金峯神社
きんぷじんじゃ


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【文化財】

国宝 金銅藤原道長経筒 平安 1007
1952年(昭和27年)11月22日、国宝(工芸品)に指定。金峯山経塚出土品のひとつで、表面に刻された銘文中に「寛弘四年八月十一日」の年記がある。高さ35.8cm、口径15.7cm。藤原道長が寛弘4年(1007年)に大和の金峯山経塚(奈良県吉野郡天川村)に埋納した厚手で大ぶりな円筒形経筒である(経塚とは、この世に弥勒仏が出現するとされる遠い未来まで経典を保存するために経箱や経筒を埋め、盛土したもの)。鍛銅製で鍍金が施され、器表に24行で510文字の銘文が刻まれており、埋経の趣旨と経緯が記されている。年代の明らかな経塚遺物としては最古のものである。銘文の内容は道長の日記『御堂関白記』の記載とも符合し、歴史的にも重要なものである。京都国立博物館に寄託。
重要文化財 大和国金峯山経塚出土品 1953年(昭和28年)3月31日、重要文化財(考古資料)に指定。金峯神社所蔵
鍍銀経箱 金銅経箱台残闕 紺紙金字法華経 巻一、四、五、六、七残闕 紺紙金字無量義経残闕 紺紙金字弥勒上生経残闕 紺紙金字弥勒下生経残闕 紺紙金字法華経 巻三、四、六、七残闕 紺紙金字無量義経 鉄鐔 卒塔婆透し


金峯神社

きんぷじんじや 奈良県吉野郡吉野町吉野山小字愛染。旧郷社。鎌倉時代金精大明神、あるいは金生大明神、金山明神とも称し、金峯の地主神、黄金保護神と考えられていた。『大和志』に「土人云吉野山地主神而金御嵩之号起於此神社」とある。祭神は、かつて金山彦命・大山祇神。大己貴命・少彦名命。また安閑天皇とも考えられた時代があったが、現在金山毘古神とされる。『和州旧跡幽考』に「此山の金をまもらせ給う神なりといへり」とみえる。五来重氏によれば、金の御嶽の神奈備信仰に含まれる三つの面を、山の神の信仰が金精明神を祀るこの金峯神社として山頂に、水神信仰が水分神を祀る水分神社として中腹に、農耕の山神信仰が大山祇を祀る吉野山口神社(勝手神社)として山麓に祀られたという。そして、山神の水神的性格から祈雨の信仰を強め、平安末には『梁塵秘抄』の「金の御獄にある巫女の打つ鼓」とあるにより女性の信仰にも寛容であったと思われる。もともと吉野は山人の居住するところと考えられ、宮中の祭祀にも特異な姿で芸能を奉ったが、この山人は、また山伏の発生基盤ともなり、彼らは金山発見の能力を有したとみえて、彼らの行く修験の名山に鉱山のあることぼ興味深い。道教の神仙術を導入して、仙薬の調製にも長じ、また日本独自の金剛蔵王像は、彼らの発想であり、金峯山は諸国の修験名山に蔵王権現をもたらした盟主的な存在でもある。仁寿3年(853)6月名神に預かり、斉衡元年(854)6月、相嘗・月次。神今食祭に預かり、『延喜式神名帳』には加えて新嘗に預かっている。
貞観元年(859)正三位、延元2年(1337)正二位に叙せられる。貞観元年(859)8月3日備後権介藤原朝臣山蔭、陰陽博士滋岳朝臣川人等は宣旨を享けて蜘蝗を払う祭りを修し、同5年祭事を修めて虫害を払った。『明月記』天福元年(1233)に「金峯山寺言上、勝手若宮宝殿内陣震動」などの紀事があり、中世には神人が神興を担いで京洛に強訴したこともあった。例祭10月15日。宝物に鉄鐔卒塔婆透し(付蒔絵箱)、金銅藤原道長経筒。大和国金峯山経塚出土品が重文指定。

