玉前神社
たまさきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】玉前神社 (名神大) 上総国 埴生郡鎮座
          (元宮)神洗神社

   【現社名】玉前神社
   【住所】千葉県長生郡一宮町一宮 3048
       北緯35度22分35秒,東経140度21分38秒
   【祭神】玉依姫命
   【例祭】9月10日 例大祭
   【社格】旧国幣中社 上総国一宮
   【由緒】景行天皇東幸の節御親祭という
       貞観10年(868)従四位下
       元慶元年(877)正四位下
       同8年(884)正四位上
       延久2年(1070)8月3日上総国一宮御託宣とある
       治承元年(1182)上総権介平広常社殿造営
       永禄5年(1562)里見頼義の兵火で焼失
       その後海部郡飯岡に逃れ15年遷座
       天正5年(1577)一宮に戻る
       同15年(1587)里見頼義神地寄進
       同19年(1591)徳川家康神田寄進
       貞享4年(1687)3月13日造営
       明治4年国幣中社

   【関係氏族】伊甚国造
   【鎮座地】玉前神社南方海岸寄りに元宮(旧社地)がある

   【祭祀対象】本来は美しい寄石を祀る
   【祭祀】
   【公式HP】 玉前神社
   【社殿】本殿権現造銅板葺
       神楽殿・斎館

   【境内社】十二神社
   【境内図】 境内図

この地は古くは海に囲まれた円形の岬の地であったと思われる。
本来は、玉依姫のほかに、玉前大神という別の祭神があつて主神のように思われる。
玉前大神は当地に始めて来着した氏族(伊甚国造)の祖神)ではないか。
当社の御神体は、近くの海辺に寄せ来つた美しい寄石(琉珀か)であつたと思われる。
一宮商業高校に隣接して観明寺という天台宗の寺院があり、江戸期以前には玉前神社の別当寺であつた。


玉前神社

ご祭神 玉依姫命
玉依姫命は海(龍宮)よりこの地におあがりになり、姉神豊玉姫命より託された鵜茅葺不合命をご養育、後に命を結婚されて初代天皇神武帝をお産みになられました
ご祭神が私達の生活全般をお守りくださるのは勿論ですがわけても安産・子育てのお働きに象徴される女性の守護神として、また「龍宮」の意味する豊かさや喜びをもたらし男女をはじめ人のご縁を結ぶ神として古くより信仰されています。
ご由緒
創始は古く詳らかではありませんが、延喜式内名神大社、また上総国一ノ宮として平安時代にはすでに日本の中でも重きをおくべき神社とされていました 明治4年には国幣中社に列しています
昭和23年に当時皇太子であられた今上陛下がご参拝、同28年には昭和天皇、平成4年には今上陛下より幣饌料を賜りました
また千葉平氏上総権介平朝臣広常をはじめ、源頼朝の妻の北条政子懐妊に際して安産祈願の奉幣、徳川家康が神田十五石を寄進するなど武門の崇敬も多く厚いものでした
ご例祭
9月13日 ご例祭と神幸祭
大同2年(807)に始まったと伝えられる当地方で最も古い浜降神事です 「上総の裸祭」といわれ、ご祭神由縁の釣が崎海岸に十二柱の神々が集われる壮大な祭儀です 裸の男達が神輿を奉じて九十九里浜を疾走します
文化財
国指定重要文化財「梅樹双雀鏡」県指定有形文化財「玉前神社社殿」などがあり県指定無形民俗文化財「上総神楽」は300年の伝統をもち現在でも年7回奉納されています

社頭掲示板



玉前神社

千葉県指定文化財 玉前神社社殿
    附 棟札 (貞享4年3月・貞享4年8月在銘)
平成8年3月22日指定
 玉前神社は、玉依姫命を祭神とする「延喜式」神名帳にも見える古社で、「三代実録」にも記録される由緒ある神社である。鎌倉時代には上総一宮としての格式を保っており、北条氏、里見氏の天生の変で罹災し、天正10年(1582)里見義頼により再建されたと伝える。
 現在の建物は、江戸中期の貞享4年(1867)に、本殿が大工棟梁大沼権兵衛、拝殿と幣殿は井上六兵衛によって竣工された。
 本殿は、桁行三間、梁間二間、一間の庇を付ける入母屋造りである。拝殿は、桁行五間、梁間二間の入母屋造りで、正面に向唐破風を付ける。幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ建物で、桁行四間、梁間一間の規模である。全体が複合社殿(権現造)となっており、屋根は寛政12年(1800)に現在に見られるような銅版葺に改められている。
 県内でも余り例を見ない様式を残す社殿は、社格とその歴史を今に伝えている。

