島穴神社
しまあなじんじゃ 所在地 社名















   【現社名】島穴神社
          (旧地)島穴神社 旧地
   【住所】千葉県市原市島野1129
       北緯35度29分41秒,東経140度4分4秒
   【祭神】志那都比古尊 倭比売尊 (配祀)日本武尊
   【例祭】7月25日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】景行天皇40年日本武尊創建
       景行天皇53年10月天皇御親祭
       元慶元年(877)4月17日正五位下
       治承4年(1180)源頼朝神田寄進
       明治6年郷社
       同12年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】本殿北200m線路の反対側に元宮とされる地がある

   【祭祀対象】本来は古墳を祀る
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・神饌所・祭器庫・社務所

   【境内社】道祖神社・八雲神社・浅間神社

景行天皇の40年(西暦114年)、日本武尊命が創設という。
本殿北200m線路の反対側接して元宮とされる地があり古墳となっている。
この古墳の被葬者−多分この付近の広大な農地の開拓者−を対象として祭祀が行われたのがその起源であつたと思われる。


由緒

当社は、「延喜式」所載の上総国五社の内の一社であり、古くからこの地方の格式ある名社として崇められてまいりました。今からおよそ1800年あまり前の景行天皇の40年(西暦114年)、日本武尊命が東征のみぎり、相模国走水より上総国へ航行中、にわかに暴風に見遭われ、あやうく船が覆りそうになった時、同乗されていた妃君の弟橘姫命が大和国の風鎮めの神・龍田大社を遥かに拝み、安全に上総国まで航行させてくれるならば、必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽くしますと祈りながら海中に身を投ぜられました。するとたちまち暴風は止み、無事上総国へ着くことができたので日本武尊命は、弟橘姫命のご遺志の通りこの地に志那都比古尊を祭る当社をご創祀されたのであります。
のち景行天皇が当地へ行幸の折(127年)日本武尊命、倭比売尊を合祀されました。
また陽成天皇8年(884年)には朝廷より正五位上勲五等の神階を授けられ、下って明治12年(1879年)、千葉県の県社に列格されたのであります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




島穴神社縁起

千葉縣市原郡東海村鎭座延喜式内縣社島穴神社は世に所謂上総五社を以て称せらるゝ一にして、景行天皇の四十年、皇子日本武尊の御創建せられし所に之れ有り、御祭神は風神志那都比古尊に座し、相殿に日本武尊、倭比売尊を合祀す。御鎭祭の縁起は、尊御東征の時、相摸の國走水より海路上総國に渡らせ給はんとせらるゝに際し、海上遽に暴風に遇はせ給ひ御船殆んど覆らんとせられければ、從ひ奉りし妃弟橘姫命大いに愕かせ給ひ、尊と共に大和の國龍田の風神を拝せられ、恙なく上総の地に着かせ給はば、必ず大神の御神霊を其の地に奉祀し以て報饗の誠を致さんと御祈願あらせられ、尊の御命を贖ひ奉らんとて自ら狂瀾の中に入らせ給ひければ、忽にして暴風止み、事なく上総の地木更津に着かせ給ひたるに依り、尊は妃の志を追はせられ、当地に風神を鎭祭せられて御祈誓を果させられ、(中略)、景行天皇五十三年冬十月、天皇上総に至らぜ給ひ、尊の神霊を當社に御親祭あらせられたるに依り、後世年紀不詳尊と御縁故尤も深き姨宮倭姫尊を合祀せられたりと云ふ。

