大膳神社
おおぜんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】御食神社 佐渡国 雑太郡鎮座

   【現社名】大膳神社
   【住所】新潟県佐渡市竹田561
       北緯37度58分26秒、東経138度22分4秒
   【祭神】御食津神 (配祀)日野資朝 大膳坊賢栄
   【例祭】4月15日 祈年祭例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】
       拝殿・幣殿・能舞台・神庫

   【境内社】金刀比羅社

0.5Km離れている竹田橋停留所近くに、藥師堂跡があつて、そこに、中世末まで修験大宗院が住んでいた。そして現在の大膳神社地には御食神社があつた。ところが、地頭が滅亡して、領主の庇護がなくなると、御食神社も滅び、大宗院が入つた。御食神社が宮中の大膳職三祭神のうちにあるので、この神社の横には「ダイゼンバヤン」の呼称もあつた。その「ダイゼン」が修験「大膳坊」になり社名となった。


大膳神社

大膳神社縁起
 左殿 日野資朝卿
 正殿 御食津大神
 右殿 大膳坊賢榮
 正殿 御食津大神は農業食饌の祖神豊穣の守護神で、古来当地のうぶすな神として尊崇敬慕されている。その勧請創始については諸説があり、一説には式内社当国九社の一つとも言われるがなお詳らかではない。
 正中の変の折日野資朝卿当国に配流され、一子阿新丸は父子対面を求めて遥々都から下向したにも拘らず、遂に許されぬ儘父刑死の無念を霽らすべく城主本間山城守の館に潜入し、その弟三郎を斬って本懐を果した。この間大膳坊賢榮は真の敵は鎌倉なりと阿新丸を諭したがその孝心の已み難きに感動してこれを扶け、更に迫り来る討手窮追の危機の中に阿新丸を守護し無事死中を脱して帰京せしめた。
 山城守は激怒し大膳坊を処刑したが、その後大いに悔い畏れて、日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている。
昭和51年4月

社頭石碑



大膳神社

大膳神社は、御食津神を正殿に、日野資朝を左殿に、大膳坊を右殿に祀る。延喜式内社「御食神社」は、この社でないかとする説もある。正中2年日野中納言資朝佐渡流罪、元徳2年、資朝の子阿新丸が渡島する。
地頭本間山城守は対面を許さず、資朝を処刑、阿新丸は山城守の太刀取り、本間三郎を討ち帰京する。
阿新丸の逃亡を助けた山伏大膳坊は処刑される。城主が大膳坊の怨霊を鎮めるために勧進した社と伝える。境内に能舞台を有する。
佐渡市教育委員会

社頭掲示板



大膳神社

中部北陸自然歩道
大膳神社
祭神は農業食饌の祖神である御食津神。左右に日野資朝卿・山伏大膳坊を合祀する。勧請創始年代は不明であるが、社名については社伝では正中の変で佐渡に流罪・処刑された日野資朝の一子阿新丸が父の仇を討ち逃れる時、これを扶けて無事京都へ送り届けた山伏大膳坊が檀風城主本間山城入道の激怒にふれ処刑された。その後山城入道は大いに悔い畏れて日野資朝と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったためという。
しかしこの社は延喜式内社当国九社の一つ「御食神社」でなかったかとする説もある。
古代、官人の給食を司る役所である「大膳の司所」の祭神が御食津神であることから、後世大膳神社となったものか。
慶長検地帳に「御食宮免」という200苅余の神田が当社分として記載されている。
環境庁・新潟県

社頭掲示板



大膳神社

右當社開基正慶元壬申年人王九十五代後醍醐天皇御宇正中二年七月七日日野中納言資朝卿當國へ流罪ス地頭本間山城守預リ其頃京都聖護院御面二仕而大善坊卜云山伏阿新之後見して當國へ渡り阿新父資朝二対面ヲ頼共其從山城守不免時二鎌倉汐之下知依而元徳二午年五月九日資朝ヲ訟ス阿新山城守ヲ怨み夜中二城内へ忍入共居館へ近附事不得=而太刀取本間三郎ヲ討兼て越後汐之用意舩湊トあり是ず越後國へ渡り大善坊重而當國へ渡りシ時二山城守大善坊生捕二而果首然ルニ大善坊疑魂荒シデ天怪ヲナシ里民苦シム故二一社造営シテ神田ヲ寄付大善大明神ト勧請ス是ず怪異ハ静リ唯節中古勧世今阿彌云人此國へ渡リ右之分ヲ檀風卜云誠ヲ作リ當社祭禮能開ク委く大善坊之事ハ後醍醐太平記二有元徳元巳年五月廿一日資朝父母之爲二法華綴一部自筆ニシテ有今同村阿佛坊妙宣寺納申候一、當院別當職開基之節雑太城主本間殿望ミ依而右大善坊子息壷人呼寄別當二被申渡從夫代汝相績仕候 右之通リ相遺無御座候以上

