片埜神社
かたのじんじゃ


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【文化財】

本殿(重要文化財 桃山時代)  三間社流造 桧皮葺 朱漆塗
慶長7年(1602)、豊臣秀頼が片桐且元を総奉行に再建した
(片桐且元自筆の棟札を蔵する)
極彩色と飾り金具の大変美しい大型社殿。
桃山時代の様式手法を今に伝えています。
石造灯篭(府指定文化財 鎌倉時代)
拝殿に向かって左側にある六角型の一基で、無銘であるが鎌倉期の形状・風格を良く留めた完美な形をしており、当代石灯篭の逸品として貴重。
火袋に彫られている梵字から、かつて神社に付属していた神宮寺の遺品と推定されています。
南門(府指定文化財 桃山時代)
正門(俗称 赤門)。切妻造本瓦葺の四脚門で総丹塗り。
慶長の本殿再建と同じ時期のもので、特に装飾など施されていないものの、桃山期の時代特色を良く表しています。
東門(府指定文化財 室町時代)
俗称 黒門。鎌倉〜室町期に武家屋敷に多く賞用された棟門をいつの頃か当社に移築したもので、当神社現存最古の建物である。
本柱が板蟇股を挟み、唐居敷を備えるところに特徴がある。
安定させる為に前後に控柱を設けて、今は四脚門となっているが、簡素ながらも気品と風格を備える府下でも数少ない貴重な遺構である。


片埜神社

由緒
交野台地の一角、牧野阪に鎮座する当社は、延喜式内社の古社であり、素盞鳴尊・菅原道真公を主神として十一柱の神々を奉祀している。第11代垂仁天皇の御代に出雲の国の豪族「野見宿禰」が「当麻蹴速」との相撲に勝ち、その恩賞に、河内国を拝領し、出雲の祖神「素盞鳴尊」をこの地に奉祀して、土師氏の鎮守としたのが草創である。
その後、欽明天皇の勅願をもって、「片野神社」と称し、平安中期の村上天皇天徳四年に「野見宿禰」の後裔「菅原道真公」を併祀した。平安時代は広大なる神域・神領と宏壮な社殿を有し、官幣の社として社運隆盛を極めたが、戦国の争乱で幾度かの兵火にあい荒廃していたのを、豊臣秀吉が修築した。大阪築城の際には艮(東北)の方位に当たる此の社を、錦城の鬼門鎮護の社と定めて尊崇した。
さらに、慶長7年(1602)豊臣秀頼は片桐且元を総奉行として、本殿・拝殿・築地・経堂・別当などを大造営した。現在の本殿・南門がそれである。特に本殿は、桃山時代の建築の粋として、国の重要文化財に指定されている。
往古、この附近は交野ヶ原と呼ばれ、王朝時代大宮人の遊猟の地として歌枕になり、また、桜の名所で世に聞こえたところでもある。「落花の雪に踏迷ふ片野の春の桜がり」とある太平記の一節は、ここ交野ヶ原を詠んだものである。なお、「交野の御社」「一ノ宮」と尊称されて来たこのお社は、桃山時代より、大阪鬼門除・方除・厄除等で知られ、特に家相方位の守護に霊験あらたかな神様として、一般に尊信厚く、遠近からの祈願者が跡を絶たない。

本社は中・近世に専ら「一ノ宮(河州一ノ宮・河内一ノ宮・牧一ノ宮)」又は「一宮牛頭天王(近世)」と称し、正式社名としていた。「片埜神社」の社名を復活したのは明治以降である。なお、本神社を「一ノ宮天王社」と記述(錯誤記述)があるから注意を要する。一ノ宮天王社とは近村に別に存在していた神社である。

大阪府神社庁






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