昭和9年社司和田義雄『島穴神社縁起』



島穴神社

延喜式内社
旧県社
島穴神社略記
千葉県市原市島野1129番地鎮座
島穴の
  神の御稜威を
    仰ぐらし
豊になびく
  四方の民草
   従四位藤島正健
この歌は、明治23年から明治26年の間第4代目の千葉県知事であった藤島正健が当社明治25年の造営のとき詠んだもので「島穴神社のご威光を仰ぎあがめているらしいこの地域の人々の暮らしぶりは豊かに向上している」の意。拝殿向って右側に建立されている当時の記念碑に刻まれている。
御祭神
 志那都比古尊(しなつひこのみこと)
 日本武尊(やまとたけるのみこと)
 倭比売尊(やまとひめのみこと)
御由緒
当社は「延喜式」所載の上総国五社の内の一社であり、古くからこの地方の格式ある名社として崇められてまいりました。
今からおよそ1800年あまり前の景行天皇の40年(西暦114年)日本武尊が東征のみぎり、相模国走水より上総国へ航行中、にわかに暴風に遇われ、あやうく船が覆りそうになった時、同乗されていた妃君の弟橘姫命が大和国の風鎮めの神・龍田大社を遥かに拝み、安全に上総国まで航行させてくれるならば、必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽しますと祈りながら海中に身を投ぜられました。するとたちまち暴風は止み、無事上総国へ着くことができたので日本武尊は、弟橘姫命のご遺志の通りこの地に志那都比古尊を祭る当社をご創祀されたのであります。
のち景行天皇が当地へ行幸の折(127年)日本武尊、倭比売尊を合祀されました。
また陽成天皇8年(884)には朝廷より正五位上勲五等の神階を授けられ、下って明治12年(1879)には千葉県の県社に列格されたのであります。
(※「延喜式」…国の儀式など諸制度を記録したもの、平安時代に制定された。)
御神徳
しなつひこのみことさまは、風鎮めのご威徳から風水害などの災いからわれわれを守り、農作物など産業物の実り豊かなこと、海や空や陸上の交通安全をお導き下さいます。
また息長津彦命(しなつひこのみこと)とも称えられ、寿命長久、無病息災の霊験あらたかにまします。
年中祭事
1月1日   元旦祭
2月節分日  節分祭
2月17日に近い日曜日 祈年祭
3月被岸中日 播種祭
4月15日  種蒔祭
6月1日   田植祭
6月30日  大祓式
7月25日 例大祭
11月中   七五三児童健育祈祷
12月31日 大祓式・除夜祭
社殿
本殿  流造屋根銅板葺蓑甲造  五坪五二
幣殿  切妻造屋根銅板葺    九坪二
拝殿  入母屋造屋根銅板葺   一一坪五
神饌所 片流造屋根銅板葺    ○坪七
祭器庫 片流造屋根銅板葺    ○坪七
向拝  唐破風造屋根銅板葺   二坪四
合計 三〇坪〇二
玉垣  切妻造屋根銅板葺 間口七間奥行八間延長二三間
本殿は天明年間(1781〜1788)の建立にして、平成元年(1989)屋根葺替を始め大修理をした。また嘉永年間(1847〜1853)に建てられた旧拝殿は老朽化甚しく平成元年改築した。弊殿・玉垣も平成元年の造営である。
主要建物等
主要建物  社務所・切妻造屋根瓦葺三二坪六
境内末社  
 浅間神社 祭神・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
 天神社 祭神・菅原道真公(すがわらみちざねこう)
 八雲神社 祭神・須佐之男命(すさのおのみこと)
 庖瘡神社 祭神・庖瘡を司る神
 愛宕・淡島・子安神社 祭神・火乃迦具土神・少名彦名命・木花開耶姫命
境内坪数 二四四五坪
境外神社 道祖神社 祭神・八街彦命・八街姫命・久那斗命
古川神社 祭神・月夜見命(つきよみのみこと)
日宮神社 祭神・天照皇大神(あまてらしますすめおおみかみ)
十七夜神社 祭神・月夜見命(つきよみのみこと)
氏子数約600戸

社頭掲示板



島穴神社

神階正五位上勲五等。当宮は「延喜式神名帳」所載の上総五社の内の一社。景行天皇40年(114)日本武尊が東征の折、相模国走水より上総国へ航行中、にわかに暴風に遭われ、危うく船が覆りそうになった時、同乗されていた妃君の弟橘姫命が大和国の風鎮神龍田の神を遥かに拝み、海中に身を投ぜられると暴風は止み、一行は無事当地へ着くことができた。尊は妃のご祈誓に従いこの地に風鎮の神志那都比古尊を創祀された。のち景行天皇が当地へ行幸(127)の折日本武尊、倭比賣尊を合祀された。また陽成天皇8年(884)には朝廷より正五位上の神階を授けられ、明治12年(1879)に県社に列格、今日に至る。