社頭掲示板



玉前神社

上総国一宮 玉前神社
御神徳【御祭神-玉依姫命】
一宮海岸は元旦の初日の出を最も早く拝むことが出来ると多くの奉拝者が訪れますが、このことが当社のご祭神と深い関わりを持っています。
玉前の玉は「月」「日」の神霊を表わしていて、玉の浦遥か海中より出顕する日の神霊・月の神霊の二つの明かる玉をご祭神としてお祀りしています。
「古事記」には海神豊玉姫命が夫の日子火火出見命の故郷の海浜で御子の鵜茅葺不合命をご出産の後、妹の玉依姫命にその御子の養育を託して海へ去られたことが記されています。その時、豊玉姫命は
「赤玉は 緒さえ光れど 白玉の
   君が装し 貴くありけり」
と、詠まれました。
その身に潮の干満を司る「白玉」即ち月の神霊を宿し神のお働きを示顕する巫女となって、生れたばかりの「赤玉」即ち旭日の神霊である鵜茅葺不合命をその身に抱いた貴方は貴く美しいという祝の歌を玉依姫命に贈られたのです。
巫女玉依姫命によって鵜茅葺不合命の旭日の働きである清新・発祥・開運・再生等物事の新しく始まる事象をご守護くださり、潮や水にまつわることまた人の精神や女性の出産・養育・月の物など神秘的な身体の作用は玉依姫命ご自身のお力に依るご守護であります。
太陽と月の引力が同じ方向に並ぶ陰暦の一日と十五日は大潮になり、この日には月並祭を行なう習わしもこれによるものです。
後に玉依姫命は鵜茅葺不合命と結婚され初代天皇神武帝をご生誕なされたと伝えています。
御由緒
槙の巨樹に囲まれた古社玉前神社は昔は玉の浦と称していた九十九里浜の南端釣が崎海岸あたりがご祭神の由縁の地とされています。
温暖な気候と海山の幸に恵まれ早くから人の営みがあり、神話や伝説が数多く生れ受け継がれてきました。
当社は延喜式内名神大社に列し、古来上総国一ノ宮として関東に於ける名社であり、明治四年には国幣中社に列しています。
皇室のご尊崇はもとより武門武将の崇敬も厚く「吾妻鏡」には源頼朝公が妻政子の懐妊に際し安産を祈願奉幣したと伝え、また当地を支配していた上総権介平広常が治承元年(1182)頼朝の武運長久を祈って甲冑一領と社殿の造営奉納などの願文を献じましたが、この広常が誤解により寿永2年頼朝に殺されたため、当社の神官がその願文と甲冑を鎌倉に差し出し訴え出たところ、頼朝は広常の死を後悔し一族の所領を回復したこともみえ、広常の当社への篤い信仰心を示した事件といえましょう。
戦国の世永禄5年(1562)一宮城主内藤久長が里見義頼に敗れたとき当社も兵火に罹り社殿を初め宝物・文書類も焼失、海上郡飯岡に逃れ15年遷座していましたが、天正5年(1577)一宮に戻られ同15年里見義頼が神地を寄進し、同19年には徳川家康が神田十五石を寄進するなど武門を初めとする崇敬は並々ならぬものがありました。