神社辞典



郷社 金峰神社

祭神 金山毘古命
創立年代詳ならす、金精大明神といひ(大和志)、又蔵王権現と称す(太平記和爾雅)吉野山地主神なり(大和志)文徳天皇仁壽2年11月辛丑特に從三位を授け、同3年6月己巳名神に預り、斉衡元年6月甲寅朔相嘗月次神今食祭に預り(文徳実録)清和天皇貞観元年正月甲申、從三位勲八等より正三位を授けられ、同年8月從五位下行備後権介藤原朝臣山蔭、外從五位下行陰陽博士滋缶朝臣人等を遣はし、■■を換ふ祭を修せしめ、又同5年2月祭事を修して虫害を援はしむ、(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年、月次、相嘗、新嘗の案上官幣に預り(延喜式)堀河天皇寛治6年7月癸未、上皇及中宮御精進ありて本社に詣で給ふ(百練鈔中右記)中世以來御嶽精進を重んじ、修験道の行場として此社に詣つるもの多し(河海抄■■鈔)後金峰山寺盛なるに及んで、僧徒此神を称して藏王権現といひ、子守勝手神人等も、亦屡神輿を昇きて事を京帥に訴ふ(一代要記、皇帝記鈔、百練鈔、太平記)後醍醐天皇元弘3年大塔宮護良親王蔵王堂に拠り城と為し、賊の襲來に備へ給ひしが、賊將二階堂出羽入道道温大兵を以て來り犯し、城遂に陥りし事太平記に詳なり、蓋し蔵王堂は当社なり、後村上天皇正平3年正月辛亥、高師直等吉野皇居を襲ひし時、神殿及七十二間の廻廊、三十八所の神樂屋、宝蔵、竃殿等悉く火に罹りて焼亡す(蘭太暦、太平記)後世に至り再興し、旧観に復する能はすと雖も、尚広壮の祠宇たり(地名辞書)、明治に至り郷社に列せらる、
社殿は本澱、拝殿、神饌所、社務所、及蹴抜塔等の建物あり、伝へ云ふ、蹴抜塔は飛騨内匠の経営する所なりと。
境内1320坪(官有地第一種)、吉野村の東南吉野山の高蜂金峰山の下に位し、四面山岳重畳し、老杉古樹鬱蒼として繁茂し、吉野の名区たり、萬葉集に「三吉野の、御金嵩にひまなくぞ、雨はふるとふ時じくそ、雪はふると云々」と詠み、其名最も著はる、

明治神社誌料



金峯神社 名神大月次相嘗新嘗

金峯は加禰乃美多介と訓べし○祭神金山彦命歟○吉野山村に在す、今金精明神と称す、土人云、吉野山地主神、而金御嵩之號、起於此神社(大和志)○式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、金峯社一座、』同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和國金峯神社一座、
神社考云、世伝金峯山権現者、勾大兄広国押武金日天皇也、是即安閑天皇也、(啓蒙同じ)比保古、此説に從ふ非也、」拾芥抄下に、本朝五奇異、金峯山、大和國慈尊出世、其土石可為能金」宇治拾遺に(七條に神うちあり、みたけまうてしけリ、まいりてかなくつれをゆいてみれば、まことの金の精にてありけり、中略、かぞへんとてみれは、ちいさき文字にて金御嶽云々)
連胤按るに、もとより此山は、黄金の精の固まれる所なれば、金山彦命の坐ますにて、世俗金精大明神と称し奉るも、甚いはれあるべし、何の由縁にて、安閑天皇と云ふにや、こは例の浮屠氏の附曾にして、其原は元享釈書の妄説也けり、
神位 名神 相嘗 月次 神今食
文徳実録、仁寿2年11月辛丑、特加大和国金峯神從三位、同3年6月己巳、以大和国金峯神、預於名神、齊衡元年6月甲寅朔、以大和國金峯神、預於相嘗月次並神今食祭也、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和国從三位勲八等金峯神正三位、

神社覈録






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