大庭神社
おおばじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大庭神社 相模国 高座郡鎮座

   【現社名】大庭神社
   【住所】神奈川県藤沢市稲荷 997
       北緯35度21分37秒,東経139度27分30秒
   【祭神】神皇産靈神 (配祀)菅原道眞 大庭三郎景親
   【例祭】9月13日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       創建以降、近世までの社伝は何も存在しない

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天神宮」「大庭大明神」「大庭天満宮」と称していた
   【社殿】本殿
       幣殿・拝殿・神樂殿・鐘楼

   【境内社】

荏原製作所西に鎮座する。
周辺には宿庭(鵠沼)、代官庭(福田)、家中庭(葛原)、上庭、中庭、下庭(菖蒲沢)など「庭」のつく地名が多い。それらの地域は平坦な場所を指している。大庭も広大な平坦地という地形が地名となつたものであろう。
創建以降、近世までの社伝は何も存在しない。
安永6年(1777)10月に神祇伯資顯王によつて配神大庭景親が勧請され、天明3年(1783)秋に諏訪部定太郎、山崎六郎兵衛包高らの願によつて菅原道真が配祀されたという。
神仏分離まで大庭神社の裏手の成就院が管理していた。


大庭神社

祭神 神皇産霊神(配祀神)管原道真公 大庭三郎影親公
由緒
創建年代不詳。配祀神・大庭三郎影親公は、安政6年(1777)10月に神祇伯従二位資顕王に依って勧請せられ、同・菅原道真公は、天明3年(1783)秋、諏訪部定太郎、山崎六郎兵包高等の願に依って配祀されたという。
例祭9月13日

参拝のしおり



大庭神社

当大庭神社ハ御祭神トシテ広古神皇産霊尊ヲ奉祀シ延喜式内郷社ナリ藤沢市稲荷998番地ニ鎮座セラル相模十三社ノ一ニシテ小社ニ列セラレ当地ハ往古ヨリ旧地ナリト伝承ス。
当社配神大庭三郎景親公第118代後花園天皇ノ御代後安永6年10月神祇白川伯従二位資顕王ニ依テ勅許セラレ同配神菅原道真公ハ第119代光格天皇ノ御代天明三年秋地頭諏訪部定太郎名主山崎六郎師兵衛包高等ノ願ニ依リ勧請セラレ、霊験灼ニシテ普ク庶民ノ守護神デアリ氏子崇敬者ノ支柱ノ神ト世代ニ伝エラレマス。 昭和54年9月13日

社頭掲示板



復興碑

従二位勲一等功二級陸軍大将 一戸兵衛篆額
全国町村長會長 藤沢町長金子角之助撰文
大正癸亥九月壹日正午前貳分激震関東ヲ襲フ地裂ケ家倒レ河漲り山崩ル海底ト陸岸トハ或ハ凸隆シ或ハ凹陥シ加フルニ劫火前二海嘯後二其惨状広古比無シ死者拾萬ヲ超エ財耗百拾五億圓ト称ス藤澤町は幸ニ火災ハ免レタルモ死傷者貳百四拾五倒潰家屋参千貳百四拾資材損失千五百萬圓ヲ算セントス我力大庭神社亦被害中ニ在リ當日恰モ大祭ニ方リ祝詞奏上終リ共進使高座郡長佐藤房吉将ニ玉串ヲ奉奠セントス俄然天地鳴動或ハ世ノ終ナランカト疑ウ共進使神職及予ハ総代世話人氏子一同ト■ニ身ヲ遁ル其刹那社殿全潰旧観ヲ存セス惟フニ本社ハ延喜式制定ヨリ千有餘載鎮座シタル郷社ナリ惜ムラクハ社殿ノ造榮其季月詳ナラス之ヲ古老ニ質スニ知ル者無シ但別當法印旭元ノ鐘銘ニ記シタル享保年間以前トスルハ恐クハ参百年餘ヲ経シナランカ此ノ如クシテ氏子等渇仰欽敬ノ切ナル復興ノ念息ムナク災後ノ困惑ニ屈セス労ヲ積ミ資ヲ醸シ昭和丁卯九月ニ至リ社殿全ク竣成ス工費實ニ壹萬圓其新築セル本殿ニハ一貫セル赤誠ヲ薦メ以テ氏子ノ幸福ト部内ノ安泰ヲ祷リ敬神崇祖ノ美風ヲ培ヒ益く邦礎ノ量固ヲ圖リ萬古無窮ノ神徳ヲ頌セントス茲に氏子胥謀リ石ニ刻シテ之ヲ後ニ傳ヘント欲シ文ヲ予ニ請フ予此美挙ニ対シ感悦惜カサルモノアリ乃チ恭シク震災復興ノ梗概ヲ叙スト云爾
昭和貳季九月
蘇堂 鳥海幸助敬書

社頭石碑



池ノ辺遺跡と溜池

池ノ辺遺跡は、昭和56年4月に開場した藤沢市中央卸売市場の建設に先立ち、同53年4月から翌54年にかけて発掘調査された集落遺跡です。古墳時代から奈良・平安時代を中心とする竪穴住居址142軒が発掘され、土師器・須恵器・灰紬陶器のほか石製品(糸をよる紡錘車・砥石・玉類など)鉄製品(鎌・刀子・紡錘車と心棒など)青銅製品(官人の帯飾り)が出土し、縄文式土器も発見されています。またこの付近は幕末に宮本吉兵衛という人が灌漑用の溜池を造り水利の悪い稲荷の耕地を澗したとも伝えられますが、埋め立てられ今はその姿を見ることはできません。
平成5年7月
藤沢市教育委員会

社頭掲示板



大庭神社

大庭は於保無波と訓べし、和名鈔、(郷名部)大庭、(仮字上の如し)○神鳳抄、大庭御厨、○祭神 伊弊册尊、速玉男命、(地名記)○大庭村に在す、(同上)例祭月日

神社覈録



郷社 大庭神社

祭神 神産靈神
新編相模風土記に「祭神詳ナラズ、今菅神ノ木橡ヲ神体トス、側ニ筥アリ、小石七顆ヲ収ム」と見えたり、神社覈録云、「祭神伊弉冉尊、速玉男命(地名記)と、創立年月及由緒詳ならず、元と天神社と称し、延喜の制式内小社に列せられ、当国十三座の一にして、古来此の地の鎮守たり、明治6年新に社格制定に当り、郷社に列せらる、杜殿一宇及神樂殿を有せり、境内360余坪、官有地第一種たり、社頭古松多し。

明治神社誌料



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