今は一宮町を初め近在の町村の氏神として慕われると共に、関東一円から祈願・参拝をする人々の姿は絶えません。
御例祭
9月10日 鵜羽神社御迎祭
鵜羽神社は隣町睦沢町岩井にあり、玉依姫命が鵜茅葺不合命の養育と成長を願って御祖の神日子火火出見命と豊玉姫命をお祀りしたといわれています。
鵜羽神社の例祭ののち二柱の神輿を当社へお迎えするのが御迎祭で、このご神幸は神代より伝わる龍宮臨幸の儀式といわれる古儀であります。(今は三年に一度の出御となっています。)
二基の神輿の到着後「おほり」「龍形餅」「かすかみ」など一社伝来の神饌が輿に供えられ殿内に輿をいれて親と子の神々の対面となる「御霊合せ」という珍しい儀式が行なわれます。この日は上総神楽も奏され、午後からは子育てのご神徳にあやかり稚児行列の社参や玉依姫命の乳母の乳といわれる甘酒の振る舞いがあります。
・9月13日御例祭と神幸祭
大同2年(807)創始と伝えるこの祭は玉依姫命とその眷族の神々がその由縁の釣が崎海岸に年に一度再会されるという壮大な儀礼です。
午前10時から神社本庁よりの献幣使参向のもと例大祭が厳かに行なわれ、午後1時からの神幸祭は「十二社祭」「上総の裸祭」ともいわれ、その圧巻は裸の男達200余名が大宮・若宮二基の神輿を奉じて九十九里の大海原を背に渚を踏みつつ疾走するところでしょう。当社を初めご祭神由縁の神々を奉じた十基余りの神輿が夫々の鎮座地より釣が崎の斉場へ集われ、神事の後別れを惜しみつつ一宮町内を練り午後7時半すぎには本社にお戻りになられて祭儀は終了します。
文化財
・国指定重要文化財「梅樹双雀鏡」一面
若草の萌える砂浜に流水と老梅その幹に二羽の雀が戯れる姿に尾花一株を添えた、日本的趣向にあふれた和鏡で鎌倉期の作です。 ・町指定文化財「色々威腹巻具足」一領
天保14年(1843)一宮藩主加納久徴が奉納したもので、社伝によれば楠正成等英雄豪傑の具足をあつめ一領に仕立てたとあります。
・同「里見義頼寄進状」一葉
永禄の戦火に罹り飯岡へご遷座の後、房州里見氏がその支配地一宮の本宮地を寄進したときのものです。
・同「玉前神社社殿」一棟
貞亨4年(1689)の建築で、正面は大唐破風、流れ入母屋権現造りで、本殿、幣殿・拝殿と連なり黒漆塗りで重厚で荘厳な雰囲気を漂わせています。
・同天然記念物「槙の群生」
千葉の県木イヌマキの大小20本余りが群生し、欝蒼としてお宮の杜を構成しています。
・白鳥の井戸
日本武尊の東征伝説に因む井戸で「井華水」と呼ばれ、ご神水を汲む人が多く参詣されます。
・県指定無形民俗文化財「上総神楽」
宝永7年(1710)に神楽殿を造り神楽を奏したと記録にあり、江戸土師流の神楽を伝授されたと伝えています。
元は三十六座ありましたが、今では十数座のみとなっています。神楽師は保存会を結成しその伝統の継承に努め年に7回の祭事に奉仕しています。