千葉県神社庁



島穴神社

東海村大字島野字島穴にあり木更津線五井・姉ヶ崎間殆ど中央左側老樹蒼々たるを見る之なり、人皇十二代景行天皇の40年11月皇子日本武尊東征の時御親祭せられし所、姉ヶ埼神社鎮座科那戸邊命の良人志那津比古尊を祭る、風神にして上総五社の一なり、同53年天皇御東幸の時現今の相殿日本武尊倭比賣尊を合祀す(三代實録)元慶元年5月17日(皇紀1537年にして陽成天皇御即位の年)丁巳授上総國從五位上勲五等島穴神正五位下類聚國史之と同じく載す(延喜式神名帳)上総國海上郡二座(並小)島穴神社・姉ヶ埼神社と載す又元慶元年5月大旱の時乞雨の勅願あり天慶3年2月(皇紀1600年)には、将門降伏の勅願在らせられきとぞ、治承4年8月(編者註皇紀1840年にして以仁王平氏と戰て宇治に戰死しョ朝鎌倉に入りし年なり)源ョ朝神田を寄附す(高三十六石神官社入十餘戸)天正(皇紀2233−2551年)年間北條氏の兵火に罹り神寶社記其の他蕩盡す、左少将源定信上総國富津を固め信向ありて文政6年(編者註皇紀2483年にして獨乙人シーボルト氏長崎に来り醫方を講じたる年なり)11月自筆の扁額を奉納す、爾後年々幣帛を奉らる又神殿修覆料として屡米若干を領主大国忠愛天保13年(皇紀2502年)壬寅より慶應年間まで年々寄進す嘉永元年(皇紀1508年)正三位千種有功卿及堀川康親卿奉る歌に
四方の海仰げばさそな紅葉にも花にも風はさわらさりけり(千種)
太しくもたてゝ護れる島穴のふた柱こそ世々におこかね(康親)
明治4年辛未11月22日島野外十一ヶ村郷社に定められ、明治12年10月28日縣社に列せらる、

市原郡誌



島穴神社

島穴は志萬奈と訓べし、和名鈔、(郷名部)島穴、(印本鳴穴に誤る)〇祭神級長津彦命、(地名記)〇島野村に在す、今市原郡に属す、(同上)例祭月日、○式廿八、(兵部)上総國駅馬、島穴五疋、
神位
三代實録、元慶元年5月17日丁巳、授上総國從五位上島穴神正五位下、

神社覈録



縣社 島穴神社

祭神 志那都比古命
相殿 日本武尊 倭比売尊
創建は景行天皇40年11月なりと云ふ、特選神名牒に曰く、
「今按、社記、日本武尊蝦夷ヲ征討ニイデマス時、海中暴風忽チ起リテ、御船漂蕩シシカバ、日本武尊、此神ヲ祭ラセ玉フ由ヲ説ケリ、之ニ由テ考ルニ此時暴風ノコトニヨリテ、風神ヲ祭ラレシナルベシ、姑附テ考ニ備フ、」
と、次いて同53年、天皇東幸の時、日本武尊倭比売尊を相殿に奉祀す、淳和天皇天長3年6月、從五位上動六等を授けられ、(〇社伝)三代實録に陽成天皇元慶元年、正五位下に進み給ふ由見え、此の年7月新雨の奉幣あり、(〇社伝)延喜の制、式内の小社に列せらる、實に当國五座の一に坐ます、朱雀天皇天慶3年3月、勅して平將門降伏の祈願を修す、安徳天皇治承4年8月、源頼朝神領三十六石を寄せられしが、正親町天皇天正中、北條氏の兵火に罹り、社殿を始め神宝社記及寄附状等悉く灰燼に帰す、爲めに神田を失ふ、後ち徳川家康関東を領するに及び、当社の由緒を徴す、司祝所縁を知らす、訛て春日明神なる旨を答申す、故に長く神田を寄せられずと雖も、仁孝天皇文政6年松平定信当社を厚く崇敬し自筆の編額を納め奉らる、蓋し定信初て富津海防を修むるに際し、漸る所ありしに因るなり、其の扁額今尚存せり、爾後毎歳幣帛を奉らる、神殿は後水尾天皇元和7年再建せられ、次いて仁孝天皇天保13年以來、領主神殿修復料として厘米若干を寄進せり、古來当村及白塚村の鎭守にして、明治4年11月郷社に列す、次いて12年10月更に縣杜に昇格す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿等あり、境内は2420坪、(官有地第一種)たり、社側に一根の老松ありと、上総國誌に曰く、
「社傍有古松一株、松下有穴、將嵐則雲気超于穴中、今尚然否、」
と、境地古松老杉、蒼翠天外に聾ゆ、船舶常に航路の目標とす、四周田圃磐浪風に翻り、稻雲日に映す、遙か西方に富十箱根の諸山、海色に連り、白帆点々波間に隠見す、千種有功卿詠あり。
「島穴社によみて奉る  有功
四方のうみに仰はさぞなもみちにもはなにも風はさはらさりけり」
当赴宝物としては、假面、古鉾、鏡及松平定信卿の扁額、文政9年の奉納に係る領主大岡忠愛の扁額(動五等と書す)等あり、因みに記す、姉崎村の姉崎神社は当社と創立同うし、風神の陰神志那斗弁命を奉祀す。

明治神社誌料



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