大井俣窪八幡神社
おおいまたくぼはちまんじんじゃ


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【ご由緒と歴史】

大井俣窪八幡神社(通称、窪八幡)は、清和天皇の勅願により貞観元年(859年)2月23日、宇佐神宮(大分県)の八幡三神を音取川(ねとりがわ、今の笛吹川)の中島の地へ勧請し、その地を大井俣といったことから神社の名称を大井俣大明神と称しました。その後、何回か水害で流されて現在の窪の地へ遷座して窪八幡宮となりました。創建当時の建物の規模は不明ですが、現在の社殿は室町初期から末期にかけて再建されたものです。
窪八幡は八幡信仰の型を整えた山梨県では最古の八幡宮であり、甲斐源氏、特に本流武田家代々の氏神として崇敬されました。

公式HP



【窪八幡の文化財】

窪八幡の建造物は本殿をはじめとして、建造物9棟11件が国指定重要文化財に指定されています。この他に4件が県有形文化財に指定されています。
国指定重要文化財
一、本殿   応永十七年(1410年) 武田信満 再建
二、拝殿   天文三年(1534年)  武田信虎 造立
三、若宮本殿 応永七年(1400年)  武田信満 再建
四、若宮拝殿 天文五年(1536年)  武田信虎 再建
五、武内社  明応九年(1500年)  武田信昌 再建
六、高良社  明応九年(1500年)  武田信昌 再建
七、神門   永正八年(1511年)  武田信虎 再建
八、石反橋  天文四年(1535年)  武田信虎 造立
九、大鳥居  天文四年(1535年)  武田信虎 建立
十、比メ三神 寛永二年(1625年)  徳川忠長 再建
十一、鰐口  天文二十二年(1553年)窪川宮内丞 寄進
県指定文化財
一、如法教塔   天文元年(1532年)  武田信虎 造立
二、木造狛犬六駆 天文十七年(1548年) 武田晴信 寄進
三、境内古図   天文十九年(1550年)
四、鐘楼     天文二十二年(1553年)武田晴信 再建

公式HP



【大井俣窪八幡神社】

当社は貞観元年(859)清和天皇勅願により豊前の国宇佐八幡三神を東国鎮護の神として音取川(笛吹川)の中島大井俣の地に勧請し、大井俣神社と称し、延喜式所載の古社なり。その後水害に依り現在の窪の地に遷座し、窪八幡神社と称されるやうになった。中世以降甲斐源氏一門特に国主武田氏の崇敬篤く社参、或は参籠しての戦捷祈願、報賽のため、代々社壇造営修復等が行はれ、その遺構は尊い室町文化の様を今に伝へてゐる。当社には重要文化財が多数在り、其の宝庫でもある。一、本殿 明治40年国宝指定、昭和25年5月重要文化財と改称。二、拝殿附鰐口。三、若宮八幡本殿。四、同上拝殿。五、武内社本殿。六、高良神社本殿。七、比梼O神。八、神門附石反橋。九、大鳥居。以上二〜九棟共昭和25年5月重要文化財指定、昭和25年〜28年の間第一、二期解体復元工事竣工。鐘楼一宇、狛犬三対六躯、境内古絵図、如法経塔県有形文化財指定。平成23年〜25年の間、本殿・拝殿・若宮拝殿修復工事竣工。

山梨県神社庁



窪八幡神社如法経塔

山梨県指定有形文化財
窪八幡神社如法経塔
管理者 大井俣窪八幡神社
所在地 山梨市北654番地
昭和61年3月19日指定
本塔は、境内の北西端に所在し、上から屋根・塔身・基礎からなる宝形造の石造物です。安山岩製で、屋根の上の宝珠は欠失しており、現存高は1.40mです。塔身内部は空洞となり、正面中央やや下方に円孔が穿たれています。
如法経とは一定の規律に従って法華経などの経文を書写することで、如法経塔はその経文を納める施設です。
銘文は大半が明治の廃仏毀釈で削られていますが、『甲斐国志』に記録されており、それによると本塔は、享禄5年(1532)に、別当上之坊の良舜が本願となり、社家や不動坊・宝林坊などの坊中の協力を得て造立されたと考えられます。また、『王代記』には、大永5年(1525)の条に「甲斐八幡山如法経輦輿寿仙作」とみえ、「輦輿」が本塔を指している可能性もあります。天文22年(1553)の境内古絵図にも本塔が描かれています。 窪八幡神社では、永正13年(1516)の駿河勢の攻撃により建物等が焼失しましたが、武田氏の庇獲のもと十六世紀中頃にかけて良舜を中心に再建が進められ、本塔もその一環で建立されたと考えられます。
山梨県教育委員会
山梨市教育委員会

