飽富神社
あきとみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】飫富神社 上総国 望陀郡鎮座

   【現社名】飽富神社
   【住所】千葉県袖ケ浦市飯富2863
       北緯35度25分15秒,東経139度59分7秒
   【祭神】倉稻魂命
       件信友『神名帳考証』天富命
       『特選神名牒』『日本地理志料』神八井耳命

   【例祭】7月24日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】綏靖天皇元年4月神八井耳命創祀
       元慶元年祈雨勅願
       天慶2年平將門の乱で兵乱鎭定の勅願
       元慶8年(877)7月15日正五位上
       元禄4(1691)再建
       明治5年県社

   【関係氏族】飫富氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「飫富宮」と称していた
   【社殿】本殿権現造
       拝殿・幣殿

   【境内社】

綏靖天皇元年4月、皇兄神八井耳命が創祀という。
古代この地区は海であったがその後、土地の隆起や小櫃川の土砂が堆積したりして、この入海は次第に潟となり、芦荻の茂る沼沢地となつていつた。そこへ、古墳時代の終り頃、有力なる首長(飫富氏)を中心とする集団が来つて定住し、この広大なる沼沢地を開墾し、生産力の大きな農地を造出したものと思われる。


由緒

綏靖天皇元年、皇兄神八井耳命が創始したと伝える。 『延喜式』の「神名上」に、上総国五座のうち望陀郡一座飫富宮と記載され、明治五年、県社に列せられる。
天慶二年の平将門の乱により坂東の地は荒廃し、朱雀天皇はこれを憂えて、勅使を送り神剣を奉納し兵乱鎮定を祈願した。
例祭は毎年6月初午の日(現在7月24日)に行われ、文政11年以降は氏子八か村が交替で神輿を担ぐ。この祭礼は天延3年、上総国に疫病がはやったとき、時の上総国の国司源頼光によって執り行われたものである。また、千葉県指定無形民俗文化財である「飽富神社の筒粥神事」は毎年1月14日の夜から15日未明にかけて行われている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




飽富神社

社伝によると創建は綏靖2元年で天皇の兄・神八井耳命が創建したと伝えている。祭神の主神は「倉稻魂命」という稲の神、農業神で古くから農民の信仰を集めてきました。例祭は7月24日に行われいます。
現存の社伝は、元禄4(1691)に再建されたもので全体として権現造りになっている。本殿は流れ造りで、拝殿は入母屋造りです。
末社は、古来より75末社と称し神域内に斉き祀る。市正伝記(1680頃)より
本殿後:東之方御末社5社、本殿後:西之方御末社5社。 本殿:東之方御末社20社。 本殿:西之方御末社13社。 亥之方(北北西)御末社9社。 南方御末社3社。 寅之方(東北東)御末社4社。 卯之方(東)御末社2社。 北方御末社10社。 丑之方(北北東)御末社2社。 申之方(西南西)御末社2社。合わせて75社75座。
当社は国家の鎮護、殊に福神五穀成就の神霊故に、社中に源家の大将、鎌倉の右大臣、頼朝公を、白幡権現として勧請し奉つり、又、新田義貞公を新田八幡として勧請し奉つる。(二座共に勧請年月明白ならず)
降りて、元禄年間、飯富村の領主、天野地頭所より、古例に准じ、勧化の儀、お尋ね有り、其節二座の後ろに、ご領主、天野佐京雄良(かつよし)御鎮座木として、父之木(ちちのき)を御植になり、父之木の如く千々に御栄え永く変らぬようにと祈誓し、祝ひ寿ぎ御勧請したる由、申し伝えあり。
御鎮座の父之木、年々相栄え数十本競ひ生し、寛政八年正月には、本株は逞しく成長して三抱程になり、以来、子、孫と成長を続けて、現在の御神木は三代目を数えるなり。
但し、当社にて父之木と申すは、銀杏の木の事で、御神木を植えてより、年暦久しくして、今を遡ること三百年前のことに属す。

社頭掲示板



飽富神社

祭神
倉稲魂命
由緒
この神社は、平安時代初期に編集された「三代実録」という史書や、「延喜式」という法令集の中にすでにその名が記されている式内社で千年以上も前から存在した古社です。
旧称を飫富(おおとみ)神社といい、県内では香取神宮・安房神社など十八社ありますが、君津地方では唯一のもので、歴史的価値の高い神社です。
創建は、社伝によると第二代綏靖天皇元年(BC581)で、天皇の兄「神八井耳命」が創建したと伝えています。祭神の主神は「倉稲魂命」という稲の神、すなわち農業神で、古くから農民の信仰を集めてきました。
例大祭は7月24日に行われています。
現存の社殿は、元禄4年(1691)に再建されたもので、全体として権現造りになっている。
本殿は流造りで、拝殿は入母屋造りです。
棟札は、杉材を用いてあり、表裏にそれぞれ次の墨書銘があります。
(表) 卍奉 新造立大明神大殿一字所
(裏) 元禄4年歳 卯月21日
昭和55年12月
袖ヶ浦市教育委員会

