渋川神社
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   【延喜式神名帳】渋川神社 河内国 若江郡鎮座

   【現社名】渋川神社
   【住所】大阪府八尾市植松町3-3-6
       北緯34度36分58秒,東経135度35分50秒
   【祭神】天忍穗耳尊 饒速日尊 国狹槌尊 日高大神 菅原大神
         後者の三神は明治5年4月16日の時の合祀神である
       『大日本史神祇志』天忍穂耳命 饒速日命
       『河泉神社記』「所祭未詳、俗称天忍穂耳命、饒速日命」

   【例祭】10月16日 秋季大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】用明天皇2年(587)物部守屋渋川の家で防戦
       天文2年(1533)洪水で社殿押し流され、後川の西の御旅所に社殿を移した
       近世は渋川郡植松村の氏神として天神社と呼ばれた
       明治6年(1873)郷社

   【関係氏族】物部氏との関係不詳
   【鎮座地】もとは長瀬川の北岸安中の東部字川向の屋敷にあった
       天文2年(1533)洪水で社殿が押し流され
         その後川の西の御旅所に社殿を移した

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天神社」と称していた
   【公式HP】 渋川神社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・神饌所・絵馬堂・手水舎・社務所・参集所

   【境内社】稻荷神社・大神社・春日神社・嚴島神社・浮島神社・琴平神社
   【宮寺】天神社の南にあつて、真言宗の無本寺であつた。
       現在、鳥居のすぐ外の社務所になつてゐるところが、旧宮寺のあつたところである。


八尾駅南の街中に鎮座する。 式内社でもとは長瀬川の東岸にあり、龍華寺と並んで鎮座していたという(安中小学校東方)。天文2年(1533)の大洪水で流失、元亀3年(1572)お旅所のあった現在地に移されたという。
この地は物部氏の一族の居住した場所と考えられており、用明天皇の2年(587)、天皇の死後起きた蘇我馬子と物部守屋の戦争の時、守屋は渋川の家で防戦したとある。
金剛寺本の記載様式からみて、弘仁式のときからの官社であることがわかる。
中世には龍華寺の僧侶が祭祀をしていたと伝える。
近世は渋川郡植松村の氏神として天神社と呼ばれていた。
神宮寺は天神社の南にあつて、真言宗の無本寺であつた。
境内東北隅に大樟樹がある。樹高約16mあり、樹令は千年という。昭和24年5月9日、大阪府の天然記念物に指定された。


渋川神社

式内社で天忍穗耳命饒速日命をまつる。もとは長瀬川の東岸にあったが、天文2年(1533)の大洪水で流失、元亀3年(1572)現地へ移されたという。
この地帯一帯は、物部氏の住地でこの社は古くは竜華寺の鎮守であったという。鳥居前の観音堂は昔の宮寺の一部で、境内にある樹齢1000年という大樟樹は、玉祖神社(神立)善光寺(垣内)のそれとともに大阪府指定の天然記念物である。
八尾市教育委員会

社頭石碑



渋川神社

御祭神
天忍穗耳命
饒速日命
国狹槌命
日高大神
菅原道真公
由緒
当社は延喜式内社にて大和川の東側なる字川向(若江郡)に鎮座なりしがその地年々に水害を蒙り殊に天文2年5月5日の水災は社殿その他の全部を流失せしめに依り後社の御幸地の現在の地に社殿を移すに決し、元亀3・4年の頃竣工す。往時物部・中臣・忌部連等の一族官位を授りて奉仕し、之を宮田と称し宮田を置きてその収得米を以て祭祀の費用社殿その他の修理に充当なり。中世よりは竜華寺の僧侶祭祀を助けしも天文2年同寺廃絶の後元亀3・4年の頃より社地内に宮寺興りて之を継ぎ祭祀を掌りしが明治維新後の神仏分離に依りて寺は廃絶し現在に及ぶ。