社頭掲示板



窪八幡神社鳥居

重要文化財
窪八幡神社鳥居
指定年月日 昭和24年2月18日
管理者 山梨市北654番地
所有者 窪八幡神社
神社本紀の記録によると、天文4年(1535)、武田信虎によって42才の厄壌祈願のため鳥居と石僑が建立されたとあり、現在の鳥居はこのときに再建されたものと考えられる。
親柱の前後に面取り角牲の控柱か立ち、親柱と控柱間は上下二本の笠木つき貫を通して連結され、いわゆる両部鳥居または四脚鳥居と呼ふ形式となる。 木材はそのほとんとに目の混んだ杉が使われており、親往を連結する貫だけは節の多い松が使用されている、
高さは約7.41m、横幅が広く約5.91mである。覗柱は太い円柱で直径約55cmあり、自然石礎石上に内側に転び(傾斜)をつけて立てる。柱頂には台輪がつき、島木およひ笠木を受ける。島木、笠木には軽快な心反りがあり、笠木上は屋根板を張り銅板葺とした屋根をかける。島木下方の貫は柱を貫通し、両端の鼻は長く外方に突き出している。島木と貫の中央部には額束を立て、額束正面に「大井俣神社」と文字金箔坤しの木製神額か掲けられている。
この鳥居は、均整のよくとれた形のすぐれている木造鳥居であり、一般的には造替の頻度が多い建造物のため、造立年代が室町時代まて遡る例は珍しく、現存の木造鳥居のなかで最も古い遺構としてきわめて価値が高い。
平成13年3月30日
山梨県教育委員会
山梨市教育委員会

社頭掲示板



大井俣神社

大井俣は於保為末多と訓べし
甲斐名勝志云、玉井郷窪八幡宮、祭神応神天皇、仲哀天皇、神功皇后也、(参考亦同)神人社僧数多あり、相傳延喜式所載大井俣神社也、社記曰、云々、此地に玉の井の旧跡あり、大井俣の地名は東南の方にあり、此邊まで往昔の社領内也と云、」又云、西小原村水宮、相傳延喜式所載大井俣神社也、本朝諸社要覧曰、甲斐國山梨郡井俣之地、有大井俣神社、社記曰、井俣者
跨于眞名井之称、而祭此神不可疑云々、今社ノ傍眞名井之旧跡存ス、往昔地主鎮座の神は八王子権現也、然るに此地音取川の辺なるにより、水神を祭り水難鎮護の社とす、此邊を井俣と云、今は今田と書り、水神鎮坐の後水宮と改、弘治2年神殿修補の棟札には、井俣宮八王子大権現とあり、今窪八幡と共に大井俣神社と云説あれば、何れか是なる事考分ちがたし、
神位 官社
三代実録、貞観5年12月9日了卯、以甲斐國從五位下大井俣神、列於官社、同7年3月26日丁未、授甲斐國從五位下大井俣神正五位下、日本紀略、天慶3年9月4日丙寅、奉授甲斐國正五位上大井俣神從四位下

