神社の南側を流れる穂谷川の流域は、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡の点在するところで、一、二世紀ごろより拓けた地域であつた。 往古、この附近は交野ケ原と呼ばれ、王朝時代大宮人の遊猟の地として歌枕になり、 また、桜の名所で世に聞こえたところでもある。 社伝によれば、垂仁天皇の時、野見宿彌が当麻蹴速を角力で破った功によりこの地を賜って、須佐之男命を祀ったとある。 豊臣秀吉は大阪築城の際には艮(東北)の方位にあたる此の社を、鬼門鎮護の社と定めて尊崇した。 古くから「一の宮牛頭天王」と称されていた。 |
片埜神社 方除社河州一之宮片埜神社略記 交野台地の一角、牧野阪に鎮座する当社は、延喜式内社の古社であり、素盞嗚尊、菅原道真公を主神として他十一柱の神々を奉祀している。 約二千年前、第十一代垂仁天皇の御代に出雲の国の豪族「野見宿禰」が河内国を拝領し、出雲の祖神「素盞嗚尊」をこの地に奉斎して、土師氏の鎮守としたのが草創である。 その後、欽明天皇の勅願をもって「片野神社」と称し、平安中期の村上天皇天徳4年に野見宿禰の後裔「菅原道真公」を併祀した。平安時代は広大なる神域神領と宏壮な社殿を有し、官幣の社として社運隆盛を極めたが、戦国の争乱で幾度かの兵火にあい荒廃していたのを、豊臣秀吉が修築した。大阪築城の際には艮(東北)の方位にあたる此の社を、錦城の鬼門鎮護の社と定めて尊崇し、今も天主閣石垣に刻んだ鬼面と当社が一線に結ばれ相対している。さらに慶長7年(1602)、豊臣秀頼は片桐且元を総奉行として、本殿、拝殿、築地、経堂、別当などを大造営した。現在の本殿、南門、能舞台がそれである。特に本殿は、桃山建築の粋として、国の重要文化財に指定されている。 往古、この附近は交野ケ原と呼ばれ、王朝時代大宮人の遊猟の地として歌枕になり、また、桜の名所で世に聞こえたところでもある。「落花の雪に踏迷う片野の春の桜がり」とある太平記の一節は、ここ交野ケ原を詠んだものである。なお、「交野の御社」「一ノ宮」と尊称されて来たこのお社は、河内国の北部地方における第一の名社で、桃山時代より、大阪鬼門除・方位・厄除等で知られ、特に家相方位の守護に霊験あらたかな神様として、一般に尊信厚く、遠近からの祈願者が跡を絶たない。 「註」本社は中・近世に専ら「一ノ宮(河州一ノ宮・河内一ノ宮・牧一ノ宮)」又は「一宮牛頭天王(近世)」と称し、正式社名としていた。「片埜神社」の社名を復活したのは明治以降である。なお、本神社を「一ノ宮天王社」とした記述(錯誤記述)があるから注意を要する。一ノ宮天王社とは近村に別に存在していた神社である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
片埜神社 片埜神社の由緒 平安時代には貴族の狩猟の地として歌枕になり、また、風光明媚な桜の名所として世に知られ、しばしば王朝文学に登場した交野ヶ原の一角に、片埜神社はあります。延喜式内の古社で、建速須佐之男大神と菅原道真公を主神として11柱の神々を奉斎しています。 神社略史 第11代・垂仁天皇の御代、出雲の豪族・野見宿禰(土師・菅原氏の祖)が当麻蹴速との戦いに勝ち、河内一帯を賜りました。そして、当所、阪の地に、出雲の神様「建速須佐之男大神」を奉鎮し、土師氏の鎮守としたのが始まりです。のちに、欽明天皇の御代に勅により「片野神社」と号しました。 