尾張大国霊神社
おわりおおくにたまじんじゃ


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【文化財】

尾張大国霊神社楼門 国・重要文化財
当社は、国府宮あるいは尾張総社ともいわれ、社伝によれば崇神天皇7年の創建と伝え、延喜式(えんぎしき)神名帳にのる古社である。社殿は、当地方に広く分布する尾張造で構成され、南から楼門、蕃塀(不浄門)、拝殿、祭文殿、釣殿、本殿をほぼ一列に並べ、祭文殿の左右に廻廊を延ばし、廻廊から延びる透塀(すきべい)で本殿を囲んで神域を形成する。楼門の建立年代は、建築様式から判断すると腰組以下は室町時代後期の建立と考えられ、上層は昭和33年(1958)の解体修理の際に、中備巻斗(まきと)上端および東南隅木尻に正保3年(1646)3月吉日の墨書銘が発見され、上層柱盤以上はすべて新造されたことが知られる。また、下層でも蟇股(かえるまた)・彫刻・扉構などが改変されている。
この門は、和様の三間一戸楼門で、屋根は入母屋造、檜皮葺(旧こけら葺)で南面する。規模は間口7.79m、奥行4.452mである。楼門は2階建の門であるが、下層に屋根がなく、組物は縁を支持する腰組となる。腰組組物は和様三手先で、中備に間斗束(けんとづか)、蟇股(中央間)を用いる。戸口は両開き板扉をいれる。上層では、正背面の中央間には両開き板扉、両脇に連子窓を開け。組物は和様三手先・尾垂木(おだるき)付を用いる。妻飾りは虹梁大瓶束で、かぶら懸魚をつる。軒は二軒繁垂木。この門は伝統的な和様で造られているが、下層に比べて、上層が大きく軒の出が深い印象である。

尾張大国霊神社拝殿 国・重要文化財
当社は、国府宮あるいは尾張総社とも云い、社伝によれば崇神天皇7年の創建と伝えられ、延喜式(えんぎしき)神名帳にのる古社である。社殿配置は、当地方に広く分布する尾張造で構成され、南から楼門、蕃塀(不浄除)、拝殿、祭文殿、釣殿、本殿をほぼ一列に並べ、祭文殿の左右に廻廊を延ばし、廻廊から延びる瑞垣(みずがき)で本殿を囲み神域を形成する。尾張造では、この拝殿や津島神社拝殿(津島市)のように縦長平面・切妻造・妻入の拝殿形式がとられている。拝殿の建立年代は、斗きょう・蟇股(かえるまた)などの細部意匠から判断すると江戸時代前期と考えられるが、天保の修理で一部の材が取り替えられている。
拝殿は、桁行5間(7.97m)、梁間3間(10.35m)、一重切妻造、檜皮葺、妻入の縦長平面をとる。柱は総丸柱で、壁や建具はなく開放され、低い床板を張る。組物は舟肘木(ふなひじき)が用いられている。主柱と側柱(庇柱)間には繋虹梁(つなぎこうりょう)をいれ、中央の主屋部分には小組格天井を張る。妻飾りは、2本の斜材を入れる豕扠首(いのこさす)で、猪目懸魚(いのめげぎょ)をつる。この拝殿は、縦長平面で簡素な構成をとり、意匠的にも垂木の反り・舟肘木・妻飾などに旧態を伝え、二軒疎垂木・小舞打ちや小組格天井など、社格の高い拝殿形式を示し、神社建築らしく伝統的な和様に終始している。

国府宮の儺追祭 県指定 無形民俗文化財
尾張大國霊(おおくにたま)神社(国府宮)で行われる儺追祭(通称、はだか祭)は、旧暦正月2日の「標柱建式(しめばしらたてしき)」に始まり、同日「儺負人(なおいにん)(神男(しんおとこ))」が選ばれる。神男は同10日から3日3晩、儺追殿に籠もる。13日、近隣各地区から儺追笹をかかげた数千人のはだか男が参集し、笹を奉納して神男の登場を待つ。午後3時過ぎに神男は、はだか男の群れに現われると、厄除のため神男に触れようと、はだか男たちが激しくもみ合う。神男ははだか男たちに揉まれながら儺追殿に入るとこの日の行事は終わる。翌14日の午前3時には夜儺追神事が行われる。神男は神灰(前年の礫(つぶて)を焼いたもの)を搗きこんだ土餅(つちもち)と人形を背負わされ、その人形の紙燭に火を点すと、参拝者から桃と柳の小枝で作られた礫を投げられて境外へ追い出される。その途中で土餅を捨て、捨てられた土餅は神職の手によりその場に埋められる。17日の悪疫退散・産業繁栄を祈念する的射神事で祭りは終わる。
儺追祭の起源は古く、称徳(しょうとく)天皇の勅命により悪疫退散の祈祷が全国各地の国分寺で行なわれた際、尾張国司が総社の当神社において祈願したのに始まると伝えられている。