神社覈録



郷社 大井俣神社

祭神 誉田別命 市杵島姫尊 足仲彦尊 息長足姫尊
創建は社記に拠るに孝謙天皇の御宇、天平勝宝年中五畿七道に勅して、一道に一の八幡神社を建てしめ給びし、其一なりと、当時の祭神は誉田別尊、市杵島姫命の二神とす、其後貞観元年2月23日、從五位上、和気■範に勅して、豊前国宇佐より足仲彦尊(気長足姫命を始め、五男二女の神を遷し合せ祀る、然れども其諸神は後世故ありて社内菱形池のい厳島の社に遷す、往昔社域笛吹川の中島大井俣の地に在り、故に大井俣神社と云ふ、後今の地即ち窪地に遷座す、依て又窪八幡宮と称す云々、(社記)神社覈録に「大井俣は於保為末多と訓す可し、甲斐名勝志云ふ、玉ノ井窪八幡宮、相伝延喜式内社也、又云西小原村水宮、相伝ふ大井俣神社也、本朝諸社要覧云、甲斐国山梨郡井俣の地、有大井俣神社、同記云、井俣者跨于其名井之称、而祀此神不可疑云々、今社傍真名井之旧跡存、往昔地主鎮座の神は、王子権現也、然るに此地音取川の邊なるに依り、水神を祭り、水難鎮護の社とす、此辺を井俣と云ふ、今は今田と書けり、水神鎮座の後水宮と改む、弘治2年神殿修理の棟札には、井俣宮八王子大権現とありと、今窪八幡と共に、大井俣神社と云ふ説あれぱ、何れか是なる事考へ分ちがたし、」と見ゆ、されど巡旧神祠記には、「大井俣神社山梨郡玉井庄八幡村、祭神三座廟主大宮司藤原正武」とありて、此処と定めて云へり、或は又大井俣の神を当社に配祀すとも云へり、即ち地名辞書は之に拠れり、同書に「窪八幡の名祠あり、近世神領二百八十石、一設此八幡を式内大井俣神社に充つるも其説詳ならず、今本社内別に大井俣神を祀る」と云ひ、又大井の地名を挙げ、続日本紀を引用して曰く、「延暦元年山梨郡人鞠部等改本姓、爲大井」とあり、大井俣神社も、此地なるべしと説けり。
さて此の大井俣神は三代実録に、「貞観5年12月丁卯從五位下、大井俣神列于官社、同7年3月丁未授正五位下」日本紀略に「天慶3年9月丙寅正五位下大俣俣神授正五位上」など見えたる名神なり、八幡社としての当社も、亦甚だ観るべきものあり、甲斐國志に、「今は村の鎮守なり、御朱印領二百七十石五斗余、社中三千四百三十二坪、除地的場等備はる、社記に曰く上略最初笛吹川の中島に頓宮を作り、安置す、故に井俣神社と称す、後今の窪地に遷す、故に窪八幡とも称す、上の坊社記に曰く康平中八幡太郎義家奥州より帰陣の時、新羅三郎義光の勧請する所なりと云ひ伝ふ、縁起は永正13年丙子9月28日兵焚に羅り焼失せりと云ふ、大宮司社記に曰く、往古は管だ数百町ありしが、戦国に於て次第に減じ、天正10年壬午織田氏乱入の時に至つて、悉く没牧せらる、然るに東照神君本州を領し給ひ、同11年4月19日御直判にて社領二百貫文の地を御寄附ありしより、宮殿修覆し、祭祀典礼以下旧規を存することを得たり、昔時の神櫻多く生ひ替ると雖も。今尚雲を凌ぐ喬木森々として列立し、州中に比類なき社頭なり、新羅三郎再建以来、享禄4年武田信虎造営、弘治2年甘利左衛門、大永2年より天文22年に至て、武田晴信(以下略)御朱印古文書等は大宮司上之坊隔月に守護す、品目左の如し、天正11年4月19日窪八幡領二百貫文御寄附の判物、寛永19年7月17日社領二百七十石五斗八升朱印状寛文5年7月11日八幡宮領二百七十石五斗余、並社中竹木諸役等免除朱印、此外代々朱印状都合八通、大永3年8月15日五條の法度書、信虎の直判、天正17年11月23日神領面付員数書出伊奈熊藏黒印花押、同19年12月4日神領並屋鋪寄附通奏の直判、同年極月5日神領並屋鋪寄附代官植田玄乗証状、12月12日淺野右近大夫忠吉書簡、8月25日同人書翰。文禄3年2月5日神領分二十俵寄附同人黒印状、慶長2年12月11日神領寄附弾正長政直判、同5年3月6日三條の定書長政直判、2月19日大久保十兵衛書簡、同9年極月13日跡部九郎右衛門小田切大隅守石原四郎右衙門五條の定書、寛永10年6月7日源守昌願書又正殿に所藏の神宝は、霊竹(当社勧請の時生ず根本にて末八本に分る長凡一丈五尺)檜扇、笏、太刀、鞍、鐙(社記云貞観6年御奉納)古額(社記に小野道風筆)三十六歌仙(但し一枚不足、天文14年武田晴信々州伊奈郡箕輪攻の時、立願に付直筆にて奉納と云ふ)陣札(慶長3年3月下旬淺野左大夫高麗陣祈念の為め、大般若経七部転読趣意書、)鷹書(寛文元年甲府殿奉納)三十六歌仙(元緑7年5月前関白殿奉納書は宮方堂上方門跡方各自筆書は生駒等登)等あり、又御井、清水、宮渠、御瀧の四水あり、影向石、攘穢石、秤石、兜掛石、亀甲石の五石あり、又影向櫻は大神影向の霊地に生ぜるが故に名く、今の老櫻は天文中の実生なりと云ふ、太さ凡さ二囲余、八本杉は正殿の後に在り、新羅三郎の手植と云ふ、太さ四囲許なるべし、又王代記と云ふ古書一巻を藏す、其中に州中の治乱を雑記する所あり、之れを他の古文書に校するに、皆徴とすべし、實に珍書なりと云ふ、(甲斐國志)甲斐叢記にも「木工頭從五位上和気擁範に勅して豊前より移し奉り、云々、武田氏世々崇敬厚く、造替美麗なる大社なり、8月15日笛吹川原に神幸ありて、放生曾の神事あり、朔日より神事訖るまで、郷中の産子不浄を禁むる事甚嚴にて死体をも埋めず、産湯をも棄てずとなむ」とあり、此の笛吹川に幸するの事、大井俣に関する事なきか如何、放生曾の事は、八幡大神に關するが如きも、尚其の因る所を究むれば大井俣の疑議、自ら氷解せむも知る可からす、日本地誌提要に「大井俣神社郷社山梨郡八幡北村貞観元年己卯二月創建」などとも見えたり、明治4年社領を上地し、同6年郷社に列す、境内3028坪〔官有地第一種)にして、社殿は本殿、拝殿、渡殿、神饌所、随神門等を具ふ、老樹森々境内頗る幽邃なり。

明治神社誌料






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