社頭掲示板



飽富神社の筒粥

伝承地 袖ヶ浦街飯富2863
今日の飽富神社は、式内社の飫富宮にあたり、この神社の筒粥は、隣接する国勝神社の筒粥とともに、毎年1月14日の深夜から15日の未明にかけて行われます。
小河平左衛門家の当主が、13日の夜から14日の未明にかけてひそかに葦を切ってくる。
中山市左衛門家の当主が、いろりの鉤と箸(ともに柳の木を用いる)をととのえ、多田兵庫家の当主が、粥の米と版木を持ってくる。14日の夜には神社のの役員等が75本の葦筒をつくり一定の数にわけてそれぞれ編んで束ねる。
深夜の零時に、数人の若者が裸で水を浴びて身を清め、ヒノキの板ときりで神聖な火を切り出し、この火で粥を煮る。粥に葦筒を入れてかきまぜ、神前での儀式の後にそれらの葦筒を裂いて筒のなかに入った粥の分量で、大麦、小麦、麻衣、早稲、中稲、晩稲、稗、粟、大豆というように、作物の作柄を占います。地元の人々は、その結果を見にくるとともに、牛王串をうけて帰ります。
この神事は、禊が慣行され、旧家の役割が引き継がれるなど、年占いの古いかたちを残しているもので、作物の作柄を占う農耕儀礼のひとつとして本県民の生活文化の特色を残す典型的なものといえます。
袖ヶ浦市教育委員会

社頭掲示板



飽富神社 境内七十五末社の由来

御末社は、古来より七十五末社と稱せられ、神域内に齋き祀る。
三百年前の神社々記市正傅記より。(祭神名等の記述は省略する)
◇御本殿の後 東之方御末社 五社 一〜五座
◇御本殿の後 西之方御末社 五社 六〜十座
◇御本殿 東之方御末社 二十社 十一〜三十座
◇御本殿 西之方御末社 十三社 三一〜四三座
◇亥之方(北北西) 御末社 九社 四四〜五二座
◇南方 御末社 三社 五三〜五五座
◇寅之方(東北東) 御末社 四社 五六〜五九座
◇卯之方(東) 御末社 二社 六〇〜六一座
◇北方 御末社 十社 六二〜七一座
◇丑之方(北北東) 御末社 二社 七二〜七三座
◇申之方(西南西) 御末社 二社 七四〜七五座
御末社合わせて七十五社なり。(成立年代不明)
市正傅記とは、当社祠官深河市正秀豊、天和年間(1680年)に著せし社記にて、元禄4年地頭天野佐左衛門雄正の助力により、現社殿再建修復時の神主なり。境内に「本殿再建の人」といふ碑あり。
古語に「七五の御代」なる語あり。七は、神代系図天神七代の國常立尊から、七代の数の七で、五は地神五代の神・天照大御神より五代で、即ち、皇統の祖神にあらせらるる五柱の神也。七と五の数字は聖数として、七福神、七五三、七権現、七賢、五穀、五言、五山、五事、五常、五霊等あり。当社の七十五末社は、この七と五の数字をとり、制定せしものと思わる。しからば制定の年次は…元禄15年正月記(1702年)寄進帳に「上総國望陀郡一宮」、また、寛政8年正月記(1798年)由緒書に「上総一國の総社、望陀郡一郡の惣鎮守」と記述あり。この二文は共に、当社神主より天野地頭所宛に提出せし文書なり。十世紀頃、一宮、二宮、三宮等の社格の制起り、続いて粗同じ頃総社の制起る。依って当社七十五末社の制定の年次は、十世紀近くまで遡るものかと推測するものなり。

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飽富神社 御神木の由来

当社は國家の鎮護、殊に福神五穀成就の神霊故に、社中に源家の大将鎌倉の右大臣頼朝公を、白幡権現として勧請し奉つり、又新田義貞公を新田八幡として勧請し奉つる。(二座共に勧請年月明日ならず)
降りて、元禄年間飯富村の領主天野地頭所より、古例に准じ、勧化の儀、お尋ね有り、其節二座の後ろに、御領主天野佐京雄良御鎮座木として、父之木を御植になり、父之木の如く千々に御栄え永く変らぬようにと祈誓し、祝ひ壽ぎ御勧請したる由、申し傳えあり。
御鎮座木の父之木、年々相榮え数十本競ひ生し、寛政8年正月には、本株は逞しく成長して三抱程になり、以来、子、孫と成長を続けて、現在の御神木は三代目を数えるなり。
但し、当社にて父之木と申すは、銀杏の木の事で、御神木を植えてより、年暦久しくして、今を遡ること凡そ三百年前のことに属す。
平成5年7月吉日
飽富神社

