物部天神社国渭地祇神社天満天神社
もののべてんじんしゃくにいちぎじんじゃてんまんてんじんしゃ


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【北野天神社】

社名は、正式には物部天神社もののべてんじんしゃ・國渭地祇くにいちぎ神社じんじゃ・天満天神社てんまんてんじんじゃです。
この三社を合殿に祀るところから、総称として北野天神社と呼ばれています。 物部天神社・國渭地祇神社は、景行天皇の御代日本武尊が、天神の櫛玉饒速日命と地祇の八千矛神をお祀りしました。共に延喜式内社です。
天満天神社は、長徳元年(一条天皇の御代)に、菅公五世の孫、武蔵国司 菅原修成が勅命を奉じて、京都の北野天満宮より菅公の御分霊を関東地方以東で最初に勧請しましたので、「坂東第一北野天満宮」と定められたといわれています。この時からこの地を北野と呼ぶようになりました。
源頼義・義家公が奥州追討の宿願成就のため、境内に総社を建立しました。
建久6年(1195)9月19日に源頼朝公が正八幡宮を勧請し、社殿を全て修造し、新たに延喜式内の諸神を祀った諸神堂を建立しました。この時の大宮司は上毛野元重、社領は頼朝公より二百貫文増加され、合わせて二千二百貫文となりました。
建武・延元(1334〜1340)の戦乱にて兵火に罹り、延文元年(1356)足利尊氏が境内の諸社を再建しましたが、再び戦乱により廃燼に化してしまいました。
その後、前田利家が社殿を再興。菅原道真公御自筆の法華経、宗近の太刀、黄金200枚を献納し、梅1本を献裁しました。「大納言の梅」として境内に現存しています。
天正19(1591)年、徳川家康より、朱印地六十石を賜り、境内に桜の木を1本植えられました。家康は宮司の栗原右左衛門を召出し、伊勢守(社寺を管理する神官)に任じました。
慶長13(1608)年には大久保石見守が総社を造営しました。境内も現在よりはるかに広く、天保(1836)年間に描かれた「江戸名所図会」によりますと、東西及び北側に25社描写されています。
明治34年3月、埼玉県でも有数の古社である事から県社に列せられました。
本殿の社額は有栖川宮幟仁親王が御真筆下さったものです。
著名な方のご参拝も多く、日本国内初の飛行に成功した徳川好敏氏、思想家の徳富蘇峰氏、東久邇宮稔彦殿下などのご来社を賜り、お写真や参拝名簿にお名前が残されております。

公式HP



【北野天神社】

物部天神社・国渭地祇神社・天満天神社 埼玉県所沢市北野。旧県社。俗に北野天神社とも称す。日本武尊の東征の際、櫛玉饒速日命・八千矛命二神を祀り物部天神社、国渭地祇神社と称した(ともに延喜式内社)。
欽明天皇12年、神託により小手指明神を合祀、長徳元年(995)菅原道真を勧請し坂東第一の天満宮と称される。もと三殿であったが、現在は一社に合祀、北野天神縁起七幅は県指定の文化財。例祭は春祭3月21日、秋祭10月5日。

神社辞典



奉納 神馬

北野天神社氏子会有志
令和元年5月1日
古くから馬は神様の乗り物とされており、神社に祈願する際にぱ馬を奉納することがありました。
生馬の代わりに馬をかたどった木彫りの形代や板絵なそも奉納されました。これが後に「絵馬」へと変遷していきました。
令和の幕明げを祝し、木と稲わらで作られた神馬は氏子会有志の方々より奉納されました。
西参道の先には「馬先」という地名があり、神社には「馬場」があった事が古嬉地図より分かります。
西参道から馬先へ真直ぐ続く道では流鏑馬も行われておりました。
そのような歴史からも神馬が奉納される事は大変慶ばしいことと存じます。