半床庵(茶室)市指定文化財
この席はもと名古屋市の土井国丸邸の庭にあったもので、最終は名古屋茶道倶楽部が運営していたが、道路拡張のため解体され、昭和42年に当社へ移築して保存されることとなった。
 桁行一間、梁間一間二分五厘の切妻造桟瓦葺の主屋の妻正面に梁間七分五厘の柿葺の庇を降して、席とその裏の廊下にあて、主屋と鍵手に延びる桁行一間半、梁間一間、桟瓦葺の角屋を水屋とし、水屋の左右にも柿葺の小庇をつけ、流し、押入れ、地袋等にあてている。主屋は南面する。
 この席は何度も移築されているので、材料の変わった部分も多く、最初に建った時の詳細は不明であるが、由緒書によると元禄末年頃の建立という。

木造獅子頭 市指定文化財 彫刻
高14.2cm、奥行17.2cm、張16.5cm。材は松かと思われる。通例のように下顎を別に造って固定する獅子頭で、漆箔を施こすが、現状はほとんど剥落して漆下地をあらわす。  獅子頭の古い例は、多く薄く、平型であって華やかではないが、眉や両眼、大きな鼻などの各部の構造がしっかりしている。この獅子頭もあまり細技を示すできではないが、古い様式をよく残しており、大方の獅子頭が近世のものと造り替えられている中にあって、県下では古例に属するものであり、はなはだ貴重である。南北朝末から室町初期の制作と認められる。

陶製狛犬 市指定文化財 工芸品
阿形 総高51.3cm、奥行32.1cm、吽形 総高49.8cm、奥行31.8cm
 本殿内陣に安置され、社伝では古くからこの一対を足利尊氏公奉納と伝えている。阿形の口の部分が欠失している他はいずれも良好な状態を保っており、表面全体に施した灰紬が淡い青緑色の美しい地肌をつくり、古瀬戸独特の深い味いを示している。筋骨引き締まっていかにも逞しい体躯や脚部の表現、鋭い眼光、小振りながら俊敏な感覚を示す尖った耳の造作など、俗にいう和犬型狛犬の典型を示しており、力強い趣がある。室町時代初期頃の製作と考えられる。

鉄造大鳴鈴 市指定文化財 工芸品
総高8.2cm、最大径8.9cm。旧正月13日の儺追神事には、早朝大榊に尾張国を代表する四社の秘符と木刀、大鳴鈴を結びつけて鉄鉾が調ぜられるが、これがその大鳴鈴の古品で、神宝として伝えられてきた。鍛鉄製の鈴で、上下別々に制作し、中央の条帯部分で上部を被せ継いでいる。釣金具は頂上に孔を穿って差し込み、蝋付けを行っている。唇の両端には丸形を2個横に並べた葉芽形を透すが、これが殆んど唯一の事例であり、恐らく鈴に通有である猪の目型の変形とみるべきであろう。製作時期は明らかでないが、薄手に仕上げた鍛鉄技法は秀抜であり、鍛鉄技法が盛行するようになった鎌倉時代以降のものと想定される。


