式内石楯尾神社が相殿八幡大神、春日大神とともに御同座である。式内石楯尾神社は当宮の御鎮座以前に、現在の当宮境内地に勧請された。 この地に石楯尾神社が創建され官社に列したが、その後、境内に神明宮も奉杞され、この地域が大庭御厨となつてからは石楯尾社が末社のようになつてしまつたのではないかとも思われる。 本殿向かって左手に末社石楯尾神社の社殿がある。 |
由緒 相模国土甘郷総社皇大神宮由緒 第53代淳和天皇の御代天長9年(832年)、御社殿造立の記録があり、勧請の時期は更にどれほどさかのぼるべきか詳らかではないが、創建の極めて古いことは明らかである。天喜3年(1055年)、元亨2年(1322年)、天正13年(1585年)、昭和60年(1985年)と造営を重ねられている。 御祭神は天照皇大神、相殿に天手力男命、天太玉命、天児屋根命、天宇受売命、石凝刀売命を奉斎している。 第60代醍醐天皇の御代、延喜式が選進されたころに、奈良時代以来現在の藤沢市の内、藤沢、西富、大鋸、鵠沼、辻堂などの各地を合わせてとなえられていた相模国土甘郷(とかみごう)の総社に列せられ、この時以来、相模国土甘郷総社神明宮と称し、あまねく人士の尊崇を集めることとなった。 また、長治元年(1104年)に到って鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘(おおばのしょう)を伊勢神宮に御厨(みくりや)として寄進したので大庭荘が大庭御厨と呼ばれるようになってからは、その領内、即ち東は俣野河(現在の境川)から、西は寒川郷に到る区域、また北は大牧崎(現在の藤沢市最北端)から、南は海(現在の片瀬の一部、鵠沼、辻堂、茅ケ崎の海辺の諸村)に至る区域、いわゆる境川と小出川とにはさまれた広大な伊勢神領大庭御厨総鎮守と定められ更にあつく崇敬されることとなった。 これより先、天喜年間、八幡太郎義家、奥州鎮撫の途次祈願奉幣あり。また、寿永3年(1184年)、那須与一宗高は屋島にて扇の的を射た弓一張と残りの矢を奉納、併せて所領の那須野百石を寄進し、その他代々の領主崇敬奉斎も鄭重で、伊勢神領大庭御厨総鎮守相模国土甘郷総社神明宮の社名いよいよ高く、中古以来相模鎌倉の鶴岡八幡宮、武蔵府中の六所宮と並び称せられた旧社であるが延享年間の盗難により惜しくも伝承の古記録等を失った。その後に至り明和2年(1765年)6月17日、領主布施孫兵衛尉頼路、参篭し祈願奉幣あり。且つ天照皇大神宮と謹書した白絹御戸張を奉納、明治維新まで例年奉幣を怠りなく続けられた。 明治元年9月、征東大総督一品中務卿有栖川宮殿下東下の際、神明宮の御染筆を賜る。また、例祭は8月17日。当日九基の盛装した人形山車の参進は特筆すべき盛観で、神奈川の民族芸能として県の指定があり、更に例祭そのものが「神奈川のおまつり五十選」に選定されている。尚、昭和63年に藤沢市重要有形民俗文化財に指定された。 なお、当皇大神宮には、第51代平城天皇の御代、大同3年(808年)、御創建の延喜式内相模国十三社、式内石楯尾神社が相殿八幡大神、春日大神とともに御同座である。式内石楯尾神社は当宮の御鎮座以前に、現在の当宮境内地に勧請された旧社で国史に所見の神階叙位、官社に列せられた名社である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
皇大神宮 第53第淳和天皇の御代天長9年(832)御社殿造立の記録があり、勧請の時期は更にどれほど遡るべきか詳かでないが、創建の極めて古いことは明らかである。 天喜3年(1055)、元亨2年(1322)、天正13年(1585)、昭和60年(1985)と造営を重ねられている。 第60代醍醐天皇の御代、延喜式が選進されたころに、奈良時代以来現在の藤沢市の内、藤沢・西富・大鋸・鵠沼・辻堂などの各地を合わせてとなえられていた相模国土甘郷(とかみごう)の総社に列せられ、この時以来、相模国土甘郷総社神明宮と称し、あまねく人士の尊崇を集めることとなった。 又、長治元年(1104)に到って鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘(おおばのしよう)を伊勢神宮に御厨(みくりや)として寄進したので、大庭荘が大庭卸厨と呼ばれるようになってからは、その領内、即ち東は俣野河(現在の境川)から、西は寒川郷に至る区域、また北は大牧崎(現在の藤沢最北端)から、南は海(現在の片瀬の一部・鵠沼・辻堂・茅ケ崎の海辺の諸村)に到る区域、いわゆる境川と小出川とに挟まれた広大な伊勢神領大庭御厨総鎮守と定められ、更にあつく崇敬されることとなった。