社頭掲示板



物部天神社

物部は毛乃々倍と訓べし〇祭神宇摩志麻知命、或云、少彦名命、(地名記)O北野郷小手指原に在す、(同上)例祭月日、
社領
当代御朱印高五十石

神社覈録



國渭地祇神社

國渭は久爾奴、地祇は久爾都加美と訓べし、〇祭神八千戈神、(地名記)○北野郷小手指原物部天神社内に在す、(同上)例祭月日、旧地廃亡して後爰に祀るか、

神社覈録



縣社 物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社

祭神 櫛玉饒速日命 八千矛命
合殿 菅原道眞公
合祀 天穂日命 加屋野姫命 応神天皇 日本武尊
創立年代詳ならず、但古来伝へ云ふ、当所三社は式内社なりと、而して古老の口碑に云く、当所式内三座の神社は、景行天皇40年、日本武尊の、天神地祇劒義神を祀り給へるなり、其帯せられし草薙の御劒は、元出雲国八岐の大蛇の尾より出でたる劒なり、是を移し祭り給ふ故に、出雲祝神社と云ふ、又欽明天皇の御宇12年11月15日、武藏野小手差原の霊神並に日本武尊を合祭し小手指大明神と崇む、一条院の御宇菅丞相五世の孫菅原修成、武蔵国守の時、菅公の霊夢の告に依り、一条天皇長徳元年2月25日勅許を蒙り、京北野天神を関東に移し給ひ、関東第一北野天神と號す、其後源頼義義家父子奥州の朝敵追討の宿顧によりて、総社建立あり、又建久6乙卯年9月15日、正八幡一宇を勧請あり、此時本宮九社とも修造ありて、式内の諸神勧請諸神宮と号し、社領二百貫の地を寄附せり、旧領を合せて二千二百貫文なり、然るに、建武延元の戦に、社地悉く兵火にかゝれり、延文元年丙申に至り、将軍尊氏又諸社建立ありしが、応仁元年に及び、天下又大に乱れて社頭再ぴ烏有となり年久しく廃社となりしが、天正18年小田原陣の後加賀利家再興して、菅公真蹟の経文、及び宗近の太刀に黄金を添へて寄附せしと云々、式社三座に関し新編武蔵風土紀記に云く、
「以上ノ説信スベカラザルモノ多シ、コトニ式社ノ三座ヲ合祀スト云コト、最疑フベシ、恐ラクハ後世近郷ニアリシ二社ノ廃絶セシヲ、神職ノハカラヒニテ合セテコゝニ祀リシナラン、又村名ヲ北野卜呼ピ、且応永4年左兵衛督源某卜云シ人ヨリ下セシ文書ニ、北野宮ノコト先例ノ如ク沙汰スベキ由ヲノセ、及ビ天文弘治以下ノ文書ニモ、ミナ北野宮ト記シアレバ、カノ地主物部天神ハ、古ヨリ祀リタランカ、北野天神ヲ勧請セシ後ハ、式社ノ名ハ、カへリテ唱ヘザリシコトゝハ見エタリ」
と、徳川幕府寄するに社領五十石を以てす、諸社朱印状に云く、
「天正18年加賀大納言利家武蔵国入間郡北野郷天神社中諸神堂領、同所之内五十石事、任慶安2年8月24四日先判之旨、永不可有相違者、専神事祭礼、可抽国家安全之懇祈者、仍如件、
寛文5年7月11日」
明治5年社格制定に当り郷社に列せられしが、34年3月縣社に昇格す、社殿は本殿、拝殿、其他神樂殿等あり、境内2028坪(宮有地第一種)日本武尊の手栽なりと伝ふる尊櫻、及天正18年前田利家が当社を再興して祈願所と定めし時所植なりと伝へらる、大納言梅あり、共に世に名高し、当社所蔵文書、新編武蔵風土記稿に見えたり、左に叙す。
寄新武蔵国北野天口
同国山口郷内北野宮并田畠在家(従□□□□別氏)
右任先例致沙汰□神事之状如件
応永4年8月25日 左兵衛督源次□ 花押
北□□□職事、如前々可致動之條、得其意候恐々謹言
天交11年2月15日 道俊 花押
北野宮神主殿
武州神職司勤之神祭等令執行、天下之御祈祷可抽丹精者也
天正18年7月5日 利家印
北野神主栗原殿
為天神宮勧請、黄金二百枚捧之、御自筆之御経一部並太刀一腰むねちか奉納之、愈武運長久可給御祈祷□□□
北野神主殿
尚此の外禁制状(弘治元年のものか、北条家虎印、乙卯4月3日とあり)、天正17年卯月3日社殿、御神宝の保存に関する状(秀信花押)天正18年6月日禁制に関する状(淺野弾正少弼花押、木村常陸介花押)同年7月御湯祭に関する状(木村常陸介花押)等数通の古文書今に伝れり、又此他永禄壬戌の太田資正の状永禄10年の古文書(以下略)

明治神社誌料






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