日本武尊が東征の際、走水の海峡を渡ろうとした際に海神の怒りを買い、身代わりとなった弟橘媛命のために日本武尊が墳墓を造り、櫛を収めて橘の木を二株植えたのが、当社の始まりという。 神社の後方、本殿に接して周囲170m、高さ10mの古墳が所在している。 寛政12年(1800)に本殿を造営し、拝殿等も修造したとあるが、本殿はそのとき始めて建てられたもので、それまでは本殿はなく、拝殿から直接、古墳を拝祀した。 |
由緒 社伝に日本武尊のご創建と伝え、陽成天皇元慶元年5月17日、授上総国勲五等正五位の下。光孝天皇8年7月15日、授上総国勲五等正五位の上、橘神、日本武尊、忍山宿祢二神を合祀すと記す。 延喜式内小社。 正慶2年9月、寛政13年5月にそれぞれ改築。 明治6年5月30日県社に列す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
橘樹神社 元勅祭社 旧式内県社 橘樹神社要覧 一、御鎭座地 千葉懸長生郡本納町本納 一、御祭神 弟橘比売命 相殿 日本武尊 忍山宿禰 一、御祭日 例祭旧暦8月13日 祈年祭2月17日 新嘗祭11月23日 春季祭旧暦2月上巳之日 一、御由緒概要 當社は延喜式内勅願の御社なり景行天皇の御宇40年6月東夷多く叛きて邊境騒しかりき7月天皇皇子日本武尊に平定の勅を下し給ヘるにより尊は10月壬子朔日吉備武彦と大伴武日連とを從へ七掬脛を膳夫となして出で立たせ給ふ先づ伊勢に詣で給ひて御叔母倭媛命に辞し給ふに倭媛命は叢雲宝劔を日本武尊に授け給ひて愼て怠る事なかれと宣ひき尊畏みて駿河國に到りて其叛徒等を悉く誅滅なし給ひ更に相模国に至る其國の叛徒も亦討ち亡し給ふそれより上総國に渡り座さんとて走水より御船に在して海原へこぎ出し給へば暴風忽ちに起り浪激しく荒びて御船漂蕩危き事限なし御船の中に仕へ奉る相模國穂積氏忍山宿禰の女たる弟橘比売命こは海神の心なるべし妾尊に代わて海に入りなん尊は御父天皇の御大命を畏み事成竟給へと菅の畳八重絹の畳八重を荒れ狂ふ波の上に敷きなして下り立たせ給ふとき歌ひ給はく サネサネシ サガムノオヌニ モユルホノ 佐泥佐泥斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 ホナカニタチテ トヒシキミハモ 本那迦邇多知氏 斗比斯岐美波母 と海中深く沈み入り給へば暴風忽ちに鎭まり荒波自らなぎ御船やすくと上総の岸に着かせ給ひぬかくて七日を過ぐる後弟橘比売命の御櫛岸邊に漂ひ着きたるを日本武尊是れを御掬ひ上げ参らせ御身に固く着け給ひて上総征討の事を行ひ給ふ先づ夷隅の叛徒を言向け和し其れより順次北東の方に進み途に悉に上総國の叛徒を討ち平げ給ふかくて此地に到り御陵を作り御身につけ参らせる比売命の御櫛を治め奉り橘樹二株を植なして懇に御祭仕へ給ふ時は景行の御宇42年正月17日なり陵下に拝殿及神門ありたりしが応仁天正両度の兵火に罹りて焼亡其後復工の事ありしが寛政12年御陵の一部を拓き南面に本殿を明治23年拝殿を同40年渡殿を造営し奉る現社殿是れなり 古來火難水難兵難祓除の神として諸人の崇敬厚く霊験顯著なり 一、沿革 鳥羽上皇城南離宮(安樂壽院)の御料社にして橘木社の荘十三郷は御除料たり(古書現存) 代々の朝庭に於ては御陵の周園の柵を年毎に新に修め奉り橘樹を植させられて國家の安泰を祈請し奉りたり(古書現存) 美幅門院八條女院の両院は深く崇敬在らせられ屡々令書を奉りたり(古書現存) 建久5年2月23日北條相模守義時は令旨を蒙りて橘木社御年貢を上進皆濟を下々へ執達せり(古文書現存〉 建久5年10月20日時の齊官九條蓮西尼は下々の上進せる御年貢を支配処分せり(古文書現存) 明治6年5月30日縣社に列せらる 一、境内及社殿 境内地 2180坪 本殿 六坪銅葺欅材建彫刻附 拝殿 十七坪五合銅葺 渡殿 二十坪 ○古事記中 自其入幸渡走水海之時其海神興浪廻船不得進渡爾其后名弟橘比売命白之妾易御子而入海中御子者所遣之政遂応覆奏將入海時菅畳八重皮畳八重?