用明天皇の御代、聖徳太子のご懇情により社殿を造替えるとともに、別に一宇を建立して帝釈天、四天王等を祀らせ給うと伝えられています。この時を以て、当社は神仏混淆の形態となります。 平安時代の延長5年に延喜式内社に列せられ、その後も勅願所として宮中より、毎年仲春祈年祭に鍬靱各一口が供進されています。 天徳4年には、野見宿禰の裔・土師の出である菅原道真公を併祀。御本殿の形態は、須佐之男大神と菅原道真公を左右相殿(同格)に祀り、中央を「合いの間」(空間)とした連結社殿でした。これは当社がもともと出雲・土師の神である事をもの語り、慶長7年(1602)修築時の本殿棟札にある「夫河州牧郷一宮牛頭北埜二天同居而・・」の文もこれを裏づけています。 鎌倉時代の末期、元弘建武の兵火に罹って社殿の悉くを焼失しましたが、室町中期になると、禁中から、吉田家によって荘厳な儀典が執り行われ社殿が再建されました。しかしながら再び、天文・永禄年間に、三好・松永らの戦いによる兵火に見舞われること数回、社殿をはじめ旧記宝物の悉くが灰燼となりました。 天正11年、豊臣秀吉公が大阪城築城の際、鬼門の方角に位置していた当社を大阪城鬼門鎮護の社と定めて尊崇、修築します。当社が大阪の鬼門除け、方除け社として世に知られる様になるのはこの時からで、さらに慶長7年には豊臣秀頼公が片桐且元を総奉行として復興、本社を大造営させました。現在見る本殿、正門、築地塀はこの時のもので、本殿は現在、国指定の重要文化財となっています。 当社神宮寺の真言宗「誓願寺」は江戸時代まで存在し、盛時には新坊、中坊、東坊、南坊、泉蔵坊、角坊の六坊があり、社務職と共に供御に任じていました。しかし、明治時代の神仏分離によって廃寺となり、帝釈天像、薬師如来像、四天王像、地蔵菩薩像等が神社北方にある融通念仏宗「清岸寺」に預けられました。 明治時代の当社は、明治5年に郷社に列し、同40年に神饌幣帛料供進社に指定されています。同42年、近郷諸社の御祭神を合祀するに当たり、神座に不足をきたしたので、御本殿中央の「合いの間」に新たに神座を設けて三間社となりました。その時、中央の御扉のみ素木造として他の朱漆塗りと区別し、もとは須佐之男大神と菅原道真公の二神を相殿に祀った由緒を今に伝えています。 *当片埜神社を「一之宮天王社」と表記する記述が巷でみられますが、「一之宮天王社」とは当地の近隣に鎮座し、用明天皇朝に当片埜神社の御分霊 を勧請したという、当社とは別個の神社の事です。 古文書にみる当片埜神社の江戸期の呼称は「一之宮牛頭天王」となっています。 社名について 欽明天皇の時代に「片野神社」と称された当社は、延喜式(927)にも「片野神社」と明記されています。しかしその後の古文書、石造物等には「河内(河州)一宮」「牧(郷) 一宮」或いは江戸時代の「一宮牛頭天王」と書かれており、「片野神社」の名を見つけることができません。明治の王政復古の際、社名が「片埜神社」と定められるまで、長きにわたって、一宮の名が使われてきたと思われます。 当社の「一宮」の称の発生時期を調べてみると、室町中期の「宮内大輔重部卿文書(神社所蔵)」に「交野郡牧之郷一宮」とあり、また、「菅原阿曾美正長識(神社所蔵・長保〜寛弘年間999〜1011)」には「所称交野神社亦一宮是也」の記述があり、平安中期の末頃には「一宮」と呼ばれていたようです。よって、平安中期の末頃から中世・近世を通じて明治時代に入るまで約800年以上の間、一の宮という社名を使ってきたことになります。旧交野郡には他に二ノ宮神社(枚方市船橋)、三之宮神社(枚方市穂谷)が鎮座しています。 公式HP |
