曽許乃御立神社
そこのみたちじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】曽許乃御立神社 遠江国 敷智郡鎮座
   【延喜式神名帳】賀久留神社 遠江国 敷智郡鎮座

   【現社名】曽許乃御立神社
   【住所】静岡県浜松市西区呉松町 3586
       北緯34度46分2秒,東経137度38分21秒
   【祭神】武甕槌神
   【例祭】10月8日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創立不詳
       貞観4年(862)従五位下『三代実録』
       天正19年の鰐口に「曾許御立」と彫つてある
       慶安元年(1648)鹿島明神領として十石の神領
       享保7年(1722)京都吉田家の宗源宣旨によつて正一位に叙せられた
       明治2年神祇官の許可を得て曽許乃御立神社の旧号に復す
       同5年郷社
       同40年神饌幣帛料供進社
       昭和5年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「鹿島明神社」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・社務所・神樂堂・宝庫・御輿堂

   【境内社】六社神社・津島神社・天満宮

舘山寺総合公園北東に鎮座する。
社名は船のことであろうという説と、舘山寺があり、そこを舘山(たてやま)と呼んでいることから御舘神社の跡とする説がある。
天正19年(1591)までは曽許乃御立神社と称していたがその後鹿島明神社と称するようになった。
当社を賀久留神社に比定する説がある。


曽許乃御立神社

創建神護景雲元年6月21日武甕槌命常陸国を出て遠江国を過時、根本山に憩賜ぶ時の人瞻仰慕いて止まず、社殿を建立す。神に従って来た六神も呉松・神明、伊佐地・熊野、和地・琴宮、佐浜・貴船、平松・八幡、和田・西宮に祀る。
 長間曽許乃御立神社と呼ばれたが、享保7年鹿島大明神と称したが、明治2年旧号に復した。
 徳川家朱印高10石、大澤右京大夫玄米33俵、今川家130石賜りし古社なり。
 明治6年郷社、昭和5年縣社に列す。

社頭掲示板



曽許乃御立神社

當社創建について三つの社傳がある。一つは神護景雲元年(767)6月21日、武甕槌命が常陸國から京都へ行く途中、根本山(當社の北東約1.5Kmの地で、神輿台石があるといふ)に休息した時、村人が仰慕して社殿を建立したといふものである(『鹿島神社明細書』)。二つめは、常陸國の鹿島大明神が寛平元年(889)9月9日に呉松山に降臨したといふものである(『鹿島大明神縁起』)。三つめは、鹿島大明神が現在の協和町西村に船で到着して現在地に移つたといふものである(同書)。しかしながらこの三つの説はいつれも鹿島明神社の創建を物語るものであつて、曾許乃御立神社のことではない。曾許乃御立神社がのちに鹿島明神社と社名を変へてから生れてきた創建説話である。

式内社調査報告



曽許乃御立神社

曽許乃御立神社 (通称「お鹿島さま」)御由緒
御祭神 武甕槌命
例祭 九月最終土日曜日(かつては旧暦九月八日九日)
由緒
社伝に曰く、神護慶雲元年(767年)、常陸の国(現在の茨城県)に御鎮座されます鹿島神宮の大神様が、大和国御蓋山(現在の奈良県春日大社)に向かわれる御神幸の途次、当地の根本山にて御休憩された際に近郷の住民がその御神徳を慕って社殿を建設し、御分霊をいただきお祀りしたことが創建の緑起とされ、延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳に記載のある古社(式内社)であります。
武甕槌命は「国譲り」の成就に貢献も高く日本の建国に御尽力をされ、「神武東征」の際には神倭伊波礼昆古尊(後の神武天皇)の軍勢が荒ぶる神の妨害により苦戦をしいられた際、高天原より一降りの太刀を投げ入れてその窮地を救った事から『災除道開』の神として崇敬を集めています。
例祭は、矢砥神事にて研ぎ出した矢を境内の四方に射ることで災いや穢れを除ける四方射の儀に始まり、郷内の女児によるお神楽が両日に渡って奉納され、本祭当日には社名旗、猿田彦大神を先頭に種々の宝物を捧持した行列を整え船形神輿に大神様をお遷しして、御社殿正面に位置する御旅所を目指して参進する渡御が斎行されます。

社頭掲示板



曾許乃御立神社

曾許乃は假字也、御立は美多知と訓べし、○祭神在所等詳ならず
伴信友云、國常立尊の一名國底立尊といへるにかよびて聞ゆ、伊豆國田方郡阿米都瀬多知命神社といふもあり」國人石塚瀧丸云、呉松村ノ鹿鳥大明神ト、未詳、(参考同)。

神社覈録



郷社 曽許乃御立神社

祭神 武甕槌命 社伝に云く、神護景雲元年6月21日、武雷命、常陸国を出でて、遠江國を過る時、本村根本山に憩ひ賜ふ、(今尚神輿台石あり、経尋許)時人膽仰巳まず、社殿を建立して拳祀す、又別に六社を祭りて当社の所属とす、即ち邑の神明、伊左地の熊野、和地の琴宮、左濱の貴布禰、平松の八幡、和田の西宮是なりとす、云々、中古以来鹿島神社と称せしが、当社は式内社曾許乃御立神社なりとの故を以て、明治13年7月今の号に改称す、当社が式の曾詐乃御立なることは、風土記伝以来、學者皆之を賛す、殊に特選神名牒の如きは、一説に、敷知郡堀江村太刀山愛宕神社を式の曾許の御立にあてたるを、「太刀山の御立と云音に近通ふを以てのことならん」と一笑に附し、古来当社には船形祭のある等より考証し「上に考証せんが如く明徽あれば、彼一説には從ひ難くなん」といへり、この御脛形祭のことは、風土記伝に見えたり、
「祭日9月9日、諸村奉御造酒御多賀禰(以水練米粉村民曰於多賀禰)先祭就矢研石研鏃、祭日行御船形于行在所、有神楽其歌曰、常代乃千代乃御神楽奉留御請巳之米勢玉乃御内鹿島船伊止布那漕曾巳賀受共漕與利早志神乃誓爾、
曾許乃御立神社は「貞観4年5月戊辰朔、遠江國正六位上曾許乃御立神授従五位下」と三代實録等に見え、延喜の制小社に列せらる、古来、内山、西村、神田、平松、大山、谷上、伊佐地。和田、堀江、細田、白須、和地、佐浜、呉松、村櫛の十五ケ村の奉齋の神にして、朱印高十石を有したりしが、明治6年3月郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿、其他庁屋、神輿休所、社務所等を具備し、境内2267坪(官有地第一種)を有せり。

明治神社誌料



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