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飽富神社のお田植神事

稲の豊作を祈る神事で4月上旬に行われます。この神事の世話人は高橋孫右衛門宅が世襲で行っています。当日は、氏子総代が刈ってきた葭と楢の小枝を、おばあさん達が苗結びに仕立て、約700本作って神前に供えます。関係者一同が祈願の後、稲籠に入れた葭苗を鳥居の前に運び、すげ笠にたすき姿の「早乙女」が石段下に集まった氏子たちに向かって、この葭苗を投げるという神事です。氏子は、この葭苗を田植えまで神棚に供え、田植えの時に水口に立てて豊作を祈願します。

社頭掲示板



飽富神社の筒粥

千葉県指定無形民俗文化財
飽富神社の筒粥
伝承地 飽富神社
指定年月日 昭和63年3月30日
飽冨神社の筒粥とは、米粉を溶いた粥に束ねた葦の筒を入れて煮詰め、葦の中に入る粥の量で作物の豊凶を占う神事です、毎年1月14日の深夜から15日の未明にかけて行われます。
古くから役割が家ごとに定まっており、飯富の中山市左衛門家がいろりの鉤と箸を、神納の多田兵庫家が粥の米と占いの結果を印刷する版木を用意します。
14日の宵から氏子が75本の葦筒を作り編んで束ねます。14日の深夜、数人の若者が裸で水を浴びて身を清め、ヒノキの板と火鑽捧で火をおこし、粥を煮ます。粥に葦筒を入れてかきまぜ、神前での儀式の後に、葦筒の中に入った粥の分量で、大麦、小麦、麻布、早稲、中稲、晩稲、稗、粟、大豆の作柄を占います、地元の人々は、その結果を見に来るとともに、護符を串にさした牛王串を受けて帰り、田植えが終わった後の水田の水口に立て、苗の成長を祈ります。
この神事は、作物の作柄を占うとともに一年の豊穣を祈る農耕儀礼であり、旧家の役割が守られる中で深夜に行われるなど、古来からの祭祀の姿を色濃く残すものです。
同様の神事は、市内岩井の国勝神社でも行われています。
令和3年2月
千葉県教育委員会
袖ケ浦市教育委員会

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飫富神社

飫富は假字也、和名鈔、(細名部)飯富、(於布〇今按るに、飫を飯と書る例、参河國宝飫郡を宝飯と書に同じ、誤には非じかし、)〇祭神倉稻魂命(地名記)○飯富村に在す、(同上)例祭月日、
考証云、此郡輸布所謂望陀布是也、飫富神社者、麻殖神而、天富命之祀乎、
山槐記云、応保2年3月12日戊申、(八幡行幸条)石清水俗別当兼安申行幸賞一箏、上絡國飯富社、天承鳥勿院始御幸之時、父兼孝申請了、随以兼安補彼社司了、而先年之比兼孝逝去乏砌、改定社務執行了、此事無極訴也、如元賜彼社可爲今度賞、同月19日乙卯、八幡別当兼安申社事、仰無左右、

神社覈録



縣社 飽富神社

祭神 倉稻魂命 相殿 大己貴命 少彦名命 創建は傅云ふ。綏靖天皇元年4月朔日なりと、三代實録に陽成天皇元慶元年5月丁巳、從五位上動五等より正五位下、同8年7月癸酉更に正五位上を授けられたる、趣見ゆ、延喜の制式内の小社に列せらる、朱雀天皇天慶2年、平将門叛乱の時、勅使下向せられ、朝敵降伏の祈願を修し、太刀一振を納めらる、其の太刀今尚藏す、(〇明■■上総町村誌)当社は古來著名の神社にして、其名山槐記等にも見え、元慶元年天下大旱に際し、祈雨の勅願ありと傳へらる、社殿は元禄4年再建の事あり、古來当村及下新田、有吉、井尻、曾根、奈良輪、神納、藏波八ヶ村の鎮守たり、維新以前は別当を神宮寺と称し、眞言宗たり、明治6年2月27日、郷社に列し、次いで同年5月30日更に縣社に昇格す。 社殿は本殿、拝殿、幣殿、其他神饌所等あり、境内は2063坪、(官有地第一種)此神往古より松樹を忌むと称し、地に一株の松樹なし、古檜老杉陰々天に接して鬱生す、南望すれば房総の諸山遠く雲煙漂渺の間に起る。

明治神社誌料



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