由緒書



玉前神社

一宮町は房総半島九十九里浜の最南端に位置し、一年を通して寒暑の差が少なく温暖な気候に恵まれた土地で、縄文弥生の頃から人々の営みがあったことが遺跡や貝塚などによって明らかにされています。
 歴史の古いこの一宮町の名称の由来となった玉前神社は上総国にまつられる古社であり、平安時代にまとめられた『※1延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』では名神大社(みょうじんたいしゃ)としてその名を列せられ、全国でも重きをおくべき神社として古くから朝廷・豪族・幕府の信仰を集め、※2上総国一ノ宮(かずさのくにいちのみや)の格式を保ってまいりました。
 しかしながら永禄年間の大きな戦火にかかり、社殿・宝物・文書の多くを焼失しており、ご創建の由来や年数また名称についてなど明らかにされていませんが、毎年9月10日から13日に行われるご例祭には少なくとも1200年の歴史があり、移りゆく時代に少しずつその形を変えながらも、古代からの深い意義を連綿と守り伝えてきたことを何よりの宝物として、この郷の人々と共に大切にしています。
 「上総の裸まつり」「十二社まつり」と称されるこのお祭りは房総半島に多く見られる浜降り神事の代表として広く知られ、壮大な儀礼をひと目見ようと、関東一円から大勢の人々が集います。
≪ 解 説 ≫
※1) 延喜式  
平安時代初期“延喜”の時代にまとめられた国家の法制の細目を定めた書「延喜式」50巻のうち9・10巻が「神名帳」とよばれる。
※2) 上総国一ノ宮
平安時代から中世の頃にできた一種の社格で、その国々において由緒の深い神社、信仰の厚い神社などおのずと序列ができその首位にあたるものが「一の宮」とされたようです。
名称の由来
御祭神に由来するという説、九十九里浜を古くは「玉の浦」とたたえ太東崎を南端とするところから玉崎(前)となったと云う説など諸説があります。
由緒 | 祭神 
 玉依姫命(たまよりひめのみこと)
 神話『古事記』には海神・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)が夫・日子火火出見命(ひこほほでみのみこと)の故郷の海浜で御子・鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を出産の後、妹の玉依姫命にその御子の養育を託して海へ去られたことが記されています。
赤玉は 緒さえ光れど 白玉の 君が装いし 貴くありけり※2
 豊玉姫命は祝いの歌を添えて御子を玉依姫命に託されました。玉依姫命は陰となり日向となって赤ちゃんを守りお育てになる乳母(老いては姥)神様となられました。
ご神徳と信仰
鵜茅葺不合命の旭日の働きである清新・発祥・開運・再生などの物事の新しく始まる事象が玉依姫命によって守護されるといい、人の精神にかかわること、縁結び、また子授け・出産・養育・月の物など神秘的な女性の心身の作用は、※3月のお働きをされる玉依姫命ご自身のお導きによるものと言われ、古くは源頼朝婦人政子が懐妊の際、安産の祈願をしたことが広く知られています。また縁結びは男女の縁ということだけではなく人と人の縁を結ぶとして商売や事業に関わる祈願をされる方が多いようです。
また玉前神社には方除けのご祈願・吉方参りの参拝者が多く訪れます。ご祭神のご神徳と共に日本の東の端に位置する神社としての信仰があります。
≪ 解 説 ≫
※1) 玉依姫命
平安時代の法制書「延喜式」をはじめとして当社のご祭神は玉依姫命のみとされてきましたが、古社記には鵜茅葺不合命のご神名が併記されています。
  また日の御子のご神徳に関わる信仰も厚いこと、1200年以上続く神幸祭(十二社まつり)では玉前神社から大宮・若宮の2基の神輿が出御されることなどから鑑みて、ご祭神に関しての考証がなされているところです。
※2) 玉の信仰
古代の人々は海から寄せられた石に霊力を感じ、これを光り輝く神として祀っていました。
  九十九里浜地方に見られるこのような寄石伝説が一宮では明(あか)る玉(珠)の伝説として多く伝えられています。
● 一宮に汐汲みの翁がいて、ある早朝海辺で汐を汲んでいると東風(こち)が吹いて波間に光る12個の明(あか)る玉が現れた 翁が持ち帰ると夜になってピカピカ光を放つのであわてて玉前神社の神庫に納めたという。
● 8月12日の晩に一宮の五兵衛という男に夢のお告げがあり、次の朝弟と海に行くと、東風が吹いて光る錦の袋が流れてきた 兄弟はその袋を拾い上げ持ち帰って中を見ると、袋の中に光る珠が入っていたので神社を建て、その珠を納め、風袋(ふうたい)姓を名乗ったという その珠が12個あったともいい、珠を納めた神社が玉前神社であったともいわれいる。
玉前神社のご例祭で12社の神輿が釣ヶ崎の海辺に会合するのはこれら12個の珠の説によるものともいわれ、このような12個の珠が2個の説、1顆の説もあります。
※3) 月のお働き
月の満ち欠けが潮の満ちひきを司っていることはよく知られています 人間の身体は7割が水分といわれ、潮の干満と同じく人もまた月の影響を強く受けて、感情の起伏や身体のリズムが生じ、新月と満月は殺人や事故が多いことも警察・病院・消防等の調査で明らかになっています。 とりわけ女性の身心にはわかりやすく表れ、月の満ち欠けと同じサイクル29.5を平均値として「月のもの」が訪れ、この事が妊娠という最も神秘な働きにつながります。 満月の日に出産が多いということも古くから言われており、現在でも証明されているとのことです。 太陽と月が一列に並ぶ新月と満月の1日と15日は大潮になり、この日に月並祭が行われる習わしが現在でも続いています。 現在、玉前神社ではご例祭日にちなんで13日に行っています。

