本殿は、奥宮(上宮)といわれ総岳山の山頂に鎮座し、祠造の小祠である。 拝殿は里宮(下宮)といい青梅市沢井3−640に鎮座している。 奥宮社前に真名井(青渭ノ井とも)と称す霊泉があり、その泉が社名の起りであると伝える。現在、泉の上に真名井神社と称す小祠が祀つてある。 社伝では、崇神天皇7年、国中に疫病が流行ったことから天皇は各地の神々に祈念をした、当社にも神地を寄進して祭祀を行ったという。 |
由緒 創立は詳ではない。惣岳山とは近傍の神社を総管する意で名づけられたという。第10代崇神天皇の御代7年国中に悪病がはやり死者が多く出たので天皇はご心配になり、国々の神々に御祈念になられた。当社にも神地神戸をくださって祭りが行われた。天慶年間、源経基が社殿を造営をしたと伝えられている。第60代醍醐天皇の御代延喜式神名帳に載せられた式内社である。現在の社殿は弘化2年、多摩川沿いの26ヶ町村の浄財をもって再建されたものである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
青渭神社 青渭神社 社名青渭神社(あおいじんじゃ)通称お惣岳様(そうがくさま) 祭神 大国主命(別名、大己貴命(おおなむちのみこと)、大物主命等々) 略誌 神社の創立年代は不詳。第10代崇神天皇の御代7年の時に、日本国中に悪病がはやり、天皇は国中の神々に平癒をご祈念なされた。当神社も、その時以来厚く崇敬されてきた。 社が惣岳山上(標高756m)に鎮座しているため、お惣岳様とも言われている。 惣岳とは中華の五嶽(東高水、西大嶽、南光明、北惣岳、中御嶽)に比して、このあたりの山々を総督する意味から名づけたと言われている。 承平年間(931〜37)源経基が任国のおり、深く当神社を崇敬し社殿の造営をしたと伝えられている。その昔、祭事が盛んであった頃は、数名の巫女(みこ)が奉仕していたと言われ、現在山頂近くに「いちこの墓」があり、建武4年(1337)の年号が記された板碑がある。その後、三田氏、小田原の北条氏、徳川幕府と厚く崇敬されてきた。 当神社は、第60代醍醐天皇の延喜年間(901−23)に編纂された延喜式神名帳に載せられた式内社である。何度か火災に遭い社殿が焼失し、その度に、再建されてきた。現在の本社は弘化2年(1845)多摩州沿いの二十六箇町村の浄財をもって再建されたものである。しかし、旧観に復することが出来なかったと言われている。 今は惣岳山上に本殿があり、麓の横尾子に拝殿、神楽殿などがある。祭事は拝殿で行われている。 昭和35年・平成9年、氏子崇敬者の浄財で本社の修理修復がされた。 ご神徳 国土の守護、福徳開運、厄除、五穀豊穣、医薬、縁結び、安産、開運、災除等 末社(二十七社) 真名井 神社山頂近く、清水の湧く真名井の井戸(青渭の井とも言う)の所に祀られ、社名の元になったとも言われている。 その他の末社(二十六社)は昭和35年4月17日、本殿内に合祀する。 例祭日 例大祭4月18日(現在は、この日前後の日曜日) 秋祭り 10月17日(〃〃) 元旦祭 1月1日 青梅市沢井総鎮守 青渭神社社務所 由緒書 |
青渭神社 旧三田地区の沢井上分(現・沢井三丁目)の惣岳山に鎮座する。祭神は大国主命で、現在は真名井神社を除き二十六社を本殿内に合祀する。例祭は三月十八日である。 創建は社伝によれば崇神天皇の御代と伝える。古くは青渭明神といい惣岳山頂近くに真名井と称する年中涸渇することのない霊泉があり、これを別名青渭の井ともいい、これが社名の起因となったと伝える。また別に惣岳大明神ともいうが、これは惣岳山(標高742m)頂に鎮座していることからの呼称である。惣岳という名は『武蔵演露』によれば「此山を中華の五嶽に此す、日く東高水、西大嶽、南光明、北惣岳、中御嶽」とあって、「近傍の諸山を総管するの義なり」とある。延喜式所載の「青渭神社」は当社であるといわれている。承平年間(931〜37)、源経基任国の時も深く崇敬し、社殿を造営したといわれ、その後三田、北条、徳川氏と代々崇敬され、慶長年間(1596〜1614)の沢井村検地帳にも除地一町五反余と記載されている。 最盛期には数名の巫女が奉仕していたといわれlる。現在、山頂近くに「いちこの墓」というのがあり、ここに三基の板碑が残され、その一基には建武4年(1337)の年号がみられる。本社は都道から2Km余り登った山頂にあったが、明治の初期に山麓、横尾子の地に拝殿を設けて遥拝殿としたため、現状ではここが本殿で、山上は奥の院という形になっている。現在の本殿は弘化2年(1845)の再建で、明治6年に郷社に列格した。昭和9年に拝殿を改築して現在の形となり、さらに昭和35年に本社(各殿の総称)を改修し、その際に二十六社を合祀した。境内面積は2628坪(6872u)である。(「 青梅市史 |
