加太春日神社の創建年代は明確ではないが、紀伊国造家旧記によると、神武天皇御東征の御代に、天道根命が神鏡と日矛の二つの神宝を奉じて加太浦に上陸、頓宮を造営して天照大御神を祀ったことに始まるという。 当地は海に面して漁業の盛んなところであるため、のちに航海安全と大漁を祈願する住吉神社を合祀した。 |
由緒 加太春日神社の創建は「紀伊国造家旧記」によると、天道根命が二種の神宝を奉じて加太浦に上陸し、頓宮を造営して天照大御神を祀ったことに始まるという。 のち、氏子の航海安全と大漁を祈願して、住吉大神を合祀したらしく、文保元年(1317)「住吉社寄状」が向井家文書にある。 さらに、藤原がこの地の地頭となったとは、その祖先神である春日三神を合祀して以来、総名として春日社と称したといわれ、嘉吉2年(1442)「春日明神神事日記」がある。 現在の一間社流造の本殿は、棟札(重文)によると、慶長元年(1556)に桑山修理亮正栄が、現在地移遷再建したもので、各種の彫刻の他、雄大・豪健でよく桃山時代の特色をあらわしているとして、昭和6年国宝に指定され、現在は国指定の重要文化財として保存されている。 当神社は氏子の当屋制によって維持されたもので、神職がおらず、記録文書類は全然存在しないため、他からの資料に頼らざるを得ないが、「紀伊続風土記」にある「粟島社の摂社にして」の記事などその拠り所は不明である。とにかく当時の紀伊国の領主ともいうべき桑山修理亮によって再建されるにはそれ相当の理由があり、尊崇の篤かった神社であると考えられる。 また役小角が行場として友ケ島を開いたとき、当神社を守護神とされたため、毎年4月20日に聖護院門跡が、山伏僧とともに参拝されている。 なお、昭和56年度第23回自然公園大会には採火神社に指定され、聖火を献火するとともに、氏子有志による獅子舞が郷土芸能として参加、披露された。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
加太春日神社 加太春日神社の創建年代は明確ではないが、紀伊国造家旧記によると、神武天皇御東征の御代に、天道根命が二種を奉じて加太浦に上陸、頓宮を造営して天照大御神を祀ったことに始まるという。 当地は海に面して漁業の盛んなところであるため、のちに航海安全と大漁を祈願する住吉神社を合祀したらしく、文保元年(1317年)6月29日付賀太庄住吉社への寄進状(向井家文書)が残されている。 当社の社名については、紀伊風土記によると日野左衛門藤原光福が地頭としてこの地を支配した嘉元年間(1303〜17年)に、自分の祖先神である春日三神をあらたに祀り、総名として「春日社」と称したとあり、嘉吉2年(1442年)の記録に春日明神神事日記(向井家文書)がある。 紀伊名所図絵によると、社地はもと、現在地から東の山の中腹にあったが、天正年間(1573〜92年)に羽柴秀長の家臣で和歌山城代(当時、秀長は大和郡山に居城、大和、和泉、紀伊三国を領し、紀伊国は和歌山城代が支配)、桑山重晴によって現在地に遷したと記している。なお、棟札(重文)によって慶長元年(1596年)に大がかりな社殿の造作がなされたことも実証されている。 当神社は、明治時代まで神職はおかず、神社経営は宮座形式の当屋制によって運営されていた。そのため、神社には記録文書類は全く存在せず、他からの資料に頼らざるを得ないが、御神徳の篤い神社であることは、「紀伊国神名帳」に「正一位春日大神」と記されており、神格の高さを知ることが出来ると共に、役小角(飛鳥時代の山岳修業者で修験道の開祖者、役行者とも称す)が、友ヶ島を行場とし、当社を勧請して守護神とされた。そのため現在でも毎年4月、当社に聖護院門跡が大勢の山伏僧と共に参拝されていることからもわかる。 また、昭和56年、環境庁(現環境省)主催の第23回自然公園大会において、採火神社に指定され、聖火を献火すると共に、氏子有志による獅子舞が郷土芸能として披露された。 なお、加太春日神社の現在の社名は、太平洋戦争後、全国の神社が国家の保護を離れ、宗教法人による神社に切り替わったとき、用いられたものである。 公式HP |