片埜神社 延喜式内 河内一之宮 片埜神社(旧郷社) 大阪府枚方市牧野阪 (旧河内国交野郡牧郷坂村) 鎮座 御祭神 建速須佐之男大神 (方除厄除病難除の神) 菅原道真公(知恵学問の神) 外十一柱 祭日 春祭(例祭) 4月15日 秋祭(例大祭) 10月15日 お火焚祭 12月13日 えびす祭 1月9・10・11日 由緒 交野台地の一角、牧野阪に鎮座する当社は、延喜式内社の古社であり、素盞鳴尊・菅原道真公を主神として他十一柱の神々を奉祀している。 約二千年前、第十一代垂仁天皇の御代に出雲の国の豪族「野見宿禰」が河内国を拝領し、出雲の祖神「素盞鳴尊」をこの地に奉斎して、土師氏の鎮守としたのが草創である。 その後、欽明天皇の勅願をもって「片野神社」と称し、平安中期の村上天皇天徳4年に野見宿禰の後蕎「菅原道真公」を併祀した。平安時代は広大なる神域・神領と宏壮な社殿を有し、官幣の社として社運隆盛を極めたが、戦国の争乱で幾度かの兵火にあい荒廃していたのを、豊臣秀吉が修築した。大阪築城の際には艮(東北)の方位に当たる此の社を、錦城の鬼門鎮護の社と定めて尊崇し、今も天主閣石垣に刻んだ鬼面と当社が一線に結ばれ相対している。 さらに、慶長7年(1602)豊臣秀頼は片桐且元を総奉行として、本殿・拝殿・築地・経堂・別当などを大造営した。現在の本殿・南門・能舞台がそれである。特に本殿は、桃山建築の粋として、国の重要文化財に指定されている。 往古、この附近は交野ヶ原と呼ばれ、王朝時代大宮人の遊猟の地として歌枕になり、また、桜の名所で世に聞えたところでもある。「落花の雪に踏迷ふ片野の春の桜がり」とある太平記の一節は、ここ交野ヶ原を詠んだものである。なお、「交野の御社」「一ノ宮」と尊称されて来たこのお社は、河内国の北部地方における第一の名社で、桃山時代より、大阪鬼門除・方除・厄除等で知られ、特に家相方位の守護に霊験あらたかな神様として、一般に尊信厚く、遠近からの祈願者が跡を絶たない。 文化財 本殿(重要文化財桃山時代) 三間社流造 檜皮葺。慶長7年(1602)豊臣秀頼が再建(片桐且元自筆の棟札を蔵す)した朱漆塗、極彩色と飾金具の美しい社殿である。一間社流造二棟を合の間で連結した大型社殿の好例で、虹梁や木鼻、勾欄、妻飾等細部は桃山時代の様式手法を示し、殊に四面を飾る刳抜蟇股は輪廓や内部彫刻によく時代の特色を現わしている。 中でも東妻の大蟇股“太閤桐”は透逸である。 石造灯籠(府文化財鎌倉時代) 拝殿に向って左側にある六角型の一基で、無銘であるが、鎌倉風の完美な形をしており、火袋に彫ってある梵字から、かって当社に付属していた神宮寺の遺品であろうと推定されている。 東門(府文化財室町時代) 俗称黒門。鎌倉時代に武家や僧侶の屋敷に賞用された“棟門”(ムネカド・ムネモン)の貴重な遺構で、本柱(円柱)が板蟇股を挟み、唐居敷(門柱を受け、扉の軸を支える矩形の敷石)を備えているところに特徴がある。安定の立場から前後に控(角柱)を設け、いまは四脚門(切妻造本瓦葺)となっている。簡素ながらも伺処となく気品があって、剛健さの中に一種の風格を具えている。 南門(府文化財桃山時代) 俗称赤門。表門。切妻造本瓦葺の四脚門で、総丹塗り。細部の様式手法や絵様等によく時代の特色をあらわし、木割太く堂々とした慶長時代の遺構である。 大阪府枚方市牧野阪2丁目21-15 京阪電車牧野駅東南300メートル 京阪バス停歯科大学前 河州一之宮 片埜神社社務所 電話枚方0720(57)7775 FAXO720(67)1446 社頭掲示板 |