【尾張大国霊神社公式HP】

御祭神(ごさいじん)
尾張大國霊神(おわりおおくにたまのかみ)
尾張地方の國霊神(くにたまのかみ)であり、尾張人の祖先がこの地に移住開拓し、その日その日を生きていく糧を生み出す根源である国土の偉大なる霊力を神として敬い、尾張大國霊神としてお祀りしたのであります。
由緒
尾張地方の総鎮守神、農商業守護神、厄除神として広く信仰されております。当社は奈良時代、国衛(こくが)に隣接して御鎮座していたことから尾張国の総社と定められ、国司自らが祭祀を執り行う神社でありました。このことから通称「国府宮」として広く知られております。
社殿
本殿は流造、拝殿は切妻造、全体の様式(建物の配置)は尾張式といわれるもので、本殿・渡殿・祭文殿・東西の廻廊・拝殿・楼門と建ち並んでおります。
拝殿(重要文化財)
徳川初期の建立。特徴として切妻造で内側に柱が並立しております。
楼門 (重要文化財)
足利初期の建立。正保3年(1646年)解体大修理の際上層を改造しております。
磐境(いわくら)
本殿に接する形で磐境と呼ばれる五個の大きな自然石が円形に立ち並んでおります。これは、今日のように社殿を建てて神様をお祀りする以前の最も古い原始的な祭場で、当社がこの地に古くより創始されていたことを物語っております。


尾張大国霊神社

おわりおおくにたまじんじゃ 愛知県稲沢市国府宮町大宮。旧国幣小社(現、別表神社)。当社の付近に尾張国衙が置かれ、国司が総社として奉祀したため、国府宮とも称す。祭神は社名で明かな様に尾張大国霊神である。本社と別宮の宗形神社(祭神は田心姫命)大御霊神社(祭神は大御霊神)とで、古来国府宮三社と称しともに式内社である。創祀は本殿傍に厳存する磐境に始まり、社伝によれば宝亀2年(771)に官符をもって社殿が創建され従四位下に叙されたという。『文徳実録』には仁寿3年(853)に官社に列した記事がみえる。当社所蔵の嘉禄元年(1225)の庁宣により相当の修理田があったことが知られる。織田信長は掟書を制定して保護し、豊臣秀吉は朱印地一〇五石を寄進するなど、武家の尊崇篤く、尾張徳川氏は代々黒印状をもって社領一五〇石を安堵している。社家は天背男命を祖とする久田氏(後に野々部氏と称す)で代々祠職を継ぎ明治初年まで奉仕していた。同じく明治初年の神仏分離まで威徳院と大日坊という寺院の僧侶が別当。社僧として社領管理・祭儀に関与していた。例祭は5月6日で、当日梅酒盛神事が斎行される。この神事は神代神事とも尸神事とも称し祭神が神代の小児に憑依し神幸する祭儀で、神饌に青梅の実・粽。鯔の刺身・鯣を供え神幸式に鳴弦の儀を行う。当社の特殊神事として、世に広く知られている「はだか祭」は儺追神事といい旧正月13日に行われる。神護景雲元年(767)に第48代称徳天皇が全国の国分寺に於いて、吉祥天悔過を修するよう勅命され、尾張国司は国分寺へ伝達するとともに総社である当社へ勅旨を祈願したのに始まると伝える。厄除けを祈る裸の男子数万人が悪病を祓うために儺負人(神男)に触れようともみあう壮絶な神事で、儺負人は翌14日早朝、儺負餅と人形を背負わされ、桃と柳の枝で作られた礫を投げつけられ境外に出され、背負っている祓つ物を土中に埋めて神事を終る。

神社辞典



尾張大國霊神社

尾張は國名に同じ、大国霊は於保久爾多萬と訓べし、〇祭神明か也〇丹北庄國府村に在す、
今國府宮と称す、当國惣社也、
張州府志云、祀大國霊命、大己貴命之別称也、配享伊弉册尊、天照大神、素盞嗚尊、稲田姫命、活玉依姫命、足摩乳神、手摩乳神、云々、謹按、神祇宝典云、俗号国府宮即一国之惣社也、昔日5月6日大己貴命降臨於此地而鎮凶暴、此時與尾張中島直祖天背男命有契、今5月6日祭礼用桃弓棘箭者此縁也、云々、人皇十代崇神天皇御宇、尾張中島直祖天背男命之裔、奏朝廷建大國霊社、謹按、日木書紀云、崇神天皇7年庚寅定天社國社及神地神戸、蓋在此時歟、云々、瑞離之内本祠之庭有盤石高数尺、祠官尤敬焉、俗云、僧空海畳此石者附曾之説也、連胤云、俗にいふ空海の石を畳むの説のみに非ず、都て附曾の説といふべし、されど博覧のため抄出して爰に附す、
類社
大和國山辺郡大和坐大国魂神社の條見合すべし
神位 官社
文徳實録、仁寿3年6月丁卯、以尾帳国大國霊神、列於官社、國内神名帳云、從一位尾張大国霊明神、
社領

神社覈録






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