これより先、天喜年間八幡太郎義家、奥州鎮撫の途次祈願奉幣あり。また、寿永3年(1184)那須与一宗高は、屋島にて扇の的を射た弓一張と残りの矢を奉納、併せて所領の那須野百石を寄進し、その他代々の領主崇敬奉齊も鄭重で、伊勢神領大庭御厨総鎮守相模国土甘郷総社神明宮の社名いよいよ高く、中古以来相模鎌倉の鶴岡八幡宮、武蔵府中の六所宮と並び称せられた旧社であるが、延亨年間の盗難により惜しくも伝承の古記録等を失った。 その後に至り明和2年(1765)6月17日、領主布施孫兵衛尉頼路、参龍し祈願奉幣あり、且つ天照皇大神宮と謹書した白絹卸戸張を奉納、明治維新まで例年奉幣を怠りなく続けられた。 明治元年9月、征東大将軍一品中務卿有栖川宮殿下卸東下の際、神明宮の卸染筆を賜る。また、例祭は8月17日、当日九基の盛装した人形山車の参進は特筆すべき盛観で、神奈川の民俗芸能として県の指定があり、更に例祭そのものが「神奈川のお祭つり五十選」に選定されている。なお、昭和63年に藤沢市重要有形民俗文化財に指定された。 公式HP |
皇大神宮人形山車9基 昭和63年12月16日指定 市指定重要文化財(有形民俗文化財) 皇大神宮人形山車9基 この人形山車は、明治中頃に皇大神宮の九氏子町内会がモれぞれ製作したもので、三層式・総高約8m、人形が飾られ、屋台には精巧な彫刻が施され、県下で盛観を誇っている。 かつては各町内に保管され、8月17日の例祭に境内に参集したが、現在は、交通事情などのため境内の山車庫に納められている、例祭には、いったん参道脇に整列してから、あらためて境内に入る、その参進行列の順番は宮之前の那須与一、上村の源頼朝、清水の神武天皇、宿庭の源義経、苅田の徳川家康、大東の楠木正成、中東の浦島太郎、原の日本武尊、堀川の仁徳天皇という順で決まっている。山車が境内に集まる頃、拝殿では湯草神楽(湯立神楽。市指定文化財)が行なわれる。 この皇大神宮の例祭は、昭和52年選定「かながわの民俗芸能五十選」に挙げられている。 平成30年(2018)8月 藤沢市教育委員会 社頭掲示板 |
皇大神官由緒 相模国土甘卿総社 皇大神官由緒 【鎮座地】神奈川県藤沢市鵠沼神明二丁目十一番五号 【御祭神】(主祭神)天照皇大神 (合祀神)天手力男命・天太玉命・天児屋根命 天宇受売命・石凝刀売命 【例祭】8月17日 人形山車九基参進(藤沢市重要無形民俗文化財) 湯華神楽(湯立坤楽)奉秦(藤沢布重要無形民俗文化財) 【由緒】第五十三代淳和天皇の御代天長9年(832年》創建。 天喜3年(1055年)、元享2年(1322年)、天正13年(1585年)、昭和60年(1985年)と御造営を重ねられている。 弟六十代醍醐天皇の御代、延嘉式が選進された頃に、奈良時代以来称えられていた相模国土甘郷(とかみごう)総社に列せられた、又、長治元年(1104年)に到って鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘(おおばのしょう)を伊勢坤宮に御厨(みくりや)として寄進したので、大庭荘が大虎御厨と呼ばれるようになり、相模國土甘郷はもとより東は境川から西は小出川に挟まれた広大な地域の伊勢神領大庭御厨総鎮守として尊崇を集める事となった。 これより先、天喜年間、八幡太郎義家、奥州鎮撫の途次祈願奉幣あり、又、寿永3年(1184年)那須与一宗高は源平屋島の合戦の戦勝を祈願し、屋島にて扇の的を射た弓一張と残りの矢を東帰の際奉納、併せて所領の那須野百石の朱印地を神恩報謝の為に寄進したと伝えられている。 明和2年(17625年)6月17日、領主{布施孫兵衛尉頼路参籠し、祈願奉幣あり、又「天照皇大神宮」と謹書した白絹御戸張を奉納、太々神楽を奉奏し、例年奉幣を明治維新まで続けられた、明治元年9月、征東大総督一品中務卿有栖川宮殿下御東下の際参拝し、「神明宮」の御染筆を賜わる。 例祭日には人形山車九基の参進があり、神奈川の民俗芸能としで県の指定があり、又、例祭は「神奈川のおまつり五十選」に選定されている、人形山車は、昭和63年藤沢市重要有形民俗文化財に、又、例祭日に拳奏される「湯華神楽(湯立神楽)」は平成8年に藤沢市重要無形民俗文化財に指定された。 社頭掲示板 |