畳八重敷于波上而下坐其上於是其暴浪自伏御船得進(中略)故七日之後其后御櫛依于海邊乃取其櫛作御陵而治置也 ○日本書記巻七 日本武尊亦進相模欲往上総望海高言日是小海耳可立跳渡乃至于海中暴風忽起王船漂蕩而不可渡時有從王之妾日弟橘媛穂積氏忍山宿禰之女也啓王日今風起浪泌王船欲没是必海神心也願以妾之身贖王之命而入海言訖乃披瀾入之暴風即止船得着岸故時人號其海日馳水也 〇三代實録 巻三十一 元慶元年五月十七日丁巳授上総國從五位勲五等橘樹神正五位下 〇三代實録巻四十六 元慶八年七月十五日癸酉上総國正五位下勲五等橘神正五位上 ○延喜式 巻九 神砥九 神名十 上総國五座 長柄郡一座小 橘神社 ○神名帳考証 長柄郡一座小 橘神社 弟橘姫命 ○神社覈録 巻二十四 橘神社 祭神 弟橘姫命、日本武尊、忍山宿禰 地名記 二宮庄本納村に在す 同上玉手かうに當社は橘比売命の御櫛を納めし処と語り傳ふ ○大日本史 巻二百五十六神砥 上総長柄郡一座 橘神社叉日橘樹神 三代實録○今在二宮荘本納村称橘明神 祀弟橘姫命 合祀日本武尊及忍山宿禰日本武尊東征渡相模海遇風濤之難妃弟橘姫日是必海神之意妾請以身贖遂自投海風乃止後得其遺骸◆之築墓即本社所在也元慶元年自從五位上勲五等進正五位下 光孝帝立加正五位上 延喜制 列小社 由緒書 |
千葉県指定有形文化財 橘木社文書(10通)2巻 附 長谷川有則文書請取状控(1通) 所在地 茂原市本納738 所有者 橘樹神社 平成元年3月10日指定 鎌倉時代初期の建久五年(1194)から嘉禄元年(1225)にかけての文書で橘樹神社に伝来のものではなく、大正15年に所蔵となつたものである。明治19年修史局の調査のときは、山城国(京都府)紀伊郡竹田村長谷川景則蔵となつていた。 しかし、内容は一通を除き、「北条義時書状」「蓮西年貢支配状」等いづれも橘木社を中心とする中世の荘園橘木荘の寄進所領安堵等に関する文書である。 中世における郷土の歴史を知り得る貴重な資料である。附である長谷川有則文書請取状控は、荘園の所有者であつた京都の醍醐寺に伝来していた橘木社文書が宝暦4年(1754)に京都府の長谷川家に譲与された経緯を示すものである。 平成3年9月30日 千葉県教育委員会 茂原市教育委員会 社頭掲示板 |
茂原市指定史跡 宮ノ下遺跡 所在地 茂原市本納738 昭和53年12月28日指定 橘神社境内東側及び裏側の崖や水田から縄文土器片や石器が出土することは明治のこうから知られていたが、昭和25年本納中学校社会科研究部により、深鉢土器(加曽利E式)が発見された。宮ノ下遺跡は、標高10m地点であり、周辺の水田は地下1mで葦の根の腐食した土質となり、近年まで沼地であつた。橘神社の祭神は弟橘姫命であり、延喜式にのる社であることからも、単に縄文土器出土地のみでなく、その資料的価値は大きい。 平成11年3月26日 茂原市教育委員会 社頭掲示板 |
茂原市指定天然記念物 本納橘神社社叢 所在地 茂原市本納738 昭和55年2月26日指定 神社裏側の森林は、高木、亜高木、低木からその下に生える下草まで全部そろつていて自然の姿に森林を放置した時どうなるかを学習するのに最適な自然林である。境内にこれだけの大木が自然の形に繁茂しているところは市内では他に見られない。 樹木の種類は、エノキ、タブノキ、ケヤキ、ウスノキ、ムクノキ、スダジイ等が多い。 神社裏の高所は人工の塚か自然の丘陵の一部かは明らかでないが神社の境内ということもあつて手を加えられていないので自然林の様相をよく残している。 平成2年3月26日 茂原市教育委員会 社頭掲示板 |
