東別府神社
ひがしべっぷじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】白髪神社 武蔵国 播羅郡鎮座

   【現社名】東別府神社
   【住所】埼玉県熊谷市東別府708
       北緯36度11分16秒,東経139度20分38秒
   【祭神】天児屋根命 倉稻魂命 大物主奇魂命 (合祀)彦由岐命 埴山姫命
   【例祭】4月15日 例大祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿(三棟)
       拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】八坂神社

平地の神社。境内は中世の武士の館跡として典型的な形となっている。


東別府神社

埼玉県指定 史跡
別府城跡
熊谷市別府777 他
昭和16年3月31日指定
別府氏は、成田氏系図によると、成田肋高の二男次郎行隆が別府に住んでから、その子太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に数代相対して領知した。
この城跡は、東別府家の館として、東西南北ともに約一町(100余m)四方で、周囲には巾約2〜3mの横濠(現在は西、北、東側に残っている)をめぐらし内側に高さ約二メートルの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形をみることができる。
太郎能幸に初まつた東別府家は、それから十一代目の尾張守長清まで続いたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の北条氏攻略に際し、敗軍側についたため家禄を失つてしまつたので、この東別府城も廃城になってしまった。
昭和54年3月31日
埼玉県教育委員会
熊谷市教育委員会

社頭掲示板



東別府神社

東別府神社(熊谷市東別府777・778(東別府字北曲輪)
別府という地名の由来については、二説あり、平安末期ごろ荘園の周辺を別官符(追加開墾状)によって開墾したことによるとも、国府の支庁である別府が置かれたことによるともいう。いずれにしても、この地は古くから開発された所であり、そのためか、当社を式内社とする説もあったことが『風土記稿』の記事から知られる。
当社は元来春日社と称し、その境内は、別府太郎義家が居城として築いた東別府城の跡にあり、周りを高さ2mの土塁と幅3mの豪に囲まれている。別府氏は、藤原鎌足の後裔であるところから氏神として奈良の春日神社を勧請したのが当社の始まりで、天正18年(1590)の落城まで、代々城の鎮守として崇敬された。その後、当社は、当山派修験の勧蔵寺(後の宮本院)持ちとなり、三石が除地され、享保19年(1734)には宗源宣旨を受けて正一位春日大明神と号した。神仏分離によって寺の管理を離れた当社は、更に、明治42年に大字埋鳥の村社榛名神社を合祀し、ここに東別府神社と改称した。
また、明治維新から明治42年に東別府神社となるまで、春日稲荷神社と称していたように、当社にはいつのころからか稲荷社が合祀されていた。宝暦年中(1751−64)、当社の再建を機に、稲荷社を元地に戻そうという動きが氏子の間に起ったが、神意を伺った結果、元地に戻すのを取りやめたという『武蔵志』の話は興味深い。

埼玉の神社



榛名権現社

村の鎮守とす、観蔵寺持、下同じ
春日社
古は城の鎮守なりと云、今に古城跡にありて、稲荷を合祀す、按に當社は神名帳に出せる幡羅郡白髪神社なる由、式内神社考に見えたれど、當社にては此傳なし、又近村東方村熊野社をも、式内白髪神社なりと云説あれど、二社共に明證はなし。
稲荷社
八幡社
共に福泉寺持

新編武蔵風土記稿



社殿改修記念碑

ここ別府城址に鎮座する東別府神社は 今を去る八百余年の平安の昔 藤原鎌足の後裔 別府次郎行隆が この地に城を構えるにあたり その鎮守神として 大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。
明治42年6月境内地を拡張するとともに当時 既に奉斎されていた春日神社 稲荷神社のほか この地域内に祭られていた榛名神社 神明社 御嶽神社 大国主神社 八坂神社 琴平神社 三船神社 等を合祀し 地域一円の崇敬の場が造営された。以来70年の間 神祇を崇め 祭祀を重んじ 喜びにもまた悲しみにも心のよりどころとして神人和合のまつりごとが行われてきた しかしながら 本殿拝殿など積年の雨風による損いもはなはだしく 之が修理について斉しく憂慮するところであった
 昭和55年10月東別府自治会が中心となり 同憂の人達と協議をかさねた結果 東別府神社改修整備奉賛会を発起し 改修を計画して 浄財を勧募したところ 氏子をはじめ 各方面の崇敬者から欣然として 多大の奉賛をうけることができた
 昭和53年2月起工し 奥宮3社の改修と同社銅板葺覆殿の新築工事また拝殿の改修 及び 各社の修理 尚 参道の敷石の整備等滞りなく完了し ここに面目を一新し 地域にふさわしい崇敬の場が復元された このことは奉賛会役員の長期にわたる なみなみならぬ努力と奉賛者 並びに 工事施工者の赤誠の結晶であり 深く敬意を表わしてやまないものであります
 明治43年この地に合祀 以来 70年の星霜を経過した今日 氏子奉賛者の総意による 昭和の大改修成るにあたり 敬神崇祖の淳風とともに 地域の限り 繁栄を祈念し 改修整備の概要を 石に誌して永く記念しようとするものである
 昭和54年4月吉日
篆額 宝祭山神社宮司 横田茂

社頭石碑



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