宗像大社(辺津宮)
むなかたたいしゃ


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【「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群】

「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群(「かみやどるしま」むなかた・おきのしまかんれんいさんぐん)は、
4世紀から9世紀の間の東アジアにおける諸国家間の重要な交流を示していること
古代から現在まで発展し継承されてきた神聖な島を崇拝する文化的伝統を伝承する類い希な例であること
などが評価され、2017年、文化遺産に登録された。
登録資産は、沖ノ島の3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)を含めた8資産。 3つの岩礁は、沖ノ島の南東約1km程にあり、沖ノ島へ渡島する際の鳥居の役割を果たしている。
1.沖ノ島(おきのしま)
2.小屋島(こやじま)
3.御門柱(みかどばしら)
4.天狗岩(てんぐいわ)
5.宗像大社沖津宮遥拝所(むなかたたいしゃおきつみやようはいじょ)
6.宗像大社中津宮(むなかたたいしゃなかつみや)
7.宗像大社辺津宮(むなかたたいしゃへつみや)
8.新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)
登録地域の面積は、構成資産 98.9ヘクタール、それを保護する緩衝地帯は島全域で 79,363.5ヘクタール。
国内最大級の祭祀遺跡である沖ノ島や古代有力氏族の古墳群
九州北部に位置する宗像・沖ノ島地域には、国内最大級の祭祀遺跡である沖ノ島やその祭祀に関わった古代有力氏族の古墳群が保存されている。
宗像・沖ノ島と関連遺産群は、4世紀後半から9世紀末までの約500年間、航海の安全などを願い多くの装飾品などを用いた祭祀が行われていたことや、それが日本固有の信仰として今に伝えられていること、祭祀権を掌握した古代有力氏族に関連する遺跡群が遺され、現在でもその信仰が継続されていることが評価され、2009年に暫定リストに記載された。
沖ノ島(おきのしま)
4世紀後半から約500年間にわたり、ヤマト王権による国家的な祭祀が執り行われた遺跡がある。出土した約8万点の遺物は、全て国宝に指定され「海の正倉院」と呼ばれている。島全体が信仰の対象だった沖ノ島は、「神宿る島」として厳しく入島を制限するなど、自然崇拝に基づく古代祭祀の変遷を示す遺跡がほぼ手つかずの状態で遺されている。
7世紀後半には、沖ノ島で行われていた古代祭祀が大島や本土でも行われるようになり、海によって結ばれる沖津宮、中津宮、辺津宮という広大な空間で宗像三女神(伊勢神宮・天照大神の子神として誕生した三柱の女神)を祀る宗像大社が成立し、現在まで受け継がれている。
?沖津宮(おきつみや)
辺津宮の北方海上約60km先の沖ノ島にあり、祭神は宗像三女神の長女である田心姫神(たごりひめのかみ)。
?中津宮(なかつみや)
辺津宮の北方海上11km先の大島にあり、祭神は宗像三女神の次女である湍津姫神(たぎつひめのかみ)。
?辺津宮(へつみや)
本土にあり、祭神は宗像三女神の末女である市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)。
新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)
沖ノ島祭祀を担った古代豪族である宗像氏が、5世紀前半から6世紀後半にかけて築かれた古墳群。海をのぞむ台地上に、古墳41基(前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基)が良好な状態で現存している。 台地上からは、大島、沖ノ島、朝鮮半島へと続く海を一望することができる。
該当する登録基準
ii.建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
iii.現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも稀有な存在)である。

日本の世界遺産



【由緒】

宗像大社 むなかたたいしや 福岡県宗像郡玄海町
田島に鎮座の辺津宮、大島に鎮座の中津宮、沖ノ島に鎮座の沖津宮の三宮を総称して、宗像大社という。旧官幣大社。田心姫神を沖津宮に、湍津姫神を中津宮、市杵島姫神を辺津宮に奉斎している。この三女神は、天照大神と素盞鳴尊が誓約をした際に生まれた神とされ、宗像三女神とも宗像大神とも称されている。宗像三女神は、天照大神の神勅により、海北の道中で、道主貴として天孫を助け、天孫によって祭祀を受けるため降った神々と伝えている。当社の創建年代はつまびらがでないが、「古事記」に「胸形の奥津宮」「胸形の中津宮」「胸形の辺津宮」と見えており、更に「此の三柱の神は胸形君等が以いつく三前の大神なり」とあって、宗像三宮の存在が確認される。従って創建年代は、いうまでもなくそれ以前ということになるが、沖ノ島の例を見ると、昭和29年より数回にわたり学術調査が行われ、その結果、四、五世紀から九世紀末までの祭祀神宝五万余点(これらの大部分は国宝や重文に指定されている)が発見され、これによって、創祀・創建の古さが推されよう。また遣唐使の廃止(894)と沖ノ島の祭祀神宝の最終期の年代が、ほぼ一致することは、同島において国家による祭祀が行われていたことを意味し、宗像神が、鎮護国家及び大陸交流における海路の安全をつかさどる神々として、朝野を挙げての篤い崇敬を受けてぎたことを物語っている。大同元年(806)、神封74戸が寄せられ、のち宗像郡は、神郡に定められた。
仁明天皇の承和7年(840)に神階従五位下が授けられ、以後貞観元年(859)には、正二位、天慶年中に至り、正一位勲一等に昇った。延喜の制で、三座並びに名神大社に列した。平安時代中期以降、律令制が衰微するに従い、社領の荘園は増え、鎌倉時代には、筑前・肥前・壱岐.・豊前にわたり、六〇数ヶ所の荘園を領有していた。元寇に際しては、大宮司以下一丸となって敵国降伏を祈願するとともに沿岸防備のため活動し、よって肥前神崎荘を恩賞として寄せられた。また鎌倉御家人の列に加わった宗像大宮司は、神主として、武家として活躍するとともに、朝鮮との貿易にも進出した。
弘治3年(1557)辺津宮社殿が焼失、天正6年(1578)大友氏貞により再建された。
同18年筑前の領主に任じた小早川隆景により拝殿が造営された。これが現在の拝殿で、本殿ともに重要文化財に指定されている。明治4年(1871)、国幣中社に列し、同18年官幣中社、同34年官幣大社に昇格した。現在、10月1日〜3日まで秋季大祭が行われる。古くは放生会といい、国家の平穏、五穀豊饒を祈る祭で、宗像七浦の漁船総出による沖津宮・中津宮の神迎えが行われ、木殿では数々の神賑行事が行われる。また12月15日に古式祭、陰暦7月7日の夕刻、大島の中津宮の末社で七夕まつり、5月27日には、沖津宮現地大祭、その他年間を通じ数多くの神事が行われている(現、別表神社)。

神社辞典






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