萬延元年(1860)に奉行所に提出した記録の控



大膳神社

【縁起補記】
当国式内九社の一つに「御食神社」というのがあり、その所在について永年の間議論のあったところですが、近年(昭和61年)、式内社研究の専門家グループの調査によって、当神社が「式内・御食神社」であろうと確認されました。御食神社がどうして大膳神社に社号を変えたのかについては、当神社の別当であった大膳坊賢栄の合祀が深く関わっていると考えられますが、なお考察を要するところです。
※「式内社」…平安時代の「延喜式」神名帳に名が記されている神社
【能舞台】
当神社の能舞台は、佐渡の宝生流大夫家である潟上本間家が、佐渡に能楽を広め定着させるための重要な拠点とした、いわゆる「四所の御能所」の一つとして由緒を持つ舞台です。最初の建立は詳かでばありませんが、記録として現存する能番組の最も古いものは文化年間のものであり、その他の資料などを総合的に考えますと、少なくともそれよリは数十年以上遡るものと思われます。
現在の建物は弘化3年(1846)に再建されたものですが、鏡板は絵具の剥落と板の損耗のために、昭和54年原形のまま取り外して保存し、新たに板を調えて旧を模写したものです。日輪を配した意図については諸々の解釈が考えられますが、「影向(ようごう)」という信仰的意昧によるものではなかろうかと考えられます。
昭和56年10月、皇太子・同妃両殿下(現天皇・皇后両陛下)の行啓を賜わり、当神社の縁起にゆかりの深い能「檀風」を薪能でご覧いただきました。また、平成4年6月には秋篠宮・同妃両殿下のお成りをいただき、能「船弁慶」を同じく薪能でご覧いただきました。

由緒書



大膳神社能舞台

当神社の能舞台は、佐渡の宝生流大夫家である潟上本間家が、佐渡に能楽を広め定着させるための重要な拠点とした、いわゆる「四所の御能所」の一つとして由緒を持つ舞台です。最初の建立は詳かではありませんが、記録として現存する能番組の最も古いものは文化年間のものであり、その他の資料などを総合的に考えますと、少なくともそれよりは数十年以上遡るものと思われます。
 現在の建物は弘化3年(1846)に再建されたものですが、鏡板は絵具の剥落と板の損耗のために、昭和54年原形のまま取り外して保存し、新たに板を調えて旧を模写したものです。日輪を配した意図については諸々の解釈が考えられますが、「影向(ようごう)」という信仰的意味によるものではなかろうかと考えられます。
昭和56年10月、皇太子・同妃殿下(現、天皇・皇后両陛下)の行啓を賜わり、当神社の縁起にゆかりの深い能「檀風」を薪能でご覧いただきました。また、平成4年6月には秋篠宮・同妃両殿下のお成りをいただき、能「船弁慶」を同じく薪能でご覧いただきました。
(参考)「四所の御能所」
佐渡の国仲平野地区における代表的能舞台のことで、その中の一つに挙げられていたことを指す。他の3御能所は、若一王子神社(中原)・加茂神社(栗之江)・牛尾神社(潟上)。 

大膳神社能舞台の栞



大膳神社

延喜5年創立の由申傅ふるも詳ならず一に正慶元年の創立とも云ふ大膳神社は即ち御食津神社にして宮中大膳職三祭神の内にて御座すを後に大膳大明神と称するに至れり其後聖護院宮に仕へし社僧賢栄(俗に大膳坊と称す)日野阿新丸を京都より案内し御父資朝卿に謁せんと請ひしに雑太城主本間山城守鎌倉を憚り許さずして誅せられしを恨みて賢榮阿新丸を援けて其太刀取本間三郎を殺さしむ城主之を怒り賢榮を梟首せしに種々の怪ありしかば城主之を悔い大膳神社に配し田五反二畝二十三歩を寄せ又其子賢慶に屋敷一反六歩畑七畝廿七歩を給して当社に奉仕せしめたり元亀3年3月享保2年5月再建明治6年6月村社加列

佐渡神社誌



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