社頭掲示板



渋川神社

御由緒
御祭神 天忍穂耳尊、また饒速日命は物部氏の祖神といわれ、物部氏の本貫地が、河内国の八尾周辺であったことから、当社に祖神がまつられたと考えられます。
 創建の時期は詳びらかではありませんが、天平勝宝8年(756) 2月孝謙天皇から稲穀を賜る(続日本紀) とあり、延喜式(927) には、河内国若江郡に澁川神社二座とあって古代より澁川神社として祭祀されておりました。
 とりわけ当地は旧大和川水系にあって、度重なる洪水にみまわれ、水難を免れることが悲願でありました。そのため川を治める水神としても崇められてきました。
 中世では植松大明神としてその神威を讃えられ(恒例修正月勧請神名帳)、近世では天神社として村民に親しまれてきました。
 夏祭りは七月二十六日に行われますが逆祭(さかさまつり) と呼ばれています。逆祭と呼ばれるのは他社のお祭と異なり、宵宮祭を後縁祭、後縁祭を宵宮祭と唱されるからであります。
その起りは天文年間の水害時、社殿が流失し、御神体が渦に巻かれて水上を逆流したことからで、順序顛倒の意味から逆祭と呼称されるようになったといわれます。
沿革
 宝永元年(1704) 柏原市で大和川が付け替えられるまで、大阪湾に注いでいた旧大和川は、永年の土砂が堆積して天井川と化し堤防決壊、洪水の頻度が高くなっていました。
 「天文2年(1533)5月5日の暁の水害に竜華堤字大門と称する処より切り込み、 民家流失を言うも更なり。氏神社も流失して二柱の神体、水化より水上に袱くれに流れ上がるを、氏人の一族漸くにして抱え揚げ奉護をなせり」(植松・林家文書) とあるように、天文2年の大洪水は極めて激しかったようであります。
 それまでは元の社殿は旧大和川の右岸(東側) に当たる川向(若江郡) 現在の安中小学校東南附近に鎮座されておりましたが、この洪水により社殿は言うまでもなく、民家も多く流失しました。
 これを機に植松村は旧大和川右岸の若江郡から左岸の澁川軍に移転し、それに伴い神社も元亀3、4年頃(1572) に、御幸地のお旅所のあった現在地に遷宮になったと言い伝えられています。
 慶長17年(1612) の「植松村慶長検地帳」には、字「ふしおがみ」の地に宮田が一反四畝あったと記録され、また元禄2年(1689) の「元禄検地帳」には字「大門」に、七畝八歩の東の宮田と、七畝七歩の西の宮田があったと記録されます。その作得米をもって祭祀の費用や社殿の修理費に充ててきました。
 中世以来の当社宮座の人々は十三軒(西組) でしたが、寛文9年(1669)から新たに二十二軒が東組として宮座に参加いたしました。以降、東と西の宮座が共同して宮田を耕作してきました。
そして8月25日には西方によって9月25日には東方によって「湯立」等の神事のある祭祀が行われてきました。
 天文2年の大洪水により廃絶した竜華寺(称徳天皇行幸) にかわって当社境内に神宮寺と称せられる宮寺が設けられ、宮寺の社僧によって、当社が管理されていた時代もありました。 宮寺は明治維新の神仏分離令によって神宮寺観音堂として現在の位置に移され、当社はふたたびあらためて澁川神社と改称されました。
 明治6年には澁川郡の郷社に列せられ、更に明治40年には神饌幣帛量供進神社の指定をうけました。

公式HP



御神木の由来

この大銀杏は、渋川神社のシンボルとし、氏子各位より愛され、育てられ、樹齢約350有余年の名木となった。
昭和52年7月28日 午後7時20分時の大落雷により、頂部は焼損した。
その後の老朽により、頂部落下の危険性があるので、平成6年3月2日地上約1.5mあたりで、切断し、上部に銅板冠をかぶせ、しめ縄を巻き、御神木とし永久保存することにした。
平成6年12月吉日 渋川神社 氏子総代会

社頭掲示板



郷社 澁川神社

祭神  天忍穂耳命 饒速日命 日高大神
 國狭槌命 菅原道眞
創立年紀詳ならず、醍醐天皇延喜の制小社に列せられ、河内国若江郡二十二座の内に加へらる、祭神は中古不詳となりて未だ確説なけれとも、社號を渋川と称するより、或は水の神なるべきかといひ、或は一書に書紀の崇峻紀に「秋七月蘇我馬子宿根大臣勧諸皇子與群臣謀滅物部守屋大連云々倶率軍兵從志紀郡到渋川家」とあり此時蘇我氏の族は河内国に住めりし故に、大臣の家も其澁川の地にありしとみえ、又姓氏録河内皇別に「蘇何孝元天皇々子彦太忍信命之後也」とあるを合せ考ふれば、蘇我氏の祖彦太忍信命武内宿根命などを祭れるかといへど、素より確証あるに有らす、神祇志料の如きは社傳のまま天忍穂耳、饒速日二神を採れり、尚考ふべし、日高大神以下の三神は明治5年同郡安中村日高社及び同村字晒し比枝社の合併によりて加はり給へり、明治5年郷社に列す、境内1900余坪(官有地第一種)社鍛は本殿、拝殿、絵馬舎、社務所、門等の建物を備ふ。

明治神社誌料



澁川神社二座

澁川は之不加波と訓べし○祭神詳ならず○今澁川郡植松村に在す、今天神と称す、(河内志、同名所図会)

神社覈録



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