青渭神社 除地山林一町五段四畝廿二歩、村の北大丹波村の山堺にあり、山上へ登ること十八町山路曲折す、社説に云總嶽は山の名なり、故に總嶽山青渭神社と號すと云、門は道のほとりにあり、神主を宮野若狭といふ、入間郡北野村栗原左衛門が配下なり、本社六尺に九尺巽に向ふ、昔は拝殿及び鳥居などありしも、先年火災にかかりしより今に至るまでなを再立に及ばず、抑當社は【延喜式神名帳】に載る所にして、祭神は大巳貴尊と云、されど古き記録の徴とすべきことあるにもあらず、又たしかに口碑に殘りたることもあらざれば、正しくそれとも云がたし、承平4歳次甲午仲春18日記せしと云縁起あれど、年代あはずうたがはしきことのみにてとるにたらざれど、古きものなれば全くすてんもほいなし、其中青渭と社號を命ぜしよしあり、是もうけかひがたき説なれど、暫くそのあらましを記して一説にそなふ、 昔人皇61代朱雀院の御宇、下總國にて平将門王命にそむき、自僭して親王の稱す、ときに鎮守府将軍源経基武州の守護たりしかば、追討の勅をうけたまはり、軍旅を發して當國に下り、先多磨川の邊りをすぎたもふとき、水色俄に變じて藍の如くなりしかば、将軍奇異の思をなし、此所に暫くたたずみたもふに、此神社のほとりより忽然として一人の童女現はれ出、将軍に向て君此度東國の逆亂を追討したまふ靈神の擁護あるなれば、勝利疑なしと云、それより進發して遂に将門を追伏したまふ、しかるに當社いまだ定まれる社號なければ、かの河水の瑞兆にとりて青渭神社と崇めたまふと云々、されど【延喜式】は延長5年11月左大臣藤原忠平等が上りし所なれば、天慶3年将門誅伏の年よりは十年餘も前のことなるに、此縁起によつて見るときは、此時始て社號を命ぜしと云、且この縁起いよいよ承平4年に撰せしものなれば、是又将門追討より前に記せしものなり、かかる信じがたきことのみを取にたらざれば、其全文を略しぬ【式内神社考】には青渭の神社は澤井村にありといへり、今按に渭の字多くぬまと訓するときはあをぬまといふにや、又あをゐの神社といふべきにや、土人は青なみと號すといふ、郡中深大寺村深大寺境内に青波天神といふあり、是青渭の神社なり、然るに青波と稱する謂れは、社前に池ありて青波常に社邊にただよへば、いつとなく彼の字に書かへたるなりと、これもうきたる説なれば信じがたし、かくまちまちなれど、いづれも明證なければいかにとも今よりは定めがたし、例祭は18日にて、2月・6月・9月、一ヶ年に三度あり。 新編武蔵風土記稿 |
青渭神社 大国主命をまつる延喜式内の社である。 二千数百年前にまつられたという、これより400mばかりのぼれば拝殿、神楽殿などがある。 本社は約3Km惣岳山上に「二十七社の末社」も御鎮座になる。 例大祭 4月18日 昭和35年4月17日 社頭掲示板 |
青渭神杜 青渭は阿哀奴と訓べし○祭神大己貴命、(地名記)杣保内澤井村に在す、(同上)例祭月、日、 武藏野地名考に、当郡柏の里深大寺境内に青渭の堤と云所あり、青波天神の社あり、七八十年前まで数十囲の古木ありしと也、此古の青渭神社なるべしと云り、 神社覈録 |
郷社 青渭神社 祭神 大國主命 社傅に拠れば創立年代詳ならずと雖、式内社にして一惣國明神と称す、鎮座の山は惣嶽山(一に崇獄山)と號し、樹木鬱蒼たる険山にして、昔時は古木森々として極めて好適なる社地なりしが、往年社殿祝融の災に罹り今所所に残林を存するのみ、社前に霊泉あり、伝へ曰ふ、真名井又は青渭ノ井と称するものにして、社号の起原亦此に存すと、即ち崇神天皇の朝神地神屋を賜はり、延喜の神名帳に載せられし以来國主庶衆の崇敬を集め、天慶年間源経基社段を再建し神地を加附す、降つて慶長8年又祀融の災に遭ひ社殿焼失し、神宝旧記多く鳥有に帰す、因て寛永16年村民相議して再建す、寛永8年徳川氏の代官曾根五郎左衛門本村検地の際山林一町五反余を、後更に境内六反五畝余歩を免租せらる、延宝元年11月社殿復炎上す、寛政11年代官伊奈某の時式内社と定む、文化3年2月又々火災にあひ、社殿を始め社記古文書類悉く灰燼となる、天保年間再建、稍旧観に復するを得たりといふ、明治6年12月郷社に列し、以て今日に至る、社殿は本設、拝殿、幣殿及華表等を具へ、境内1969坪(官有地第一種)あり、 今諸書を按ずるに、新編武蔵風土記稿には「承平4年春記せしといふ社記に、式内社にして祭神は大己貴命と云ふ」とあれど疑なきにあらず、又式内神社考には「青渭神社は澤井村にありといへど、同郡深大寺村に青波天神と称する社あり、是式の青渭神社ならぬか」と疑へり、神社覈録に曰く「祭神大己貴命、杣保内澤井村に在す(地名記)」と見え武蔵野地名考に当郡柏の里深大寺境内に青渭の堤と云所あり、青波天神の社あり、此古の 青渭神社なるべしといひ、神祇志料は云く「青渭神社、今深大寺村にあり、青波天神と云ふ」となし、四神地名録、山吹日紀、武藏國全図に拠りて断定せり、かくの如く諸説一定せざるを以て今俄かに決すべからざるか、姑く記して後考に備へぬ。 明治神社誌料 |