公式HP



国幣社玉前神社

長生郡(舊長柄郡)一宮町大字一宮本郷字宮ノ臺に在り、境内1650坪、祭神は玉依比賣命なり。社傳に云ふ、景行天皇東幸の時親察せらると、或は云ふ、創建は其の以前にありと。貞觀10年7月從五位上勲五等玉前神に從四位下を授け、元慶元年5月正四位下を授け、同8年正四位上を授けらる。延喜の時名神大社の列に入る、壽永元年7月平廣常甲一領神田二十町を寄附す、永禄5年一宮城陥落の時兵變に罹り神寶古文書等焼失して事歴を詳にすること能はず。天正10年里見義ョ社地を寄せ、同19年11月徳川家康社領十五石を寄附す、明治4年6月国幣中社に列せらる。古来近郷舊十二村(一宮本郷・小瀧・川須ヶ谷・上市場・川島・岩沼・水口・藪塚・北水口・大芝・木崎・谷本)の鎮守にして、例祭は9月13日なり。什寶には神劔・太刀・翁面・猿田彦面・大山祇面・食椀・神盃等あり。天保年中領主加納久徴平廣常寄附の甲冑存在せざるを惜み、楠正成・武田左馬頭等の用ひたる古物を集め甲冑一領を製して之を寄す。境内に十二座あり。

稿本千葉縣史



玉前神社

たまさきじんじや 千葉県長生郡一宮町一宮。旧国幣中社(現、別表神社)。祭神は玉埼神(玉依姫命)。玉前大明神ともいう。
貞観10年(866)に従五位上勲五等から正五位下に叙し、元慶8年(884)には正四位上にいたり、延喜の制、国幣の大社名神に列している。のち上総国一の宮とされ、治承6年(1182)に上総介広常が甲一領を献じ、源頼朝のために霊佑を乞い、祈願成就の暁には、三年の間に神田二〇町を寄進し、社殿の造営をし、万度の流鏑馬を行うと約し、その祈願文を納めている。また養和2年(1182)に、頼朝の妻政子が安産祈願のため、伊豆・箱根とともに幣使を立てている。天正10年(1582)安房の豪族里見義頼は宮地を寄進し、同19年に徳川家康は神田一五石を寄進した。このように関東武将の尊信が篤かったが、永禄年間(1558−69)に北条・皇見両氏の闘争の地に当たり、古記・宝物類を失ってしまっている。
例祭9月13日。当日は二基の神輿が東波見村釣ケ崎海岸に渡御し、付近12社の神輿と会合する古式があり、現在ははだか祭とも十二社祭とも称されている。その他、桃節句祭(3月3日)、神田播種祭(4月中旬)、春季祭(4月13日)、端午節句(5月5日)、宮薙祭(7月14日)、風鎮祭(8月28日)、鵜羽神社迎祭(9月10日、13日)、御立祭(9月30日)、氏子太々祭(11月2日)などの特殊神事も多い。末社に一二神社がある。社殿は本殿・幣殿・拝殿を工字型に結合した権現造で、屋根は銅板葺、総体は漆塗である。本殿は正面が三間、側面が二間、切妻造平入の身舎に正面三間の向拝を鎚破風に付した形。幣殿は正面が一間、奥行が四間。拝殿は正面五間、側面二間で正側三方回縁は正面に一問の向拝を向唐破風造に設けている。なお梅樹双雀は重要文化財に、また御神楽は県無形文化財に指定されている。

神社辞典



玉前神社 名神大

玉前は多麻佐岐と訓べし○祭神前玉命(頭注)〇一宮本郷村に在す、今長柄郡に属す、(地名記)例祭月日、〇当国一宮也(一宮記)〇式三(臨時祭)名神祭二百八十五座、上総國玉前神社一座、〇旧事紀、(神代本記)振魂尊児前玉命、掃部連等祖、
神位、
三代実録、貞観10年7月27日戊午、授上総國從五位上勲五等玉埼神從四位下、元慶元年5月17日丁巳、授上総國從四位上勲五等玉埼神正四位下、同8年7月15日癸酉、授上総国正四位下勲五等玉崎神正四位上、
託宣
古今著聞集云、延久2年8月3日、上総國一宮の御託宣に、懐妊の後既に三年に及ふ、今明王の國を治むる時にのぞみて、若宮を誕生すと仰せられけり、これによりて海濱を見ければ、明珠一顆ありけり、御正体に違ふ事なかりける、
雑事
扶桑見聞私記廿五云、元暦元年正月8日、上総國一宮神主等申テ云、小櫻盛也(廣常ガ納タル鐙也)一封ノ状ヲ高紐ニ結付タリ、願書二云、敬白上総國一宮宝前云々、治承6年7月日、上総権介平朝臣廣常、

神社覈録



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