加太春日神社 重要文化財加太春日神社本殿 昭和6年12月14日国指定 加太春日神社の創建は明らかでないが、すでに14世紀には住吉社として存在したことが知られている。『紀伊続風土記』によれば、その後、日野左衛門藤原光福がこの地方を支配したときに、藤原氏の祖神である春日三社を合祀し、それから春日神社と称するようになつた、といわれる。 現在の社殿は、慶長元年(1596)に「桑山修理亮正榮」が建立を命じたものであると伝えられる。 社殿は檜皮葺、一間社流造、千鳥破風及軒唐破風附の建物である。建物の構造をはじめとして木鼻・蟇股・欄間などに豪華な彫刻が施されており、桃山時代建築様式の特徴を良く表している。 蟇股の彫刻は、雲に龍、竹に虎、牡丹に獅子・宝珠、恵比寿、大黒天、迦陵頻伽、貝、波に海老、菊花など多種多様であるが、そのなかで恵比寿、貝、海老など海に関わる題材がみられることは海村の神社として注目される。また、迦陵頻伽は仏典にあらわれる想像上の鳥で、人頭鳥身に表現されるが、蟇股の装飾に用いられたものは類例がなく珍らしい。この社殿はもと極彩色の上に赤珊瑚や永晶の粉末を使-た豪華なものであったが、明治初年の神仏分離の際に彩色を洗い落したといわれる。 平成4年3月31日 和歌山県教育委員会 和歌山市教育委員会 社頭掲示板 |
加太春日神社 当神社の創立年代は明確でないが、『紀伊国造家旧記』によると、神武天皇の御代に、天道根命が二種の神宝を奉戴して加太浦に来られた時、頓宮を設けて天照大御神を祀った事に始まるという。 当地は、海に面して漁業の盛んな所であるため、後に航海安全と大漁を祈願する住吉神社を合祀したらしく、文保元(1317)年6月29日付賀太庄住吉社への寄進状(『向井家文書』)が遺されている。 当社の社名については、『紀伊続風土記』によると、日野左衛門藤原光福が、地頭としてこの地を支配した嘉元年間(1303〜1305)に、祖先神である春日三神を新たに祀り、総名として「春日社」と称したとあり、また現在の加太春日神社の社名は、太平洋戦争後、宗教法人法による神社に切り替わった時、用いられたものである。 『紀伊国名所図会』によると、社地はもと、現在地の東の山の中腹にあったが、天正年間(1573〜1592)に羽柴秀長の家臣桑山重晴が和歌山城に居城した時、現在地に遷したとあるが、棟札によって慶長元(1596)年に大がかりな社殿の造営のあった事が実証されている。 当神社は、明治時代まで神職を置かず、神社経営は、宮座形式の当屋制で運営されていた。 そのためか、神社には記録文書類は全然存在せず、他からの資料に頼らざるを得ないが、御神徳の篤い神社である事は、『紀伊国神名帳』に「正一位春日大神」と記されており、また役小角が友ヶ島を行場とした時、当社を守護神とされた関係で、現在でも毎年4月中旬に、聖護院門跡が、大勢の山伏僧と共に参拝されている。 (例祭) 当社の例祭を「えびまつり」と呼んでいるが、往時、当地では伊勢蝦が多く獲れ、例祭当日、各家庭で神棚にお供えしたり、宴席に用いたのでその名がある。 当地では漁家が多い為か、神様を慰め、身を浄めようとする心が強く、渡御祭に供奉する獅子舞や長刀振りは古くから重要な役割を果たしており、子供等はこの獅子にんで貰うと、無病息災になるという風習が残っている。 また長刀振りは必ず神輿を先導し、祓い浄めながら渡御を斎行する。 和歌山県神社庁 |
加太春日神社 春日神社 境内周六十間 本社 天照大神 祀神 春日明神 住吉明神 廳 二間 八間 鳥居二基 末社二社 稲荷社 八王子社 村中馬塲町にあり 粟島社の摂社にして一村の産土神なり 村民相傳ふ 此地創造の時當社を勧請すといふ 按するに其初天照大神一座を祀り奉り後に住吉春日兩社を合せ祀りしなり 國造家舊記曰道根命奉戴二種之神寶到于紀伊國名草郡加太浦云云 當社は即其頓宮の址なるへし 住吉社は中世に合せ祀りしや 文保元年の文書に住吉社寄進状あり向井家蔵 又春日神社は藤原姓の人此地を領せし故日野左衛門藤原光福といふ人なりといふ 詳に日野村の條に見ゆ 其祖神を合せ祭りしといふ 向井家蔵る所の文書に嘉吉2年春日社御神事日記あり 又享禄3年の日記に春日社の神巫粟島社へ年中出仕の事見えたり 地頭の祖神にして新に祀りし故に春日社を以て總名となし唱へ來れるなり 神主なく巫女ありて社に奉仕す 村老十人年預を定社事を掌り神事は淡島神主執り行ふ 4月20日とす 此日神供及村中飲讌に皆龍蝦(ヱビ)を用ふ 土俗因て海老祭といふ 祭りの日村老皆素■を着し廳に集りて坐をなし献酬の禮なと總て古風あり 紀伊続風土記 |