片埜神社本殿 重要文化財 当社は、古くから交野地方の鎖守神として崇敬されておりリ、延喜式には交野二座のうちの一座として記録されている。天正11年(1583)、豊臣秀古は大坂城築城に際し、城の丑寅(東北)に当る当社を鬼門鎮護の社と定めて修築した。さらに慶長7年(1602)秀頼は片桐且元を総奉行として再興した、これが今の社殿で、桃山時代の様式をよく伝えるものとして重要文化財に指定されている。 本殿は三間社流造桧皮葺で、細部にいたるまで桃山時代の華麗な様式をよく示しており、特に四面を飾る蟇股の彫刻に当時の特色を見ることができる。すなわち向拝中央は竹に虎、右はぼたんに小鳥、左はさざんかにひよどり、本殿正面は中央、左右ともぼたん、背面は中央につばき、左にかきつばた、右に菊、東妻は太閤桐西妻は栗と絵画的で精巧な彫刻がそろっていて、見応えがある。 境内の南門は本殿再興後、引続いて造営されたものである。東門は、本来は棟門であって、室町時代の形式をしており府下では類例が少ない。 両門ともに大阪府重要文化財に指定されている。 枚方市教育委員会 社頭掲示板 |
郷社 片野神社 祭神 須佐之男命 櫛稲田姫命 八島篠美神 菅原道眞 垂仁天皇の御宇野見宿根の創祀にかかり、欽明天皇の勅願によりて片野神社と称す(社記)一説、当社は古の郊祀の跡なりといふ(神祇宝典)続日本紀に「桓武天皇延暦4年11月壬寅祀天神於片野柏原」又文徳実録に、「齊衡3年11月壬戌大祓於新成殿前諸陣警戒帝進出庭中、大納言正三位、藤原朝臣良相跪授祀天祝板、左京大夫從四位下菅原朝臣是善捧筆硯帝自署其諱執班北面拝天乃遣大納言正三位藤原朝臣良相右大弁從四位上清原眞忍峯成左京大夫従四位下菅原朝臣是善右中弁従四位上藤原朝臣良縄等向河内國交野郡柏原野設温習礼祠官尽曾」とあり、其後社を建てて祀りしものなりといふ(神祇宝典)醍醐天皇延喜の制式内の小社に列し、祈年祭、鍬靭各一口を加へたまふ(延喜式)年経て後火災に逢ひで堂廊、門垣悉く消滅して一宇を残さざりしを豊臣秀吉の命により社殿を営み、後陽成天皇慶長7年其功を畢ふ、以て大坂白鬼門除のやしろとなす、(社記と河内名所図会所載の一宮神祠碑参取)同時菅公を合祀、祭祀料九千斗を宛てて其儀を盛にす、後又年を経て頻廃せしを寛政8年、本社の祠官九郷の農民と相謀りて社殿を補覆す、当時建立せし碑の銘に曰く、 「一宮神祠人云所知、名與松喬徳與竹滋隠而不温顕而益飴、龍蛇維伏雷露維随雨能降穀水不噛涯、既鎮浪華永護浪華云々」 とあり(名所図会)明治6年郷社に列す、境内1189坪(官有地第一種)、本殿、拝殿其他社務所、舞台、門等の建物を備へ、結構壮麗なり、当社俗に神の宮と称す、八ケ村の産土神たり、(名所図会) 明治神社誌料 |
片野神社 鍬靭 片野は郡名と同じく、加多乃と訓べし、○祭神詳ならず○星田村に在す、今交野明神と称す、(国人井上充武考) 河内志、在坂村、今称一宮、と云り、國人井上充武云、坂村ノ一宮は、慶長年中秀頼公交野に三社を建立し給ふ、坂村一宮、舟橋村二宮、穂谷村三宮等也、然れば旧社にはあらず、星田村も今産土神は住吉社にて、この交野社は小祠ながら、民戸六百余の輩小児出生の時、先此社に詣て後産土神住吉社に参る、これ故實ある事なるべし、決めて片野神社は是也といへり、 神社覈録 |