、同時に肥後国及び豊後国の一部の事実上の支配者であった。

由緒書



【由緒】

阿蘇神社 あそじんじや 熊本県阿蘇郡一の宮町宮地。旧官幣大社(現、別表神社)。主祭神の健磐竜命(神武天皇の御孫で阿蘇都彦命ともいう)を一宮に奉斎、二宮に一宮の妃神の阿蘇都比当ス、三宮に二宮の父神の国竜神、四宮に三宮の妃神の比東芬q神、五宮に一宮の御孫の彦御子神、六宮に五宮の妃神の若比盗_、七宮に三宮の御子の新彦神、八宮に七宮の女神の新比盗_、九宮に七宮の御子の若彦神、十宮に七宮の妃神の弥比盗_、十一宮に一宮の御子の国造速瓶玉命、十二宮に一宮の御叔父神の金凝神を祀っている。そのほかに、諸神として、延喜式内の大小の神祇3132座の神々を併せ祀っている。以上の一二宮の神々を総称し、阿蘇十二明神ともいう。『延喜式神名帳』には、一宮の健磐竜命を奉斎する神社として、健磐竜命神社の名が見えている。この神は、国土開拓の神で、淳和天皇弘仁14年(823)10月、炎旱の時、祈ると雨を降らし、国を護り民を救う神験があり、封二〇〇〇戸が充てられたという。仁明天皇承和7年(840)4月に従四位上、同7月に従三位、文徳天皇嘉祥3年(850)10月に正三位、仁寿元年(851)10月に従二位、清和天皇貞観元年(859)正月に正二位が授けられた。同8年(866)神紙官の奏言により国司に勅して、奉幣があり、延喜の制で、名神大社に列し、寛仁元年(1017)には一代一度の大奉幣に預り、朝廷の篤い尊崇が寄せられた。また肥後国一の宮として衆庶の信仰を集めた。
以後、後醍醐天皇元弘3年(1331)、肥後の甲佐、健軍、郡浦等を社領とするなど、広大な社領を有していたが、秀吉九州征伐の時、没収され、あらためて天正15年(1587)に三〇〇町の地が寄せられたものの、往時の勢力はここに失墜した。後に加藤清正が藩主として入部、ついで細川氏が藩主となるに、社領の寄進や社殿の造営が行われ、武門の崇敬が寄せられた。また二宮に奉斎されている阿蘇都比当スは、『延喜式神名帳』に阿蘇比盗_社として見えている。
この神は、文徳天皇仁寿2年(852)正月に従四位下、清和天皇貞観元年(859)正月に従四位上、同5月官社に列し、同10年(868)12月、正四位下、同15年(873)4月正四位上、同17年(875)12月従三位が授けられ、延喜の制、小社に列した。十一宮に奉斎されている国造速瓶玉命は、『延喜式神名帳』に国造神社として見えている。仁明天皇の承和14年(847)官社に列し、延喜の制、小社となっている。
阿蘇十二明神のうちでも、以上とり挙げた健磐竜命、阿蘇都比比当ス、国造速瓶玉命を、特に阿蘇の三社という。阿蘇神社は、明治4年(1871)5月14日、国幣中社に列し、同23年4月7日、官幣中社、大正3年(1914)1月4日、官幣大社に昇格した。
例祭7月28日。この時、御田植祭(御田植神事式)が行われる。四基の神輿の渡御があり、田遊び様の芸能が行われ、また田植式に際しての歌や御田植歌には、古典的なものが多く芸能史や国文学史上も貴重なものとされ、国の無形民俗文化財として、記録作成等の措置を講ずべきものとされ、選択措置を受けている。そのほかに田実神事(9月25日)や田作祭、阿蘇古代神楽等が行われる。

神社辞典






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