橘神社 近年社頭が大破したので、総産子で相談した結果、漸く再建にとりかかり、工事もはかどった。ところが社のひろごりが甚だ狭く、前は神木である橘樹が生い茂り、うしろは御廟陵で普請の差支えになり、神域のため軽々しいとりはからいもできず、大変弱ってしまった。そこで寛政四年、社職の者ならびに村役人、総氏子どもが集まって相談した結果、前の神木を伐り、うしろの御陵廟の裾を切開いてもよろしいかどうか神威を伺ったところ、うしろの地所切開きの意があらわれたので、寛政十一年(一七七九)十一月二十日鍬初を行い、御陵の裾廻りを四日間切開いたところ、土中から十一のカメツボがあらわれた。その内訳は、大甑一、小甑四、小ツボ四、鉄器二であった。大甑は、尊骸が納めてあると思い、大いに驚ろき、少しも中を見ずに封印をし、右の品々を本殿に納め、祓修行を行った。 本納町史 |
橘神社 たちばなじんしや 千葉県茂原市本納。旧県社。弟橘比売命を主神とし、日本武尊・忍山宿禰を配祀する。吾妻大明神とも橘様ともいわれている。日本武尊東征の際に海上で暴風に遭い、そのとき妃弟橘比売命が海に身を投じて尊の難を救ったことから、御陵をつくり、妃の櫛を納め橘樹二株を植えて祭祀したという。史料としては乎安初期、元慶元年(877)に従五位上勲五等から正五位下を授けられているのが初見で、同8年更に正五位上に進められ、延喜の制小社に列せられている。陵下に拝殿及び神門があったが、応仁・天正両度の兵火に焼失し、寛政12年(1800)に本殿を造営、のち拝殿を修造している。宝物として建久年間(1190−99)安楽寿院書記の古文書、萩生監物由緒奉額等がある。例祭2月17日、3月7日、10月10日。特殊神事として白鳥料理献饌・御的神事・鞨鼓・獅子等がある。 神社辞典 |
橘神社 橘は太知波奈と訓べし、和名鈔、(葉茂部)橘、(假字上の如し)○祭神弟橘姫命、日本武尊、忍山宿根、(地名記)○二宮庄本納村に在す、(同上〇玉手韻に、当社は橘比売命の御櫛を納めし処と、樋に語り伝ふと云り)例祭月日、〇日本紀、景行天皇40年10月、日本武尊、進相摸欲往上総望海高言日、是小海耳、可立跳渡、乃至于海中暴風忽起、王船漂蕩而不可渡、時有從王之妾、曰弟橘媛、穂積氏忍山宿根之女也、啓王曰、今風起浪泌、王船欲没、是必海神心也、願以妾之身贖王之命而入海、言吃乃披瀾入之、暴風即止船得着岸、故時人號其海曰馳水也、〇惣國風土記残欠云、橘神社、圭田二+五束七畝田、所祭住吉大明神也、舒明天皇4年壬辰9月、始奉圭田加神礼、有神家巫戸等、連胤按るに、風士記住吉神を祭るの説は、橘小戸に顯れます由緒に依れるか、されば取捨し難きところあり、猶よく考ふべし、 神位 三代実録、元慶元年5月17日丁巳、授上総國從五位上勲五等橘樹神正五位下、同8年7月15日癸酉、授上総国正五位下福神正五位上(福当作橘) 神社覈録 |
縣社 橘神社 祭神 弟橘比売命 相社 日本武尊 忍山宿禰 創建は景行天皇40年、日本武尊東征の際、尊の爲め妃弟橘比売命海に投ぜらる、尊深く哀悼し給ひ、慰物を納めて御墓を作り、祠を建て祭らせらる、即ち当社是なり、後ち同53年、景行天皇東幸の際、更に日本武尊及忍山宿禰を合祀せらる、爾來本納、法目二村の鎮守にして、当國五大社の一なるが、明治の始年縣社に列す。 社殿は本殿、拝殿、境内は1648坪(官有地第一種)及近く編入せられし二反二畝廿三歩の上地林より成る、老樹鬱蒼とし境池清洒、社殿の荘厳と相俟て近地稀に見る勝地たり、古来伝云ふ、祭神昼を忌み給ふと故に徳川幕府時代、狩の事ありといへとも、鷹を携へて当村を過ぎず、若し誤て過ぎんか、素鷹逃逸するか若くは暴死すと云ふ。 明治神社誌料 |