集落の隅に鎮座する。山裾にあり、120mの杉の参道がある。境内叢林深い。 |
高杜神社 高杜神社の祭神は建御名方命と高毛利の神である。五穀豊穣・家内安全を始め、風を鎮め、火を守る等の御利益もあります。 明治40年代に村内十余の神々も合祀しされ学問の神様(菅原道真)も祀ってあります。 尚この神社は高井の名工、亀原和太四郎の作(天明二年)で特色ある建物、彫刻であります。 参道の樹齢三百年と言われる杉並木は善光寺平随一と言われている。 例大祭 10月16日・17日 御柱祭 寅と申の年64月末ごろ 風鎮祭 8月25日 社頭掲示板 |
高杜神社 高山村指定有形文化財 高杜神杜本殿及び本杜 平成12年3月1日指定 高杜神社本殿は、間ロが九尺(2.7m)の二間社流造りで、嘉永元年(1848)当所の宮大工亀原和太四郎嘉重の作によるものです。 社殿の特徴を見ると、正面の扉を四枚一連の両折り戸としていることや、向拝の木鼻を振り向きの龍としている点が独創的です。また、その他の彫刻も和太四郎渾身の切れを見せ、見事な作品に仕上がっています。 本社は、間口二四尺(7.2m)・入母屋造り・桟瓦葺きの建物で、本殿上屋部分とは棟を直行させた撞木造りとなっています。天明2年(1782)の再建で、本殿とは作風が異なることから、亀原武平太嘉貞の作と推定されます 六年に一度、寅と申の年に行われる御柱祭は、北信地方でも有名な祭りとなっています。 平成12年10月設置 高山村教育委員会 社頭掲示板 |
高杜神社本殿及び本社 高杜神社本殿は、軒破風付きの建物で上屋の中に建つ。建築年代は棟札から嘉永元年とわかる。大工棟梁は当初の亀原和太四郎義重。 彫刻をみると、向拝木葉鼻は振向きの龍、向拝紅梁の中央に波、亀、軒唐破風内部に麒麟、兎の毛通しに鳳凰、脇障子は松・鶴、牡丹・唐獅子となっている。社殿の特徴は、正面の扉を両開きの扉にしないで、4枚一連の両折り戸としていることや向拝木鼻を振向きの龍としている点も独創的である。 本社は入母屋造り、浅瓦葺きの建物で1間の向拝を付けている。妻入りなので本殿上屋部分とは棟を直行させて橦木造りとなっている。天明2年の再建とみられ、時代の特色をよく示している建造物といえる。いずれも建築物として意匠的に優秀であり、文化財としての価値が高い。 http://www.vill.takayama.nagano.jp/gyosei6-kyoiku-3bunkazai.htm |
社号争い 中世に武士が勢力を持つと延喜式の神社制度は崩れてしまいましたが、江戸の中期以降になって国学が盛んになるにつれ、日本固有の神道が見直され、旧式内社だと称する神社があちこちに出てきました。 神名帳に記載されている社名に対して複数の神社が式内社を争う場合があり、高杜神社も高井野村と赤岩村(中野市)とで争われました。 寛延3年(1750年)、神社界の宗家・吉田家が全国の神社改めを行い、高井野村は吉田家に社号を申請し、「式内社高杜神社」の社号を認可されています。 文政年間に、京都吉田家が延喜式内の神社取調べを行い、高杜神社の勝山神主が文政7年(1824年)に社号出願(再確認)をしています。 この年、同じ高井郡赤岩村の高杜神社が社号の認定を出願しましたが、こちらは認められませんでした。 赤岩村はこれを不満とし、再度社号授与を願い出ましたが、結局、翌年、裏山の高社山の「高社」を加えて「高社高杜神社」として認可されています。 安政2年(1855年)、赤岩村の高社高杜神社の神祭りの際に、氏子が寄進した「高杜神社」という幟旗を立ててしまいました。 安政3年(1856年)には京都吉田家から赤岩村へ授与した社号に違反するから至急始末書を提出するよう通達が出され、翌年には、高井・水内・更級の神主が赤岩村の社号違反を訴え出た結果、 赤岩村は授与された社号をかたく守り、幟旗は作り変えることになりました。 慶応4年(1868年)、維新政府は「神仏分離令」を公布し、明治4年(1871年)に社格制度を制定しました。 神社の格を大きく官社と諸社に分類し、官社には官幣の大中小社、国幣の大中小社があり、また諸社には府社、県社および郷社が指定されています。 高杜神社は明治6年(1873年)に高井村の郷社に指定されましたが、赤岩の高社高杜神社は格上の県社に指定されています。 これは、高杜神社の宮元が、明治3年(1870年)12月に発生した中野騒動の発生地であったことが影響したものと考えられています。 大正8年(1919年)に県社昇格願いを県に提出したが認められませんでした。 久保の家の爺ちゃんと婆ちゃんのくだもの畑 |